東 氏
九曜/十曜半月
(桓武平氏千葉氏族) |
|
東氏は「とう」とよみ、千葉介常胤の六男胤頼を始祖とする。すなわち、下総国東庄を譲られた胤頼が地名にちなんで東を名乗ったことに始まるのである。
平家全盛のとき、大番役として上洛した胤頼は平家に媚びることはなく、遠藤左近將監持遠の推挙を受けて上西門院武者所に仕へ従五位下上西門院内蔵人に任じられた。そして、持遠の女を娶り、嫡男の重胤をもうけた。ちなみに、持遠の子盛遠は文覚上人として知られた人物で、のちに東氏と深い関係となる美濃遠藤氏は盛遠の子孫と伝えられている。その後、大番役を終え関東に戻った胤頼は、三浦義澄とともに伊豆国北条蛭ヶ小島の頼朝のもとへ参向、頼朝の旗揚げに参画したという。
治承四年(1180)、挙兵した頼朝は相模国石橋山の戦いで大庭景親の大軍に大敗、頼朝は伊豆国真鶴岬から安房へむけて落ち延びていった。 安房に上陸した頼朝は、千葉介常胤・上総権介広常らに挙兵をうながした。逡巡する常胤に対して嫡男の胤正と胤頼は、頼朝に味方することを進め、ついに常胤は頼朝に協力することを誓った。かくして、千葉介常胤は胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼ら子息と一族を率いて、頼朝は下総国府の頼朝のもとに参じて面会を果たした。その後の平家との戦いにおいて、胤頼は源範頼軍に属して出陣、一ノ谷の合戦などに活躍した。
平家を倒した頼朝は、文治五年(1189)、奥州藤原氏攻めの陣を起した。この奥州合戦において、常胤は海道軍総大将に任じられ、胤頼ら兄弟も父に従って出陣、衣川の戦いに活躍した。こうして、千葉一門は戦後の論功行賞において所々に所領を与えられ、一躍、幕府の有力御家人となったのである。
胤頼は藤原定家に和歌を学び、晩年には法然上人の門下に入り法阿と号したと伝えられる。法然上人の一代を描いた『法然上人絵伝』には、法然上人の遺骨を運ぶ宇都宮頼綱入道蓮生、塩谷朝業入道信生らとともに千葉六郎大夫入道法阿らの姿がみられる。
二条流の歌人として名をあらわす
胤頼の子重胤は弓の上手として知られ、実朝の側近として「無双の近侍」と称された。また、父胤頼とともに藤原定家に和歌を学び、さら定家の子二条中納言為家にも師事して、御家人中でも歌人として名が高かった。のちに実朝の怒りをかった重胤は、北条義時の援けをうけ、三首の歌を実朝に献上した。重胤の歌にふれた実朝は怒りを解き、ふたたび重胤は幕府に出仕することをえたという。
重胤の子胤行も為家について和歌を学び、歌の上手として知られる。重胤の室は為家の娘というが、その真偽は不明である。胤行は実朝にはじまり藤原頼経・頼嗣、宗尊親王の四代の将軍に仕え、和歌を通じて信頼を一身にあつめた。一方、胤行は武人としても一角の人物で、承久の乱が起ると郎等を率いて出陣、京において活躍した。戦後、その功により美濃国郡上郡山田庄の新補地頭に任ぜられ、大和村の阿千葉に屋敷を構えた。まさに、文字通りの文武両道に達した武者であった。
こうして、為家から二条流歌道の奥義を受けた胤行は、勅撰和歌集の撰者にも指名され、二条流歌道の大成者となった。胤行の子孫は代々二条流の和歌(古今調)を継承し、古今集の解釈の秘伝である「古今伝授」を行う家となる。まさに、胤行が美濃東氏に流れる歌人としての血を開花させたといえよう。
胤行の嫡男泰行は下総国東庄の惣領となり、二男行氏が美濃東氏の二代となった。美濃に移った行氏は妙見菩薩を勧進し、一族の遠藤氏・野田氏、家臣らが協力して神廟を造営した。行氏も二条流の歌人として知られ、『続拾遺和歌集』『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『新千載集』『新拾遺和歌集』の五つの勅撰和歌集に歌が撰ばれている。行氏の妹も歌才に恵まれ、藤原為家は嵯峨小倉山荘で百首を書き写して与えたという。これが、小倉百人一首として世に伝えられたという。
行氏の子時常もまた歌人としての才能に恵まれ、『続千載和歌集』に歌が撰ばれている。時常は在京人として六波羅探題に出仕していたようで、正和元年(1312)越前国大野郷で戦死したという。
文武の達人-美濃東氏
時常のあとは叔父にあたる氏村が継いだ。氏村もまた二条流の歌人であり、数々の勅撰和歌集に歌が撰ばれている。
氏村の時代、後醍醐天皇の討幕運動が起り、世の中は次第に乱世の様相を呈しつつあった。氏村は阿千葉の南東に位置する篠脇の地に新たに城を築き、以後、篠脇城が美濃東氏の本城となった。
元弘三年(1333)、幕府の命を受け千葉介貞胤に従って上洛、楠木正成の籠る赤坂城を攻めた。ところが、幕府の命で上洛してきた足利高氏が丹波国で挙兵すると、千葉介貞胤とともに鎌倉を攻めて討幕に功をあげた。かくして、建武の新政が発足すると、氏村は武者所に名を連ね、天皇の身辺警固に任じた。氏村も美濃東氏の当主として和歌に通じ、その才能は後醍醐天皇にも知られていたようだ。
