海野氏
六文銭/結び雁金/州浜
(滋野氏流海野氏族) |
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海野氏は、信濃国小県郡海野を本拠とした東信濃の古代からの豪族で、『大日本氏族志』によれば清和天皇の皇子貞秀親王が信濃国白取荘に住して、その孫善淵王のときに滋野姓を賜ったのが始まりという。また、紀国造の族という楢原氏の後裔とする説もなされている。清和天皇後裔説はもとより信じることはできないし、裏付ける確実な根拠もない。一説にいわれる楢原氏の裔にあたる族が信濃国小県佐久平を開発して、一大氏族に成長したと考える方が真に近いのではないだろうか。
ちなみに、天平十年(738)頃と推定される正倉院御物に「信濃国小県郡海野郷戸主瓜工部君調」と墨書された麻布があるが、おそらくこのあたりが海野氏の祖ではないかと思われている。いずれにしろ、同じ東信濃の古名族祢津氏・望月氏とともに滋野三氏と称し、小県郡・北佐久郡西部にかけて三氏の一族が繁衍していった。
歴史への登場
海野氏の名が史書に登場するのは『保元物語』からで、源義朝の指揮下にある源氏武士に宇野(海野)氏の名が見える。源義仲の挙兵に際して東信濃で最も力となったのは佐久の根井行親であり、海野幸親・行広らであった。幸親は行親、または滋野行親とも記される。海野幸広は、備中水島の戦において矢田義清とともに先鋒の大将となり、平氏の大将平教経と戦って戦死したことが『源平盛衰記』にみえている。
幸親の子海野幸氏は、少年時代、木曽義仲の子義高が頼朝の人質となった時これに随従し、義仲が敗れて没落、義高が鎌倉を脱出しようとしたとき、その寝床に入り身代わりになろうとした。幕府を樹立した頼朝は幸氏の忠節と武勇を称え、かえって幸氏を重用したと伝わる。幸氏はまた、とくに弓馬の道に長じていたことが知られ、建久四年(1193)五月、頼朝が富士の裾野で狩を催したとき、同じ信濃武士である藤沢二朗・望月三郎・祢津二郎らととともに弓の名手として参加したことが『吾妻鏡』にみえている。
「承久の変」に際しては、北条泰時に従い東山道の大将武田信光の軍に属して西上した。その後、嘉禎三年(1237)八月、鶴岡八幡宮における流鏑馬で騎射の技を披露し、みるものたちは「弓馬の宗家」と讃えたと伝わっている。そして、当時の天下八名手の一に数えられ、さらに武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称された。以後、将軍家の御弓始、放生会の流鏑馬、三浦の小笠懸などの催しのあるごとに、幸氏の漏れるということはなかった。
幸氏の活躍によって、海野氏は頼朝以降北条氏に至るまで幕府御家人のなかでも別格の待遇を受け、代々その誉れを伝えた。しかし、幸氏以後の世系については不明な点が多く、諸系譜の伝えるところも異同が多いのである。おそらくこれは、海野一族が繁衍し、宗支の区別が判然としなくなった結果と考えられる。ちなみに、海野氏は鎌倉時代中ごろより、各地に支流を広げていった。それは小県郡の真田、筑摩郡の塔原・光・刈屋原など信濃ばかりではなく、上野にまで広がり吾妻郡の下尾・羽尾・鎌原などの諸氏が海野一族として知られる。
鎌倉幕府滅亡後は東信濃の雄将として、信濃守護小笠原氏に対抗した。応永七年(1400)の大塔合戦には東信濃の武士団の棟梁の一人として海野幸義の名がみえ、守護小笠原氏と戦っている。『大塔物語』の中に「海野宮内少輔幸義、舎弟中村弥平四郎、会田岩下、大草、飛賀野、田沢、塔原、深井、土肥、矢島以下」と記されている。
国人領主として戦乱に身を処す
戦国時代の大永七年(1527)、高野山蓮華定院を海野地方の宿坊とする旨の契状を出した豪族として海野棟綱の名がみえることから、海野氏は小県郡の有力国人領主として一定の勢力をもっていたことがうかがえる。
天文十年(1541)五月(天文七年ともいう)、甲斐の武田信虎、奥信濃の村上義清、諏訪の諏訪頼重の三氏が連合して海野氏を攻撃した。武田軍は佐久郡から、村上軍は戸石城から、諏訪軍は和田峠を越えて小県郡に攻め込んできた。海野氏は滋野一族である禰津・望月氏らとともに頑強に抵抗したが海野平を占領されるに及んで、禰津・望月氏らは降服し、海野棟綱は鳥居峠を越えて上野に逃れ去った。ここに、海野・禰津・望月の滋野三家はいったん敗亡した。このとき、棟綱の子(弟もいわれる)海野幸義は連合軍との合戦において奮戦したが討死、海野氏の正嫡は断絶した。のちに、幸義の弟幸隆が家督を継ぎ真田に住して真田を称したというが、この間のことは混乱していてにわかに信じることは危険である。
