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有馬氏
●三つ巴
●村上源氏赤松氏流  
 


 摂津国有馬郡は、鎌倉時代以前より都に近いこともあって、皇室や公家の荘園が多く、南北朝時代初期には南朝の勢力下にあった。建武四年(1337)兵庫湊川の戦いで楠木正成を破った足利尊氏はその論功行賞として、赤松円心の長男範資に有馬郡を含む摂津守護職を与えた。翌年範資は弟の則祐に命じて有馬郡の南朝方を鎮圧、以来、摂津守護職の交代はあったが、戦国時代に至るまで有馬郡は赤松氏とその庶流有馬氏が分国守護として支配した。
 有馬氏の祖は出羽守義祐で、赤松則祐の五男、あるいは六男といわれる。康暦二年(1380)五月、播磨国守護代有野状に大徳寺待者禅師御報、源義祐とあるように、守護代赤松義祐の存在が知られる。
 明徳二年(1391)十二月、山名氏清一族が反乱を起こした「明徳の乱」」に際して、赤松惣領義則は一族を率いて奮戦、義祐の兄満則が戦死するなど、赤松一族は大きな犠牲をはらった。戦後、赤松一族に対する恩賞として、義則は幕府より美作国守護職に補任され、播磨・備前とあわせて三ケ国の守護大名となった。そして、義則は戦死した満則の嫡子満政に摂津国中島郡を与え、義祐には有馬郡を与えた。これにより、義祐は守護代より有馬郡守護となり、赤松惣領家の最前線を担った。

赤松惣領家滅亡

 応永二年(1395)義満の出家に殉じて義則が出家し、満祐が赤松惣領になると、義祐は赤松庶流家のなかでも重きをなし、惣領家同様守護大名として将軍家に仕えたのである。応永二十八年(1421)、義祐は若党のために不慮の死をとげ、嫡子の持家が有馬氏の家督を継いだ。義祐なきあとも、領国経営は奉行の小野四郎左衛門入道、松原六郎左衛門尉が補任し、崩れるところはなかった。
 嘉吉元年(1441)六月、赤松満祐が将軍足利義教を謀殺し播磨に下国した。このとき、庶子家の赤松貞村・有馬持彦・赤松満政・有馬持家らは京都に残り、幕府の満祐追討軍に加わり播磨に下った。満祐滅亡後、播磨・備前・美作の守護職は召し上げられ、赤松t嫡系より幕府に仕える者もなく、これを憐れんだ管領畠山持国は赤松満政に播磨東三郡の采地を与えた。嘉吉の変によって赤松惣領家は没落したが、有馬持実(持家)はそれに連座することなく有馬郡守護職は安泰であった。
 赤松氏没落後の播磨国守護には山名持豊が補されたが、持豊は播磨東三郡守護赤松満政の存在を快く思わず、幕府に圧力を加えてこれを取り上げた。満政はこれを奪回せんとして、文安元年(1444)に挙兵したが満政は敗れて有馬持家を頼った。持家は満政を援けて挙兵したが、細川勝元が山名持豊を助けたことから、赤松方は散々に打ち破られて大敗した。これを期に持家は満政父子を討って自家の安泰を図ろうとしたが、幕府から赤松満政に与した責任を追求され、持家は隠退を余儀なくされた。
 持家隠退のあとは嫡男の元家が継いだ。元家は「嘉吉の乱」では父とともに赤松討伐軍に加わり、播磨国明石郡和坂の合戦で奮戦した。宝徳二年(1450)父持家が没したことで、名実ともに有馬郡守護となった。
 享徳三年(1454)、播磨に逃亡していた赤松義則の二男祐尚の子則尚を将軍足利義政にとりなし、則尚の赦免に尽力した。この処置に対し山名持豊は義政を非難したことで、義政の怒りをかって本国に蟄居となった。この隙に則尚と元家の弟豊則らは播磨に下って兵を集めた。康正元年(1455)四月、則尚らは国人らを味方につけて、山名持豊の孫政豊を攻めた。しかし、赤松方は大敗し、元家は則尚の反乱に加担した罪を問われて出家遁世を命じられ、有馬氏の家督は一族の有馬持彦が嗣いだ。その後、妹が将軍足利義教の側室であった縁故から、元家は将軍の御供衆に復活している。
 応仁元年(1467)、有馬持彦が御役御免となり、持彦の息子直祐が伊勢に下っている留守中に元家の子則秀が旧領を取りかえし所領とした。その後、元家は流浪の足利義視を通じて赤松惣領を要望し、義視擁立を画策したことが発覚、足利義政は赤松政則に命じて元家を誅殺させた。
・右:有馬元家の家紋


