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和賀氏
●笹竜胆
●源頼朝落胤/武蔵七党横山党後裔?
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和賀氏は、嫡系の後裔とされる仙台藩士和賀氏の伝承によると、源頼朝の庶子忠頼から起こるとされる。すなわち頼朝が配流中の伊豆国にいたとき、伊東祐親の女との間に生まれたのが忠頼という。忠頼が三歳のとき、祐親は平氏を恐れて家臣の斎藤兄弟に命じて忠頼を棄てるように命じたが、斎藤兄弟は忠頼を相模国曽我に匿い、春若丸と称したという。
建久八年(1197)に頼朝は春若丸を奥州南部和賀郡に封じ、多田式部大輔忠頼(頼忠とも)と改めさせた。以後、代々「和賀ノ御所」と称せられたとされる。しかし、和賀氏の出自には異説も多く、頼朝子説はにわかには信じられない。一説に、多田行国の子行義が和賀を称したことに始まるとするものもある。
和賀氏の出自を探る
和賀氏が和賀を称したのは、郡名にちなんでいることは疑いない。和賀氏の系図のなかには、平泉藤原氏が存在していたころから、和賀郡の岩崎城に拠り、和賀氏を称したとするものもある、しかし、その系図は近世になって書かれたものでそれを裏付ける証拠はない。
文治五年(1189)、頼朝が平泉藤原氏を征伐して、その領土を占領し家臣に分与したことは『吾妻鏡』に記された史実であり、その『吾妻鏡』の建長八年(1256)の条に和賀氏の名がみえている。和賀三郎兵衛尉と和賀五郎右衛門尉の二人で、建長年間より以前に和賀氏が存在していたことを示している。和賀氏嫡系の仙台藩士和賀氏の系図書き上げによると、始祖頼忠が建久八年(1197)和賀郡に下向したといい、その重臣小原氏の系図では頼忠が忠頼になっているが、こちらも建久八年(1197)和賀郡に下向したと記している。いずれが真実かはいまとなっては不明だが、和賀氏が鎌倉初期に発祥したということは間違いないことのようだ。
和賀一族である鬼柳家所伝の中世文書のなかに、鎌倉幕府の訴訟に利用したと思われる系図があり、苅田平右衛門尉の一男は和賀三郎兵衛尉義行で、仁治四年(1243)二月に死去し、三男二女の父親であったとしている。そして、義行の長男和賀二郎左衛門尉泰義は和賀郡惣領とある。和賀郡惣領とは、和賀家惣領のほかに、郡惣領職すなわち郡司を意味したものと解される。泰義は父義行の跡を相続したのだから、和賀郡惣領は仁治四年(1243)以前からの家格であったと考えられる。
和賀義行が苅田義季(平右衛門尉)の子であることは、小野系図とも一致している。すなわち、武蔵七党のうちの横山党中条氏の一族から和賀氏が出ているのである。それによれば、鎌倉時代の中条(刈田)義季は和田義盛の養子となって平姓を称した。そして、義季の子刈田義行が和賀を称した。また、和賀郡丹内山神社には応永二十二年(1415)から戦国期に至る数点の棟札があるが、その施主はすべて平姓の武士で、和賀氏の一族と考えられている。また明応四年(1492)、和賀氏の一族鬼柳義継は右京少進より伊賀守に昇進したが、そのときの「口宣案」には平義継とある。
ところが江戸時代の史書や系譜類は、すべて和賀氏を清和源氏多田流としている。しかし、十五世紀中に和賀氏が多田の名字を称した形跡はなく、平姓を源姓に改めるのは十六世紀にはいってからのことと考えられる。このころに、源頼朝の落胤を開祖とする伝承におきかえられたのだろう。
