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柳生氏
●地楡に雀/二階笠
●菅原氏後裔  
 


 柳生氏といえば、石舟斎宗巌、但馬守宗矩など剣豪を輩出した剣の一族として知られる。
 そもそも柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する山里である。「柳生」は、楊生、夜岐布、夜支布、養父などとも書かれ、いずれも「やぎう」と読む。

柳生氏の登場

 古代の柳生郷のことは明らかではないが、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となったとある。以後、藤原氏の荘園となっていたが、長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させた。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末がこの地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
 やがて、神戸四箇郷は管理者である荘官に押領され、荘官たちはそれぞれ武士化していったようだ。しかし、大膳永家以後の柳生氏代々の動向はようとして知れない。柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。
 元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の檄を発した。いわゆる元弘の乱で、この乱に際して播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。中坊源専は笠置山の南一の木戸の将として幕府軍を迎え撃ち、播磨守永珍は柳生に拠って奈良方面から押し寄せる幕府軍に備えた。
 戦いは柳生兄弟の奮戦もむなしく、天皇方の敗北となり、笠置山は灰燼に帰し、捕えられた天皇は隠岐に流された。柳生一族は柳生の地を没収され、没落の運命となった。それから三年、隠岐から脱出した後醍醐天皇により幕府は倒れ、建武の新政が開始された。ここに、柳生の地は笠置山の戦功によって中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。かくして、柳生氏はふたたび柳生を領して、戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。

大和の戦乱

 大和国の中心をなす奈良盆地は国中(くになか)と呼ばれ、中世を通じて守護は置かれず、代わって興福寺が守護的な立場にあって一大勢力をなしていた。そのため、国中地方では、興福寺の寺僧である衆徒(しゅと)と、春日大社の神人(じにん)である国民が武士として成長していった。衆徒の代表としては筒井氏・古市氏らが知られ、神人では越智氏・十市氏らが代表格であった。
 南北朝の争乱期、興福寺の両門跡である一乗院と大乗院が南北に分裂して勢力を弱め、それが衆徒・国民の勢力を強めることになった。そして、越智氏が南朝方武士の中心勢力に位置し、筒井氏が北朝方武士の中心勢力として、大和国の南北朝の抗争は推移したのである。やがて、南北朝の争乱が終熄して、室町幕府体制が確立されたのちも、越智氏と筒井氏を軸に大和の争乱は続いた。永享元年(1429)、「大和永享の乱」が勃発し、戦乱のなかで越智氏が没落。さらに筒井氏に内部抗争が起り、それに幕府、河内守護の畠山氏らの介入があって、大和の武士たちは離合集散を繰り返しながら抗争を続けた。
 そのような大和争乱のなかで、山城と大和の境に位置する柳生を所領とする柳生氏も安閑とはしていられなかったと思われる。系図によれば、柳生新六郎光家が細川高国に属したとあるが、年代的に疑問が残るものである。とはいえ、応仁の乱後の戦乱のなかで、柳生氏も幕府内の権力闘争と無縁ではなかったことをうかがわせている。
 十六世紀になると、下剋上の横行もあって将軍の権威は凋落し室町幕府体制は大きく動揺していた。柳生氏の動向が明確にあらわれてくるのは、そのような政情下におけるなかで、光家の孫にあたる美作守家巌の代であった。天文五年(1536)、河内半国・山城下五郡守護代を兼ねる木沢左京亮長政が、大和乱入を目論み信貴山に城を構えた。このとき柳生家巌は木沢左京亮に属して、伊賀の仁木氏、大和の筒井氏らと戦った。
 やがて木沢左京亮は、管領細川晴元、三好長慶らと対立するようになり、天文十一年、河内大平寺の戦いに敗れて滅亡した。その後、三好氏の与党であった筒井順昭が大和の木沢残党を攻略しはじめた。天文十二年、須川の簀川氏を滅ぼした順昭は、翌年、一万余の軍勢をもって柳生に攻め寄せた。戦いは小柳生合戦と呼ばれ、家巌・宗巌父子の奮戦で攻防は三日間に及んだが、衆寡敵せず小柳生城は落ち柳生家巌は筒井氏に降った。