戦乱の時代

 文明二年(1470)則秀は有馬郡中庄内霜台田地二町を播州清水寺に寄進した。このことは、有馬郡守護であるものが発給するものであり、元家の跡を則秀が継いで有馬郡守護となったことが知られる。
 赤松氏と山名氏は、明徳の乱(1391)、嘉吉の乱(1441)、応仁の乱(1467〜)において、互いに領国を奪いあった。いわゆる因縁の宿敵関係にあり、播磨・備前・美作を失った山名氏は三国を奪回する動きに出た。文明十五年(1483)十一月、備後守護山名俊豊は備前の松田元成と結んで、赤松氏の備前守護所福岡城を攻撃してきた。福岡城を守る浦上氏、櫛橋氏らはただちに政則に援兵を頼み、山名・松田連合軍の攻撃を防戦した。福岡城の急を聞いた政則は、一気に但馬の山名本国を衝く作戦をとった。老臣たちは福岡城の救援を求めたが、政則はそれを無視して播但国境の真弓峠に出陣、山名政豊と戦い大敗を喫して姫路に逃げ返った。
 この政則の失策は、国人層の離反を招いた。翌十六年正月、所司代として京都にいた浦上則宗が急ぎ播磨へ下向してくると国人領主の多くが則宗のもとに参習した。一方で、宇野下野守(赤松政秀)を盟主とする動きもあった。また、赤松一族である在田・広岡の両氏は、赤松播磨守の息子を擁し山名氏に与している。有馬右馬助も山名方に属しており、赤松方は四派に分裂した。そんななかで、政則に付き従うものはわずかとなり、身の危険を感じた政則は和泉国堺へと逃亡した。
 赤松家の実権を掌握した浦上則宗は諸将と会談し、政則を廃して、赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がしめようとした。二月、浦上則宗・小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実の五人が連署して、室町幕府(将軍足利義尚)にこれを願った。そして、幕府はこれを承認した。山名政豊は、赤政政則と浦上則宗との矛盾に乗じて、播磨に攻め入った。これと戦い敗れた赤松家臣団は、ふたたび政則を盟主に奉じたことで、慶寿丸の赤松惣領職は日の目を見なかった。
 明応四年(1495)九月、有馬郡の知行をめぐって則秀と則家が互いに争い、則家を赤松政則が支援したが、翌年、政則が没したことで内紛も大事には至らなかった。同八年五月、則秀は剃髪して隠居し性源と号し、家督を又次郎澄則に譲った。

畿内の争乱

 このころ、摂津国守護職細川政元家は内紛がつづき、その内紛に有馬郡も巻き込まれつつあった。当時、政元政権は安富・薬師寺らの老臣と評定衆により支えれていたが、家臣団の内部抗争や摂津・丹波の国衆らの不満といった不安定要素を内包していた。しかも政元は修験道にこって妻帯せず、二人の養子をとっていた。さらには政務も省みなくなり、政務を近臣に委ねるようになったことから近臣の抗争は激化していった。
 かくして、細川家臣団は内部抗争を繰り返し、摂津国は一時錯乱状態に陥り、有馬郡も例外ではなく、細川京兆家の勢力が隅々まで浸透してきた。ちなみに摂津守護職の内紛は、永正五年(1508)一年の間に、政元〜澄元〜澄之〜澄元〜高国と目まぐるしく変わり、在地の国人・地侍層はそのたびに去従に苦しんだ。
 有馬氏は則秀の代までは、代々有馬郡地頭職として摂津守護職より分離していたが、澄則の代になると摂津守護職細川政元の国衆の一人として有馬郡を治めるようになった。澄則は池田貞正らと細川澄元方につき、永正五年十月、高国方の瓦林政頼・伊丹国扶・塩川孫太郎らと戦った。そして、この戦いにおいて澄則は戦死したようである。
 澄則の戦死後、村則が有馬氏を継いだ。ところで、村則に関しては、有馬氏系図には見えず、僅かに淡河氏系図に則秀の子とみえ、村則は澄則の弟として記されている。これは澄則が若くして戦死し、村則は祖父則秀に育てられ、則秀の子として系図に記された結果と考えられる。
 永正十六年(1519)、阿波で体制を立て直した細川澄元が兵庫に上陸、有馬村則は澄元軍に合流して、細川高国方の瓦林政頼と戦った。翌年、敗れた高国は近江に敗走したが、佐々木六角定頼の援助を受けてふたたび京都で決戦におよび、三好之長は戦死、澄元は阿波に逃れ失意のうちに病没した。澄元方の村則は去従に苦しみ、結局、高国に恭順の意を表わし有馬郡は安堵された。
 その後も、摂津・丹波の地で争いは絶えることはなく、村則の消息は知られなくなる。代って、村則の子とされる村秀が登場する。宝鏡寺文書には赤松又次郎村秀とみえ、のち有馬民部少輔村秀と官位をもらって幕府奉公衆の一人として出仕している。