いずれにしろ、多田忠頼は、小原氏らの家臣を従えて和賀郡に下向し、岩崎保に土着したということであろう。そして、岩崎城には和賀義盛・同義治・同時義が居住したことが知られ、鎌倉期・南北朝期・室町初期にかけて、毒沢氏・春山氏・成島氏・関口氏らが分派したという。
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・写真:宮城県刈田疱瘡神社本殿の蟇股に見える和賀家の紋
(上:石畳に立合雲・下:笹竜胆)
和賀氏の興亡
話は前後するが、南北朝初期に現れた和賀教義は南朝方に属して、建武二年(1334)に陸奥国司北畠顕家から和賀郡新堰を宛て行われている。教義は和賀氏の庶流とおもわれ、嫡流は武家方に属していたようだ。
陸奥における南北朝時代は、吉良・畠山・石塔・斯波の武家方四探題が並び立ち、次第に斯波氏の単一支配に移行していった。そして、斯波氏は大崎地方をおさえ、大崎探題あるいは大崎御所と称されて威勢を誇るようになった。そして、これと並ぶ存在として葛西氏が勢力を拡大しており、これらに対抗する南朝方勢力として南部氏がいた。
明徳四年(1393)、関東管領の執事渋谷満頼は鬼柳氏に南部追討についての書状を送っている。これは、南部政光が鎌倉府に帰順せず不穏な動きを示していたことに対しての文書であったと思われる。ついで、同年の渋谷満頼からの書状の宛名は和賀鬼柳下総入道殿となっている。重ねて、和賀鬼柳下総入道は渋谷満頼から書状を送られており、下総入道が北奥の武家方の有力者として活躍していたことが知られる。このころに南北朝は合一されたが、南部氏はこれに従わず不穏の気配をみせていた。この南部氏の動向によって、和賀一族の間に内訌があったようで、南朝方に転じた嫡流と武家方に立った庶流鬼柳氏とが対立し嫡流和賀氏は庶流鬼柳氏によって敗れた。渋谷満頼から鬼柳氏に送られた一連の書状はそのことを物語るものといえよう。しかし、和賀惣領家を支持する黒沢尻氏らは南部氏と手を組んで鬼柳氏を倒そうとしたが、鬼柳氏側には武家方探題からの認められた譲状もあり、結束も強かった。結局、和賀惣領家は完全に没落し、鬼柳氏が和賀郡惣領となった。
ここに至るまでの和賀氏は、苅田系和賀氏─小田島系和賀氏─多田系和賀氏─苅田系和賀氏─鬼柳系和賀氏と変遷し、そのあとに鎌倉から新たに和賀義行の兄の系である平氏系の和賀氏が来住したものと思われる。しかし、それを裏付ける史料があるわけではない。
応永九年(1402)、室町将軍足利義政は関東公方足利持氏と不和になり、これが奥州にも波及し、幕府扶持衆の諸大名と大崎詮持・葛西七党・奥郡諸豪との間で合戦が起こった。このとき、和賀氏は斯波・稗貫・工藤氏らとともに登米まで出陣している。
応永十八年(1411)、南部守行が「須々孫氏が大崎探題御所に出仕しないのは何故か」と和賀下総入道にたずねる書状を送っている。その返信がないため、その後、どうなったかは分からないが、このころに和賀氏一族の間で宗主権をめぐる戦いがあったようで、やがて、和賀氏は薩摩守系となる。薩摩守は黒沢尻九郎の二男で和賀左近将監政義の養子となった家親であり、下総入道とはつながらない系である。
和賀の大乱
永享七年(1435)五月中ごろ、和賀惣領家と須々孫氏との確執が表面化し、近隣へ波及し和賀の大乱となった。このとき、南部義政は和議を勧めたが、黒沢尻氏らが須々孫氏をそそのかしたため合戦になった。須々孫氏らは稗貫氏を頼み、和賀小次郎義篤が守る飯豊城を落した。義篤は義政に応援を頼み、義政もただちにこれに応じた。そして、南部義政は三万近い大軍を擁して、稗貫郡寺林城まで出陣、大合戦となった。