やがて、建武の新政は尊氏の謀叛によって崩壊し、時代は南北朝の争乱へと推移していった。はじめ東氏は新田氏に従っていたようだが、氏村の嫡子常顕は美濃守護職土岐頼春に従軍しており、以後、東氏は武家方として行動した。貞和元年(1345)、足利尊氏の天竜寺供養式において、常顕は千葉一族の粟飯原下総守とともに先陣をつとめている。さらに、千葉介貞胤が没したのち若い氏胤が千葉介を継承すると、常顕は他の千葉一族とともに後見をつとめたという。常顕も歌人として知られ、南北朝の動乱期にあって、よく東氏の勢力維持につとめたのである。
このように、東氏の歴代はいづれもが文武両道に秀でていたが、中でも十代常縁の存在は特筆される。常縁は野田氏を称し、足利八代将軍義政に仕えた。
常縁の登場
康正元年(1455)、下総の千葉介胤直と馬加陸奥守康胤の内乱を聞いた将軍・義政は、側近である常縁にその鎮定を命じた。常縁は郎党を率い、部将・浜式部少輔春利を同道して東庄に入部。そこで相馬氏、国分氏、大須賀氏ら下総の豪族たちに出兵をもとめ、その年の11月、千葉介康胤の本城・馬加城と原胤房の本城・生実城を攻め落とし、康胤・胤房は千葉庄へと落ちていった。常縁は彼らを追って千葉郷周辺をたちまち攻め落し、千葉亥鼻城を囲んで攻めたが、ここは攻め落とすことができず、市川国府台城にいた千葉介実胤・自胤兄弟と連絡をとりあって千葉城を孤立させている。以後、下総で足利成氏と対峙することとなった。
応仁元年(1467)、将軍・足利義政と弟・足利義視の間で、後継者をめぐる争いがエスカレートし、山名宗全を主将と
して斯波義廉・畠山義就らが細川勝元らを襲うという事件が起きた。これが「応仁の乱」の始まりとなった。応仁の乱の
余波は全国に及び、東常縁の本拠地である美濃でも東西にわかれて争いがおこっていた。 常縁は義政の側近であり
山名方=西軍とみなされて、細川勝元=東軍に味方する土岐成頼は、美濃守護代・斎藤妙椿に命じて常縁の居城である
篠脇城を攻めさせた。応仁二年(1468)年、守将・氏数は少ない兵を指揮して大軍と戦ったが、篠脇城はついに落城した。
篠脇落城の報に接したとき、おりから常縁は亡父益之の追福を営んでいた。
城を奪った斎藤妙椿は常縁の歌の友で、ともに足利義政の奉行人を務めていた。そこで、常縁は妙椿に領地返還の
ことを嘆願すると、妙椿は歌を送ってくれたら城を返そうと返事した。そして、常縁は十首の心情を込めた和歌を妙椿に
送った。
あるが内に 欺かるる世をしも 見ざりけん 人の昔の 猶も恋しき
常縁の歌に接した妙椿は、深くうたれて奪った城を返還したのであった。
殺伐とした戦国時代では考えられない話だが、応仁の乱の当時はまだ古風な武士気質が残っていたのだろう。
とはいえ、この挿話が美談として伝えられていることから、やはり珍しい出来事だったといえそうだ。
常縁は美濃に戻ると、篠脇城と妙見社を再建するなど、所領を急速に復興していった。文明三年(1471)には、郡上に古今集の奥義をもとめて訪ねてきた飯尾宗祇に『古今伝授』をしてる。京都では応仁の戦乱のために、歌道の行える家がなくなっていた。そこで飯尾宗祇は二条流の源流を伝える常縁のもとを訪れたものだという。
文明12年(1480)、常縁は後土御門上皇の勅諚を拝して上洛。後土御門上皇に古今集を伝授し、さらに京都東山において近衛政家・三条公敦・足利義尚らに古今伝授をした。そして、文明十六年(1484)三月十六日に没した。
東氏の斜陽と没落
戦国末期の永禄二年(1559)年、常慶の代に至り子常堯は「年来不道の行」を疏み、常慶は常堯を廃し一族で婿の遠藤盛数をもって東の家督とすることを議した。これに対して常堯は、兵をもって家督を継ごうとしたが、盛数が常慶の命を受けて一戦、常堯を敗走させた。ここに盛数が東の家督となったが、遠藤を称して、子孫相継いで遠藤を家号とした。ここに、美濃東氏約300年の歴史に終わりを告げることとなった。
遠藤盛数は東氏を滅ぼすと美濃郡上八幡城主となって東氏の旧領を治める。織田信長、その後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属したことを徳川家康に賞され、初代郡上八幡藩主となった。その後、常陸に転封したのち、近江甲賀藩主として幕末に至る。明治時代、最後の藩主・遠藤胤城は勅許を得て、姓を祖先の「東」に復している。
■千葉一族
■参考略系図
・『系図纂要』の東氏系図をベースに作成したが、戦国期における遠藤氏の下剋上から混乱をみせ疑問が残るものである。
|
■上記の系図以外にも諸系図がある
『千葉大系図』
東胤綱――常縁――頼数―元胤―常知―氏胤―尚胤―常氏―常数―
式部少輔 下野守
『松羅館本千葉系図』
東胤綱(益之)――┬氏数――┬元胤―常慶
式部少輔・下総守 | └氏胤
└常縁――┬頼数
下野守 └常和―胤氏―尚胤―常氏
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|