亘理氏
九曜(月星)
(桓武平氏千葉氏族)


 亘理氏は桓武平氏千葉常胤の三男胤盛が武石を称し、のちに奥羽の領地に下向した一族が亘理氏を称したことに始まる。千葉氏からは多くの一族が派生したが、千葉氏宗家と相馬・大須賀・武石・国分・東氏の六氏をとくに千葉六党と称される。また、源頼朝の奥州征伐で奥州藤原氏が滅亡したあと、千葉六党をはじめ千葉一族の多くが奥州に移住し、長坂・亀卦川・大原・矢作・星などが分かれ出た。
 千葉氏の月星紋は妙見信仰から生まれたもので、伝承によればむかし平将門とともに兵を挙げた先祖の平良文が窮地に陥ったとき、空から星が降ってきて、それに力を得た良文は戦に勝利したことにちなむという。以後、良文流の諸氏が家紋に用いるようになり、その宗家にあたるのが千葉氏である。千葉一族は、共通して星辰(日月・月星)紋を用いたが、惣領家と庶子家とで家紋を使い分けがなされていたようで、一族の紋は「九曜紋」「七曜紋」などの多曜紋が多かった。




【掲載家紋:九曜/八曜/七曜】

 亘理氏は戦国末期に伊達氏から養子を迎えたことで、子孫は仙台藩主伊達伊達氏の一門に連なり湧谷伊達氏となった。この湧谷伊達氏に伝わった『湧谷文書』のなかに、「御幕紋之儀ニ付下総国ニテ千葉 妙見之縁起図并ニ公儀エ被仰上候品有リ」と題する文書がある。
 この文書は、仙台藩主伊達一門の湧谷伊達氏の当主であった伊達宗元が、幕を新調するにあたって下総国千葉村に使者を派遣して千葉氏の家紋の調査をした報告書である。宗元は元禄元年(1688)、仙台伊達氏より日光東照宮の修理の総奉行に任命されたが、仙台藩主伊達綱村は工事の際に掲げる幕の「紋」に仙台伊達氏の「竹ニ雀」の紋に加えて千葉家の家紋を用いるように命じた。しかし、伊達氏の一門となって以来、千葉氏の家紋とされる月星紋から伊達氏の紋であった「竹ニ雀紋」に替えていたため、千葉氏の家紋の意匠は不明となっていた。このため、宗元は千葉氏の家紋の紋形を調査するため、元禄二年正月二十三日、家臣を下総の妙見寺に遣わして調査を実施したのである。
 家臣らは、千葉妙見宮の別当寺であった尊光院に赴き、妙見宮内に安置されていた妙見の「正躰」の左右の紋と千葉の在々で妙見祭の際に使われていた紋を調査した。その結果「正躰」の左右の神紋は「九曜之様成十曜又中ニ半月ニ九星二色ニ御座候」と書かれ、中央は満月もしくは半月で周りに九星を配した「十曜紋」であった。このうち「正躰」の右紋は金紋であり、斗帳や仏閣などの紋は中央が満月であったと記している。
 そして、調査にあたった湧谷伊達氏の家臣は「報告書」において、この紋を家紋とすることを進言しているのである。また、「妙見御祭節在々所々ヨリ氏子上候ニモ半月ニ壱ツ星ニ御座候」とあり、氏子が祭には白地に「半月に一つ星」の紋を付けた旗を掲げていたことが記されている。かくして、中世における千葉氏の家紋に関する調査の次第が、『湧谷文書』の中に残されることとなったのである。





【掲載家紋:三日月に九曜(日月)/真向き月星紋/三日月に一つ星】


■亘理氏


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