柳生氏
地楡に雀/二階笠
(菅原氏後裔)
柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する 山里である。柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の 神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となった。長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である 春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、 小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させたとある。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末が この地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。 元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の 檄を発した。播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。建武の新政が開始される と、柳生の地は中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、 邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。
柳生氏の家紋はといえば、「地楡(吾亦紅=われもこう)に雀」と「二階笠」、副紋に「雪持ち笹」を用いた。 いずれも珍しい家紋で、とくに「地楡に雀」は数ある日本の家紋のなかでも柳生家ただ一氏のみが使用しているもので ある。地楡はバラ科の植物で、「ちゆ」とも呼ばれ、吾亦紅、吾木香とも書かれる。秋に暗紅色の可憐な花をつけ、 「われもこうありたい」というはかない思いをこめて名づけられたという。根は生薬でタンニンを含み、 止血剤として用いられ漢方薬の原料ともなっている。何故、柳生家が地楡に雀を用い出したのかは不明であるが、 地楡のもつ止血剤としての効果が有り難がられた結果かも知れない。一方、二階笠の方は津和野の大名坂崎出羽守直盛から譲られた ものだという。
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写真
:吾亦紅の花
(兵庫県小野市の依藤城近くにて撮影)
坂崎出羽守は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、炎に包まれ落城寸前の大坂城から徳川家康の孫娘千姫を救出した 人物として知られる。俗説では、家康は千姫を救出したものには千姫を与えると約束していたが、直盛に対してそれを 履行しなかった。 この家康の虚言に怒った直盛は千姫の輿入れ行列を襲おうとしたというのが、「千姫事件」というがもとより信じられ ない。一説にいうところの、直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、幕府は本多忠刻との話を 進めたので、怒った直盛が千姫の行列を襲おうとしたとする方が話としては頷ける。いずれにしても、坂崎直盛は幕府に 対して武士の一分を通そうとしたものであろうが、幕府に対する謀叛とされたのも仕方がなかった。
この千姫事件に際して、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、その説得にあたらせた。宗矩の武士らしい説得に 感じた直盛は、その説得を受け入れると自刃して果てた(異説もある)。このとき、直盛は宗矩の労に謝して 「二枚笠」の紋を贈ったのだという。以後、柳生家は二枚笠を紋として用いるようになったと伝えている。
ところで、柳生氏の場合、本姓菅原氏といいながら梅鉢紋を用いた形跡はない。中世における「家」と「紋」の関係を 考えたとき、柳生氏の出自は果たして菅原氏なのか?という疑問が生じてくる。しかし、菅原氏から分かれたという 中坊氏は梅紋を用いており、柳生氏も梅紋をもちいた時代があったのかも知れない。
【掲載家紋:二枚笠 /雪持ち笹 /中坊氏の繋ぎ梅鉢】
■柳生氏の家伝
■中坊氏の家伝
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を
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