渡瀬氏
一つ目結(釘抜?)*
(武蔵七党横山氏流/新田氏族・佐々木氏流)
*渡瀬繁詮が自害してのち、渡瀬氏の遺領を継いだ有馬氏の軍旗より。
渡瀬氏の遺領を継承した有馬氏は渡瀬氏の軍旗も引き継いだと思われ、その旗紋を渡瀬氏の家紋と推量した。
江戸時代に久留米藩主となった有馬家では、釘抜紋を替紋の一つとしている。
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戦国時代、岩松氏の執事から身を起こし、下剋上によって主家を没落させ戦国大名となった横瀬氏がいた。
成繁の代に足利将軍義輝から書を賜って横瀬を改め由良を名乗るようになった。永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(上杉謙信)に
金山城を攻められ景虎に従うようになった。成繁には嫡男国繁を頭に、長尾顕長・矢場繁勝そして渡瀬繁詮と
系図上で四人の男子があった。
成繁のあとを継いだ国繁は上杉謙信に属し、その武勇は謙信に舌をまかせるほどであったというが、
永禄九年(1566)に後北条氏に属するようになった。その後、横瀬由良氏は後北条氏の圧迫に抵抗したものの、
天正十二年(1584)、後北条氏の攻撃によって金山・館林両城を開き退去するにいたった。以後、横瀬由良国繁・長尾顕長
兄弟は後北条氏に仕え、天正十八年(1590)の小田原の役では兄弟ともに小田原城に籠城した。
一方、繁詮も後北条氏に仕えていたが、やがて上方に上って羽柴秀吉の家臣になった。天正十三年(1585)三月の
秀吉による紀州根来攻めに従軍し、羽柴秀次に属して和泉千石堀の戦いで戦功をあげた。その後、秀吉の命で
豊臣秀次付の家老となり、同十八年、小田原征伐にも参加した。戦後、遠江横須賀城を与えられ、三万石(のち五千石を
加増)の大名に抜擢された。
繁詮ははじめ横瀬氏を称し、のちに渡瀬(わたらせ)を名乗るようになった。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、
「新田族譜」という本をひいて、渡瀬詮資のところに「渡瀬又四郎、遠州渡瀬村に住す、母は有馬豊氏の女」とある。
渡瀬詮資は繁詮の男子だが、遠州渡瀬村の比定地は明らかではない。また、繁詮は詮繁と書かれることもあり、
別に氏繁・繁勝・重詮とするものもある。
はかない栄耀栄華
遠江横須賀の領主となった繁詮は、千利休に茶道を学び、高山右近と知己でキリシタンであったともいう。一方、詮繁の領内統治には失政が多く、年貢率を上げ、また領内にいろいろな課役をかけたため、訴えられることもあった。しかし、暴政を布いたという逸話は「キリシタン=圧政者=改易」という単純な図式からもたらされたとするものもある。
繁詮は豊臣大名の一人として、文禄元年(1592)の文禄の役には広島城に駐屯、同三年の伏見城工事に携わるなど賦役に活躍した。ところが、文禄四年に起った関白秀次事件に連座し、改易処分となった。そして、常陸の佐竹義宣に預けられることになった繁詮は、旅の途中の碓氷峠で自刃したと伝えられている。わずか、一代の栄耀栄華であった。
なお、横須賀城と三万五千石の所領は、詮繁の家老であり岳父であった有馬豊氏にそのまま安堵され、渡瀬氏の家臣も
すべて豊氏に付き従った。形としては、秀次事件に連座した詮繁のあとを、そっくりそのまま有馬豊氏が継いだことに
なった。詮繁は有馬豊氏の女との間に又四郎詮資をもうけていたたというが、所領はこの詮資に相伝されなかった。
秀吉にすれば、時代は戦国の余塵のなかにあり、徳川家康への押えという意味からも年嵩の豊氏を渡瀬氏の後継と
したのであろう。
その後、有馬豊氏は秀吉に直仕し、秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いには東軍に属して出陣した。そして、
戦後、丹波福知山六万一千石、子の代には摂津領を加えて八万石の大名となった。さらに、大坂冬・夏両陣にも従軍した
有馬氏は、元和六年(1620)九州久留米へ移封され、一躍二十一万石の大大名に飛躍したのである。以後、有馬氏代々は
久留米城に住して明治維新に至った。
上記の通り、横須賀三万五千石の大名となった渡瀬氏に関して、由良横瀬氏から分かれたとするものが通説となっている。