戦国時代の終焉

 天文十九年(1550)八月、村秀は名塩教行寺に寄進状を与えており、村秀が有馬郡主の地位を継承したことが知られる。だが、前述のように村則.村秀ともに『有馬系図』にはまったく見えない。古文書にその名を記されているのに系図には無いという不一致は、戦国末期における有馬氏の動向をはなはだ不明確なものとしているのである。
 永禄元年(1558)、舟坂の大屋四郎兵衛が山論に事よせ、村秀を逆恨みし湯山古城に攻めてきたが、村秀はこれを討ちとり大事には至らなかった。翌年六月、奉公衆として出仕する村秀は、三好長慶が摂津国の国人衆を率いて河内守護畠山高政と守護代安見直政を攻めたとき、有馬衆を率いて三好方に合力して戦った。そして、この戦いにおいて戦死したようである。このことは史料にはみえないが、翌永禄三年、有馬四郎が有馬郡主となっていることからうかがわれる。有馬四郎も系図類にはみえないが、村秀の子国秀と同人物ともいわれるが、花押などから、国秀とは別人で村秀の弟だったものと推測される。
 永禄十一年(1568)八月、有馬国秀は伊丹親興・茨木佐渡守・和田伊賀守らと稲寺で池田勝政と戦って敗れるが、九月、織田信長の摂津進撃に呼応し池田勝政に抗戦した。その後池田氏が降伏したことで、摂津一国の国人ほとんどが信長の支配下に入り、国秀も信長から有馬郡の地を安堵され、清水寺に霜台田を寄進した。これは、守護権行使を示すもので、国秀が有馬郡主となったことが知られる。
 天正二年(1574)十一月、荒木村重が摂津一国の国主となり、中川・高山氏らを従えて、高槻・多田・三田・有馬の諸城主は村重に服従した。国秀も村重に恭順の意を表わし、村重は妻の妹を国秀に嫁がせ、有馬氏も安泰かに見えた。ところが翌年七月、村重は国秀に不義があるとして有岡城に呼び寄せ、是非を糾明した。これに対し国秀は、身の潔白を表わすために、その場で自害してしまった。国秀には子供がなく、有馬義祐より連綿と続いた名門有馬氏嫡流は断絶した。

久留米藩主-有馬氏

 国秀が自害し有馬氏嫡流が断絶したころ、本貫地を播磨国淡河におく有馬重則の子則頼が有馬郡に進出してきた。
 則頼は、細川澄元の女を母として生まれ豊臣秀吉に仕え、天正五年の播磨征伐に加わっている。三木城落城後、淡河城主となって一万五千石を領した。天正十五年の九州征伐、二十年の文禄の役にも従った。慶長六年(1601)、旧領摂津国有馬郡の内において二万石を賜わって三田城に住した。
 則頼の子豊氏は、渡瀬詮繁の家老を務めていたが、詮繁が文禄四年(1595)関白秀次の事件に連座し、改易処分となったことにより、詮繁の所領であった横須賀城と三万石は有馬豊氏にそのまま安堵された。同時に渡瀬氏の家臣もすべて有馬豊氏につき、形としては秀次事件に連座した詮繁のあとを、そっくりそのまま有馬豊氏が継いだことになった。
 有馬豊氏はその後、秀吉に直仕し、秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いには東軍に属して出陣した。そして、戦後、丹波福知山六万一千石となり福知山城に住した。慶長七年には、父・則頼の遺領を併せて八万石の大名となった。
 子の代には摂津領を加えて八万石を食んだ。さらに、大阪の陣には両度とも参陣し、夏の陣では首級五十七を獲っている。元和六年(1620)九州へ移封、一躍二十一万石の大名となり、久留米城に住して、子孫襲封して明治維新に至った。この運の良さは何だろう。・2004年09月08日→2005年03月15日

参考資料:赤松有馬氏年譜(兵庫県立図書館蔵)/摂津郡誌 ほか】


■参考略系図


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