横瀬氏
五三の桐/二つ引両
(武蔵七党横山氏後裔/新田氏族)
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横瀬氏は小野姓で、武蔵七党の横山・猪股党の一族であった。同氏は猪股党の甘糟光忠の子惟忠が横瀬を号した。惟忠は足利氏の被官で、鎌倉時代後期の足利氏所領奉行人注文のも見える。彼は、新田庄横瀬郷を本領としたが、同郷は上野国内にありながら、同庄高島郷とともに利根川を隔てて武蔵国側にあった。その横瀬氏の時清の婿として入ったのが、新田義貞の子(義宗の子とも)貞氏であった。
新田氏の故地に所領を賜る
貞氏は上杉禅秀の乱で鎌倉公方足利持氏に従い、その功によって新田庄内の地を与えられたという。その頃、鎌倉府の使節を務めたものに横瀬美作守がいるが、貞氏との関係は明らかではない。その貞氏の子良治が岩松家純に属した。家純は父満純が禅秀の乱で禅秀方に与して討死し、家督は満国の外孫持国が継いだ。幼い家純は美濃守護土岐持益のもとに隠れ、のち将軍足利義教に召されて上洛し、長純と名乗り、永亨の乱の時、京勢として関東へ下向した。良治が家純に属したのは、その頃であろう。
宝徳元年(1449)足利持氏の遺子成氏が鎌倉公方に迎えられたが、亨徳三年(1454)成氏は関東管領上杉憲忠を殺害し。そのため亨徳の大乱が勃発し、成氏は下総国古河へ逃れた。横瀬貞国(良順)は、家純の代官として出陣し、武蔵国須賀合戦で成氏方と戦って討死した。
文明元年(1469)、家純は五十余年ぶりに本領の新田庄へ入部し、国繁をして同庄内の金山に城を築かせた。同四年、国繁は下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を掲げた。そして、同八年、山内上杉顕定の執事長尾景信の死後、山内家家宰職をめぐって景信の子景春が顕定に叛した。その頃、武蔵国五十子陣に上杉勢とともに出陣していた岩松家純は、景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。その家純の子明純に顕定は下野国足利庄などを与えた。この地は家純が領有していたらしく、これを契機に家純は、明純を勘当し、以後古河公方成氏の陣に加わった。その後、成氏と上杉氏が和睦した時、武蔵国幡羅郡に在陣中の上杉定正の執事大田道灌は金山城に国繁を訪れている。
家純に勘当された明純は文明十二、三年頃、幕府の相伴衆に見えている。そして、それまで将軍家奉公衆にまったく見えなかった横瀬氏が長享元年に至って突如として「奉公衆五番」に見える。これは明純に従って上洛した横瀬氏の一族とみられる。
一方、家純は一族被官を集めて、神水三ケ条を誓約させ、明純の勘当と壁書の執行者として国繁を指名した。これによって国繁の岩松家執事としての地位が確立した。
下剋上で戦国大名に
永正年間、古河公方政氏・高基父子の間に不和が生じ、横瀬景繁は高基に従い、上杉憲房の代官長尾景長から所領を与えられている。大永三年(1523)十二月、武蔵国埼西郡内の須賀合戦で、景繁は討死した。その後、横瀬氏の専横を憤った岩松昌純は、陰謀を企てて、横瀬泰繁に攻められて自害した。昌純の家督を継いだ氏純も、ますます横瀬氏の圧迫を強く受け、ついには自殺してしまった。
こうして、金山城主として覇権を確立した横瀬成繁(泰繁)は、天文五年(1536)御家中と百姓仕置の法度を定めた。その施行を奉行したのが林弾正忠・同伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らであった。天文二十一年(1552)将軍足利義藤(義輝)は三条西実澄を派遣し、関東の諸士に禁裏修理の費用を進献するよう勧めた。成繁にも御内書が下され、それに応じたのであろう。翌年、義藤は成繁が不遇であることを聞き、鉄砲を与えている。
このように下剋上で主家岩松氏を取って代わって、横瀬氏は戦国大名として成長していった。やがて、永禄元年(1558)、越後の上杉景虎が上野国新田に出張し、金山城を攻めた。成繁は和を請い、人質を差し出している。同三年、上杉姓の襲名と関東管領職拝賀のため、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した景虎に多くの上野国内の諸将が味方した。横瀬氏も味方に参じ「新田衆」として、成繁を筆頭にその家臣団が『関東幕注文』に記されている。この頃、成繁は横瀬から由良に名字を改めている。
その後、永禄九年(1566)、上杉輝虎に叛して北条方へ寝返った。以後、北条方として武田氏の駿河国侵攻に際しては、上杉・北条和睦の使者としてしばしば上杉方を訪れている。元亀三年の上杉謙信の関東出陣、天正十年織田方の部将滝川一益が上野国と信濃国佐久・小県両郡を与えられ、上野厩橋城に入った。この時も北条方として行動した。
戦国大名、由良氏の終焉
天正十二年(1584)、北条氏政は由良国繁・長尾顕長兄弟に金山・館林両城の明け渡しを命じたが。兄弟がこれに応じなかったためこれを攻め取った。そのため国繁は桐生に顕定は足利に退いた。秀吉の小田原征伐には、兄弟ともに小田原城に籠った。小田原落城後、豊臣秀吉に属し、秀吉没後は徳川家に属し、関ヶ原の合戦には東軍の一員として参加。戦後七千石の地行を与えられた。子孫は幕府高家に列した。
ところで、猪股時兼の子男衾野五郎の孫重政も横瀬を称している。重政のあと連綿して経氏に至り、経氏の養子として新田氏から貞氏が入ったとする系図もある。甘糟氏から出た横瀬氏と男衾氏から出た横瀬氏と二つの横瀬氏があり、いずれもが新田氏から養子を迎えたとする。いずれが正しいのかは今となっては詳らかにすることは難しいが、武蔵七党小野姓横山党の後裔であることは間違いないようだ。
→●詳細ページ(由良氏)へ
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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