戦乱に翻弄される

 柳生氏が筒井氏に従属していたころ、幕府体制は有名無実化し、三好長慶が畿内を押えて幕政を牛耳っていた。永禄二年(1559)、長慶から大和方面の軍事を委任された松永久秀が大和に進攻、信貴山城を修築してこれに拠り、筒井氏ら大和の国衆を攻撃した。この情勢の変化に対して、柳生家巌と宗巌の父子は筒井氏から離れて松永氏に与した。大和の支配に乗り出した久秀は、井戸・万歳・沢の諸氏を破り、永禄六年には多武峰を攻略し、大和国衆を圧倒した。
 その間、多武峰合戦に出陣した柳生宗巌は、傷を負いながらも奮戦、敵味方も舌を巻く活躍を示し久秀から感状を受けている。この戦いにおける勇猛ぶりによって、柳生宗巌の武名は畿内に鳴り響いた。ちょうど、そのようなおり宗巌は、新陰流祖の上泉伊勢守秀綱と出会うことになるのである。すでに宗巌は新当流の名手として知られた存在であったが、秀綱の弟子疋田文五郎と立ち会い完璧に敗北した。以後、秀綱に弟子の礼をとり新陰流の教えを受け、永禄八年、「一国一人の印可状」を授けられるまでに精進した。
 一方、宗巌が新陰流兵法の研鑽につとめていた頃、三好長慶が河内飯盛山城で没し、柳生氏を取巻く情勢も大きな変化をみせていた。長慶の死後、甥で養子の義継が三好氏を継ぐと、松永久秀が家宰として義継を支え、宗巌も三好義継に仕えた。永禄八年、久秀は三好三人衆と結んで将軍足利義輝を殺害、同十年には反久秀勢力である筒井順慶、袂を分かった三好三人衆らと戦い東大寺大仏殿を焼き払った。翌十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀は信長に臣属し、興福寺、筒井氏らの勢力駆逐に奔走した。
 この間、宗巌は久秀に属し、細川藤孝、柴田勝家らが率いる織田軍の大和進攻に際しては、久秀の推挙を受けた宗巌がその先導をつとめている。その後、宗巌は信長に招かれて京都に上り将軍義昭に仕え、但馬守に任じられた。しかし、松永久秀との関係も保持し、元亀二年(1571)久秀が大和辰市において筒井順慶と戦ったとき、宗巌は久秀に味方して奮戦した。戦いは久秀方の敗北となり、『多聞院日記』から宗巌の嫡男新次郎巌勝が負傷したことが知られる。辰市合戦後、筒井順慶は明智光秀を通じて織田信長に降り、大和の戦乱も一応の終熄をみせた。
 天正元年(1573)、将軍足利義昭が信長打倒の兵を挙げたが、あっけなく敗れて降伏、義昭は追放されて室町幕府は滅亡した。ほどなく、世の無常を感じたのか、あるいは期するところがあったのか、宗巌は柳生の地に帰り、以後二十年間にわたって柳生に隠棲して世に出ることはなかった。一説に、宗巌は信長に接近しようとしたが、信長は柳生一族を顧みることが少なかったため失望した宗巌は柳生に隠遁したのだという。

柳生氏、近世へ

 天正十年、本能寺の変によって織田信長が死去し、信長の部将であった豊臣秀吉が天下人として大きく台頭した。秀吉も信長と同様に柳生氏を取り立てることはなかった。信長・秀吉たちは戦略気質の人物であり、剣術のような個人的技術を用いることはなかった。そこに、柳生氏における不幸があったのであろう。
 そして、天正十三年の太閤検地によって宗巌は隠田を摘発され、所領没収の憂き目となった。もっとも、豊臣秀次から百石の扶持を受け、一家離散にまで落ちることはなかったようだ。柳生氏系図によれば、宗巌には嫡男新次郎巌勝をはじめとして五男六女があった。嫡男巌勝は辰市合戦の負傷がもとで不具となり、二男久斎、三男徳斎は出家し、四男の五郎右衛門は小早川氏に仕えてのちに戦死、五男が近世柳生氏の祖となる又右衛門宗矩である。
 文禄三年(1594)、石舟斎宗厳は家康の召しに応じて、自得の剣法を示して賞せられた。家康は宗巌に誓詞を差し出し、兵法師範として直ちに仕えるようにいった。しかし、宗巌は老齢の故をもって辞退し、従えていった又右衛門宗矩を出仕させるとみずからは柳生に帰った。これが、柳生氏が剣をもって世に出るきっかけとなった。
 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に際して、柳生に帰った宗矩は三成方の情報を探って東軍へ送るなど、石田方の後方牽制に活躍した。戦後、それらの功によって柳生旧領二千石を回復、翌年には千石を加増されて三千石を領する徳川旗本となった。さらに徳川秀忠の兵法師範となり、柳生新陰流は徳川家の御流として天下の剣となったのである。
 かくして、宗矩は但馬守に任じられ、二代将軍となった秀忠に新陰流を伝授し、大坂の陣にも軍功があり、剣法のみならず、行政的手腕を発揮して寛永九年(1632)惣目付(大目付)の職についた。その後も累進を重ねて、ついに小さいながらも一万二千五百石の大名柳生家の基礎を築いた。宗矩のあとは嫡男の十兵衛が継ぎ、ついで二男の宗冬、三男の友矩が継いで子孫は明治維新に至った。ところで、宗矩の嫡男十兵衛は諸国武者修業に出て情報収集につとめたとか、隻眼であったとかいわれるが多分に後世の創作であるようだ。
 江戸時代、柳生氏は江戸と尾張の二流に分かれた。幕府に仕えた宗矩の流れを江戸柳生といい、宗矩の兄新次郎の 二男で尾張徳川家に仕えた利厳の流れを尾張柳生氏と称された。祖父石舟斎宗巌の薫陶を受けた利厳は新陰流三世の 印可を与えられ、その技倆は宗矩を凌ぐものがあったといわれている。利厳ははじめ加藤清正に仕えたが、 のち尾張義直の招きに応じて尾張柳生氏の祖となったものである。利厳の子厳包も剣の天才で、晩年に名乗った 連也斎の名で知られる。

参考資料:奈良県史-大和武士-/地方別日本の名族八-近畿編-/歴史読本・柳生一族 ほか】

●柳生氏の家紋─考察



■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』から作成。  


●旧版系図
 


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