海野氏は、関東管領で上野守護を世襲した上杉氏の被官的立場をとって領地の保全につとめてきた。武田・村上・諏訪連合軍に対しても海野氏らは上杉氏を後楯として対抗しようとしていた。滋野三家が連合軍に敗れたのは上杉氏からの救援が遅れたためでもあった。上杉氏は中世の関東に君臨してきたが、戦国時代に至って次第に衰退の影を濃くしつつあり、代わって小田原北条氏、甲斐武田氏らの勢力が台頭してきていた。
この情勢下、海野氏内部では上杉氏を頼って旧領を回復しようとする者と、上杉氏を見限って新興勢力に属して家名を上げようとする者とに分かれたようだ。すなわち、惣領である海野棟綱は関東管領上杉氏を恃み、棟綱の子といわれる幸隆は甲斐武田氏氏の力を背景として旧領を回復しようとした。武田氏は先に海野氏を追い払った信虎が嫡子晴信のクーデターによって駿河に追放されたこともあって、周囲の諸豪は武田氏はくみしやすくなったとみていた。幸隆は晴信の大器であることを見抜いて、いちはやく武田晴信に臣従しようとしたという。
しかし、棟綱は武田氏を仇敵視しており管領上杉氏を後楯に小県郡に復帰しようと画策していた。棟綱と幸隆は相容れない存在となり、二人がどのように折り合ったのかは史料的には一切不明である。しかし、その後間もなく幸隆は上州を去って甲斐に赴いて武田氏に仕え、一方の棟綱の消息は以後、史実にも伝説にも、さらには風聞にもまったく登場しなくなる。
海野氏と真田幸隆
幸隆は『寛政重修諸家譜』で、真田氏の祖となった人物とされている。しかし、真田氏は鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされ、室町時代中期の記録にもみえていることから、幸隆は真田氏の名跡を継いだか、あるいは真田氏に生まれて棟綱のあとを継いだかのいずれかであろう。残された系図などによれば、幸隆は棟綱の長男、あるいは二男、あるいは娘婿などと諸説あって一概には決めがたい存在なのである。年齢や経歴からいって、棟綱とは父子といった関係の世代であったことはまず間違いないようだ。
幸隆は上州に割拠していた羽尾幸全入道の娘を室としていた。そして、幸全入道は上州に逃れてきた海野一族を庇護した人物であった。のちの永禄六年(1563)武田氏によって上州岩櫃城攻略戦が行われたとき、幸隆は武田氏の重臣として攻城軍に加わった。このとき、羽尾幸全入道が岩櫃城の城将の一人として武田軍を迎え撃ったが、幸隆は城攻めを敢行し、羽尾幸全入道は戦死し羽尾一族は没落した。このように、幸隆は一族興亡のためには恩人、肉身といえども容赦をしない非情な人物であった。
棟綱もひょっとすれば、幸隆によって抹殺されたのかも知れない。平安以来の古名族の当主の最期が不明というのは不自然なことであり、そこにはなんらかの隠蔽工作があったのではないか。そして、それを行った人物こそ幸隆であったと考えられる。そういう意味では、幸綱は海野氏における下剋上をなした人物であったともいえよう。その後、海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、上田藩、松代藩の藩主真田氏に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。
ところで、『加澤記』に「吾妻三原の地頭、滋野の末羽尾治部少輔景幸と云う人あり。嫡子は、羽尾治部幸世道雲入道、二男 海野長門守幸光、三男 同 能登守輝幸と申しけり。道雲入道は、生害ありて、舎弟二人は越後の斎藤越前守に属しける。斎藤没落の節、甲府へ忠節ありて、三原郷御取り立てあって、天正三年夏の頃、岩櫃の城を預けられ、吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子泰貞は、矢澤薩摩守頼綱の婿となって真田の姪婿なり云々」とみえ、また上野国志に「岩櫃城、海野長門守、沼田の真田安房守昌幸の時、城代なり」とみえるのは、上野に逃れた海野氏の一族であろう。
海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、上田藩、松代藩の藩主真田氏に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。
●海野氏の家紋─異説
ところで、滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であったといい、海野氏も「月輪七九曜」を家紋にしていたという。しかし、幸綱は武田氏の麾下に属してから家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。室町時代の中期に書かれた『長倉追罰記』のなかに、海野一族は六連銭を家紋としていたことが記されているのである。おそらく、六連銭の紋は室町時代の初めには海野一族の共通の紋として用いられていたようだ。
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