合戦は翌年にも止むことはなく、稗貫勢は矢沢・槻木・小山田・瀬川・新堀など五十三郷の兵が、八重畑豊前の指揮下で大いに働いた。この状況を聞いた義政の婿葛西持信は、一族の薄衣美濃守を引き連れ南部勢へ味方した。大崎探題も南部氏へ味方し、和賀氏の二子城を囲んだ。葛西・大崎勢は和賀氏一族の内訌を好機として、和賀一族を一挙に全滅させる構えをとったのである。義篤は動顛したものの、こうなっては和賀氏に勝ち目はなかった。
一方の稗貫氏は花巻の瑞興寺の和尚を使僧として、南部氏の幕下になることを条件に和睦し、和賀氏とともに本領を安堵された。とはいえこの争乱により、和賀氏は加美郡や志田郡、栗原郡方面にあった飛地領を手離さざるを得ない羽目になった。
その後の永享十年、和賀時国が鬼柳実行・葛西持信らと合戦したことが「鈴木系図」にみえ、和賀氏に与した鈴木重行は葛西を去って浪々の身となり、鬼柳村に住したという。鈴木氏が和賀氏に与したのは、重行の母が和賀時国の娘であったからだという。
時国は和賀氏の系図には見えないが、当時の和賀氏惣領であたとみられる。このように、室町時代から戦国期にかけての和賀氏は、鬼柳・黒沢尻氏・須々孫氏らの一族をはじめとする和賀郡内諸氏の統制に苦しんだ。そして、戦国期になると郡内の状況は一層複雑なものとなっていった。
和賀氏の立場
室町時代中期、幕府の実力者をはじめ諸大名の間に内訌が起こり、応仁元年(1467)応仁の乱が勃発した。それが発端となって、日本国内は戦国時代へと移行していった。この情勢は奥州も例外ではなく、文明二年(1470)、和賀定義は金崎において江刺河内守と戦い、和賀氏側の黒沢尻阿部繁任が戦死したという。ついで文明三年八月、定義は葛西政信と胆沢郡で戦い、和賀氏側が相去村まで退き、定義は流れ矢に当り重臣の小原義望が戦死した。戦いは大勢として和賀氏側が頽勢にあったようだ。
文明八年(1476)、和賀氏と柏山氏との間で紛争がおこり、胆沢・江刺・稗貫を戦乱に巻き込んだ。さらに文明十七年になると和賀氏は江刺郡惣領職と戦っている。和賀郡にも全国的な戦乱が波及し、戦いが繰り返されるようになった。さらに、文明十五年(1483)には、和賀定義の三男定正が、稗貫氏と抗争して稗貫郡関口村を領有した。
このように。和賀氏は戦国乱世に翻弄されたが、奥州の大名格の一人として京都の幕府に大番として上洛勤番していたという。すなわち、「菊池系図」に「文明二年(1470)和賀代官にて上洛」とあり、「八重樫系図」にも「永正十一年(1514)、和賀義元京都上洛」云々とある。和賀氏は代官を遣わしたり、あるいは自ら上洛して幕府に出仕していたようだ。
明応元年(1492)、京都の幕府へ大番として勤番していた鬼柳義継は右京少進となっていた。そして、同年に伊賀守に昇任したのである。このことは和賀鬼柳義継が和賀氏惣領と、和賀郡惣領とを獲得したことを示している。そして、その任官辞令は「平義継」となっており、和賀氏のいうところの源姓ではなかった。さらにいえば、伊賀守義継は和賀氏惣領を平姓刈田系にもどしたともいえよう。また、和賀氏が多田姓を称するようになるのは、大番役として上洛したときに、何らかの機会にその賜与にあづかったか私称するようになったとも考えられる。
一方、永正十一年(1514)に書かれた『奥州余目記録』によれば、文明ころ(1469〜86)の和賀氏は大名格となっていて、大崎探題御所へ出仕したときの席次序列は、大小名百何十人かの間にあって第三列座であったという。和賀氏が和賀郡の領主として、戦国乱世の奥州の一角で相応の勢力を保持していたことが知られる。
戦国時代の到来
戦国時代、奥州の強豪としては北奥の南部氏、南奥の伊達氏、その中間に大崎氏、葛西氏らが割拠して、それぞれ勢力拡大に鎬をけずっていた。なかでも南部氏は南下作戦を展開し、南部氏と境を接する和賀氏、江刺氏、斯波氏らは戦々兢々たるものがあった。