しかし、豊臣秀吉に仕えるようになったきっかけ、摂津有馬氏との関係など腑に落ちないところがある。
播磨渡瀬氏の存在
東播磨の一角美嚢郡吉川町に渡瀬というところがあり、そこに戦国時代の平山城址があり、その城主は渡瀬氏を
称していた。渡瀬城主の渡瀬氏は佐々木氏の祖秀義の末男に生まれた源十郎義範に始まるといい、義範は秀義が
源頼朝から与えられた播磨吉川庄を譲られて来住、地名をとって渡瀬氏を名乗ったと伝えられる。室町時代
の明徳二年(1391)に起った明徳の乱に渡瀬右衛門綱光が活躍、戦後、将軍義満から摂津・播磨の境に二万石の領地を賜り、
渡瀬に渡瀬城を築いてみずからの本拠とした。その後、乱世を生き抜き、渡瀬小治郎好光のとき羽柴秀吉の
中国攻めに遭遇した。
秀吉が干殺しにして落とした三木城合戦が起こると、小治郎好光は別所氏から妻を迎えていたこともあって
別所方に味方した。そして、弟左馬介に兵を添えて三木城に送り込むとみずからは渡瀬城に立て籠もった。しかし、三木城が落ちる前に
秀吉の大軍に攻められて落城、伊丹の荒木村重をたよって落ち延びた。ほどなく、敗残の身を預けた荒木村重が
織田信長に謀反を起こすと、妹が嫁している京の本庄周防守のもとに身をよせた。
やがて三木城が落ちると
羽柴秀次に仕え、有馬豊氏の娘を後妻に迎えた。そして、天正十年(1582)、本能寺の変で信長が斃れ、
山アの合戦が起こると秀吉方として出陣、手柄を立てたという。天正十八年、小田原の陣に参加、戦後、徳川家康が
関東に移封されると、遠江横須賀三万石を与えられ渡瀬左衛門佐重詮と名乗った。そして、秀吉の覚えもめでたい
有馬豊氏が家老として重詮を支えたのであった。
翌天正十九年、豊臣秀次が聚楽第留守居に任ぜられると、中村式部少輔・山内対馬・池田三左衛門らとともに
与力大名となった。ところが、文禄四年(1595)、秀吉の怒りをかった関白秀次が高野山に放逐されたうえに
切腹の処分を受けた。好光も秀次付きの大名としてこの事件に連座となり常陸国に流され、遠江横須賀の領地は
岳父である有馬豊氏に与えられた。
その後、好光は下野宇都宮において自害したため、渡瀬氏はまったく改易となってしまった。
子の忠好は大坂の陣に際して大坂城に入り天王寺の戦いで討死、子の忠宗は渡瀬において帰農したという。
■播磨渡瀬氏参考略系図
渡瀬氏の名残
渡瀬氏の旧臣の多くは有馬氏に仕え、有馬氏が久留米二十一万石の大名に出世すると久留米に移住していったと
伝えられている。先にも記したとおり、有馬氏は旗印に釘抜紋をつけているが、おそらく渡瀬氏の旗印を受け継いだ
ものであろう。そして、釘抜とはいうが、
渡瀬氏が佐々木氏流を称していることから「平一つ目結」紋であったと思われる。
渡瀬氏の場合、由良横瀬氏流とするにはいささか無理があり、当時の状況、旗印などの傍証から播磨渡瀬城主の渡瀬氏で
あったとする方が、話はスッキリとするのだがいかがだろうか。その真偽はにわかに見極められないが、
有馬氏の運の良さと、旧主であった渡瀬氏の不運をみたとき、人の世にはなんとも抗いがたい運命があることを
感じさせる。
・2010年08月25日
渡瀬氏の家紋を探る
渡瀬氏の家紋に関しては、大須賀町の三熊野神社に渡瀬氏が寄進した幕があり「大根丸」が
据えられているといい、境内の石灯籠にも同紋が刻まれている。しかし、写真を見たところ
「大根丸」は「三つ丁子巴【左】」の誤認であるようだ。一方、「吉川町誌」の渡瀬小次郎の項には
渡瀬氏の家紋は「三つ藤」を用いたと記されている。三つ藤の出典・意匠は明記されていないが、
なにやら三つ丁子に通じるようで出典と意匠が気にかかる。また、静岡県在住の渡瀬氏から、
大根の家紋【右】を用いているという情報をいただいたが、こちらは「大根の丸」に通じるものがあり
渡瀬氏の家紋の特定は一筋縄ではいきそうにない。
●横瀬(由良)氏
●有馬氏
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
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・備前/備中/美作
・鎮西
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
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