大永元年(1521)二月、和賀定正が南部安信と戦い戦傷死している。そのときの戦いで、定正の子定行が活躍したというが、和賀氏は南部氏の攻勢に押され気味であった。その後、隣領である江刺郡で動乱が起こるなど、北奥には戦国の嵐が吹き荒れた。『奥羽永慶軍記』によれば、享禄四年(1531)原因は不明だが和賀薩摩守義忠が、仙北郡の小田嶋党と戦っている。小田嶋党は本堂氏の一族で和賀氏の別系であった。
戦いは数年にわたって続いたようだが、結局、双方から和睦の話が出て戦争を終結させている。おそらく、この戦いは和賀氏が南部氏の動向に危険を感じたための軍事行動であったと考えられている。和賀氏が仙北で小田嶋党と戦っているとき、南部氏は胆沢郡に侵攻し、柏山氏と一戦を交えている。
和賀氏が小田嶋氏と和睦して間もない天文六年(1537)二月、和賀義勝が南部晴政と志和郡で合戦をした。和賀氏は柏山氏と姻戚関係にあったことから、柏山氏に協力して南部氏を徹底的にたたくつもりであったようだ。しかし、大きな戦いにはならず兵を収めている。
時代の変転
永禄九年(1566)八月、天下の風雲がただならいものとなりつつあることを感じた和賀丹波守は、柏山伊勢守、江刺三河守らと今後のことを協議すらため、それぞれの重臣らを江刺郡国見山で会させた。しかし、その内容については伝わっていない。
『小野寺文書』によれば、永禄十二年十一月、南部氏の一族河崎政信が和賀氏の居城二子城を囲んだ。和賀義次は仙北郡の小野寺義道に救援を求め、義道は河崎の城を攻め落とし、政信を討って仙北に帰ったことが記されている。さらに元亀三年(1572)には九戸政実が河崎を攻めたとか、南部勢が和賀氏と対戦したとか、天正元年(1573)になると葛西一族の江刺氏や柏山氏が河崎へ合力したため、南部氏は河崎城を攻めかねたなどと記されている。
このように北奥では諸大名が領土をめぐって戦いを繰り返していたころ、中央では織田信長が天下統一へと大きく前進をしていた。戦乱は続いているとはいえ、日本はだんだんと一つの方向づけがなされようとしていたのである。一方、奥州では葛西氏が内乱に苦しみ、大崎氏も内紛によって次第に衰退し、伊達氏が大きく台頭、南部氏もまた勢力を拡大しつつあった。和賀氏・江刺氏・柏山氏らも時代の変転に対して大きな決断を迫られつつあったのである。
天正元年(1573)、南部晴政が和賀郡をめざして南下してきた。南部勢と和賀勢とは稗貫郡太田付近で合戦を展開したが、和賀軍は敗れた。享禄年間以来、和賀氏は戦いの連続であった。この天正元年に武田信玄が病没し、同年、信長によって足利幕府も滅亡した。ついで同三年、織田信長は桶狭間で武田騎馬軍団を打ち破り、六年三月には上杉謙信が死去した。
天正十年、織田信長は甲斐に侵攻して武田氏を滅ぼした。ところが、その年の六月、本能寺の変が起り信長は部将明智光秀の謀叛で横死してしまった。その後、羽柴(豊臣)秀吉が山崎の合戦で光秀を破り、信長後の一連の抗争を制して天下統一事業を推進した。一世紀にわたった戦国時代も、ようやく終焉を迎えようとしていた。
和賀氏の没落
西日本を平定した秀吉は天正十八年、小田原北条氏征伐の軍を起こした。関東・奥羽の小・大名たちは、続々と小田原に参陣し秀吉軍に加わった。しかし、和賀義忠は小田原に参陣せず、その後の奥州仕置によって葛西晴信・大崎義隆・稗貫秀忠らとともに所領没収、城地追放の処分となった。和賀氏が小田原に参陣しなかったのは南部氏の策謀に落ちたためともいわれるが、時代の変革に対する感度が鈍かったとおいうしかない。ともあれ、ここに和賀氏の運命は決したのである。
その後、奥州は太閤検地が実施され、その検地に対して不満を抱いた大崎・葛西・稗貫・和賀氏ら没落大名の旧臣・農民らが、十月、蜂起し木村吉清ら秀吉の派遣武将を討ち勢いを振るった。この一揆に、和賀義忠も残党を率いて参加して居城の二子城を奪回した。しかし、翌年になると蒲生氏郷率いる一揆鎮圧軍が侵攻し、一揆軍はやぶれ義忠は逃走の途次、領民に殺害されたという。
一揆勢にすれば、何の落度もなく、ただ小田原に参陣しなかったというだけの理由で、先祖伝来四百余年にわたって経営してきた所領の没収という処分はあまりにも理不尽ではないか、といいかったのであろう。しかし、これは秀吉を中心とした中央集権的体制となったことを見抜くことができなかった、古い中世の論理で生きていた大名たちにもたらされた当然の結果でもあった。ここに、北奥の戦国時代は幕を閉じた。
和賀氏の一族には、小田原に参陣して所領を安堵された出羽国本堂城主の本堂忠親がいる。また、宗家滅亡ののち、伊達氏に仕えた者もいた。しかし、鎌倉以来、北奥に割拠した戦国大名和賀氏は、新しい時代の波に呑み込まれてしまった、といえよう。
その後の和賀氏
和賀氏の嫡流は、こうして戦国乱世を乗り切ることができず滅亡した。和賀氏を継ぐものとして、本堂氏があげられようか。本堂氏は源忠頼の三男忠朝が、本堂に土着したのに始まるといわれるが、観応三年(1352)和賀基義が足利尊氏から山本郡内安本郷・阿条字郷・雲志賀里郷を勲功の賞として宛行われたのが始まりであろう。和賀氏がこの地と関係を結んだのもこれ以降のことで、和賀氏の庶流が室町初期頃に本堂に移り本堂を称したものであろう。
戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏の勢力に挟まれ、微妙な立場にあった。そのため、義親は戸沢氏と戦い鴬野で戦死、頼親は金沢城主と戦い野口で戦死、朝親も波岡で戦死というように、戦国時代における歴代当主は戦場で命を落している。天正年間の本堂城主は忠親で、かれは天正十八年(1590)小田原の陣に参候し、同年秀吉から本領のうち八千九百八十三石を安堵された。また、忠親は和賀秀親(「和賀系図」では、義忠の子と見えている)に実子がなかったため、和賀氏の家督を継承したと伝えられる。
忠親の跡を継いだ茂親は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、戦後常陸国志筑八千五百石に移され、子孫は江戸幕府の交代寄合として幕末まで存続した。・2006年2月14日
【参考資料:和賀町史/東和町史/岩手県史/源姓和賀家系圖ト其考證要録 ほか】
■参考略系図
和賀氏は、秀吉の奥州仕置によって改易され、その後に起こった和賀一揆で滅亡した。その子孫は
伊達・南部氏などに仕えた。しかし、嫡流が滅んだために、さまざまな系図が伝わり、そのいずれが真を
伝えているのかは定かではない。その出自も武蔵七党、源頼朝の落胤、清和源氏多田氏流とするものなどがあり、
こちらも多彩である。そして、和賀氏の子孫が著わされた系図、岩手県史や姓氏家系大辞典などに記された系図、
さらに和賀氏一族とされる鬼柳・煤孫氏らの系図も諸本あり、まことに種々雑多な系図が伝来している。
ここでは、それらの各種系図を併せて作成したものを掲載した。
・お奨めサイト…
岩崎城と和賀氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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