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畑 氏
●二つ引両/丸の内鶴一文字/菊一文字
●藤原姓・源氏など諸説あり
大渕館・畑家の家紋。
 


 デカンショ節で知られる丹波篠山の東北に瀬利という在所があり、戦国時代、そこに八百里城があった。 中世、瀬利を含む一体は宗我部荘、のちに畑荘と呼ばれる荘園であった。畑氏は宗我部荘を拠点とし、 荘内の神南備山として崇敬された八百里山に城砦を構え、勢力を拡大していったのであった。 そのルーツは、南北朝時代に新田義貞に仕えて有名な畑六郎左衛門時能の子孫だという。
 畑六郎左衛門時能は、篠塚伊賀守・粟生左衛門・亘理新左衛門と並んで新田義貞四天王の一人に数えられる武将である。義貞に従って各地を転戦し、延元二年(1337)七月、義貞が藤島の戦いで戦死したのちは、脇屋義助に従って坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返した。しかし、南風は振るわず南朝方の諸城は次々と攻略され、暦応四年(1341)六月には大滝城が陥落した。残るは時能が拠る鷹巣(高栖)城だけとなり、翌七月、斯波高経・吉見氏らの大軍が鷹巣城を包囲した。時能は屈せず籠城を続け、十月、鷹巣城から伊地知山(鷲ヶ岳)へ移動してなお抵抗姿勢を崩さなかった。しかし、多勢に無勢、ついに斯波勢に突撃して奮闘のすえに戦死したと伝えられる。『太平記』には、この間の畑六郎左衛門の勇戦ぶりが面白おかしく記されている。
 時能が戦死したのち、遺児六郎時速は母に連れられて丹波にいた新田一族の江田行義を頼った。 そして、丹波の中村に落ち着き、成長したのちは江田氏の幕下に属したという。これが、 丹波畑氏の始めだと伝えられている。
写真:八百里城跡を遠望

各地に六郎左衛門の子孫

 さて、畑六郎左衛門時能の活躍は、その愛犬「犬獅子」とともに戦前は、日本武勇談の一つとしてよく知られていた。それゆえに、六郎左衛門の子孫を称する家は、丹波の畑のみならず各地に存在している。
 かつての武蔵国であった川崎市鶴見区の小田に、六郎左衛門の末裔という畑氏一族の墓所がある。江戸時代、小田は畑ヶ新田とよばれ、小田に移り住んできた畑十兵衛、喜右衛門が開発したところだという。墓所には十兵衛、喜右衛門の供養塔をはじめ、家代々の墓石とともに源頼政の供養塔が祀られている。また、小田あたりには、六郎左衛門と並ぶ四天王である篠塚伊賀守・粟生左衛門・亘理新左衛門らの塚が祀られ、新田義貞にまつわる伝承も残されている。
 ついで、飛騨高山に鎮座する賀茂神社は、畑六郎左衛門時能が勧請したと伝えられている。延元三年(1338)、新田義貞が戦死したのち、飛騨に入った畑時能は上江名子に館を構えて住んだ。そして、館の守護神ならびに土地の産土神として京都の上賀茂神社と御所内荒神社の御分霊を勧請して祀ったのだという。さらに、福井県の三国町にある浄土真宗高田派の寺院和光山大願寺の住職は、畑六郎左衛門の後裔という。何代目かの六郎左衛門が僧侶となり、草庵を結び、浄智と称し開祖になったというのである。歴代の住職は畑を名字に名乗り、現住職は十六代目に当たると伝えられている。大願寺住職畑氏は、丹波の畑氏らにも声をかけて、「畑時能サミット」を開かれたという。
 また、時能の子という玄條は一族郎党を率いて飛騨白川郷鳩ヶ谷に落ち再起を図った。その後庄川から五ケ山に潜入して、越中の大鋸屋に出て居を構えた。玄條の子掃部は庄左衛門と改め商売に従事したが、ある年、京に上って北野天満宮に参詣、糸絹を業とすれば市中繁昌まちがいなしとのお告げをもらった。越中に帰った庄左衛門は絹織物を家業とした。そして、八代庄右衛門の代の天正五年(1577)、前田利常公)より絹織物業の元祖だから絹屋と称すことを許され、城端で絹織物を始めたのが富山の城端絹織物の始まりだといわれる。
 それぞれの伝承の真偽は分からないが、畑六郎左衛門時能が先祖として語り伝えられるにふさわしい人物であったことはうかがわれる。はたして、丹波の畑氏は畑六郎左衛門時能直系の子孫なのであろうか。

畑氏の出自を考える

 丹波畑氏について『多紀郷土史話』では、宮村流・出合流・牛之丞流の三流があり、家紋は宮村流が「菊一文字」、 出合流が「丸に二つ引両」、牛之丞流が「鶴一文字」を用いて、それぞれの出自を伝えているという。 一方、「丹波・四号」に掲載された畑経雄氏の論文によれば、畑六郎左衛門時能の子孫という畑氏、 新田一族の大井田経氏の舎弟経世の子孫という畑氏、そして野尻氏流畑氏の三つの流れがあるという。



左から:丸に二つ引両・二つ引き両に守文字・丸に離れ二つ引両・菊一文字・丸に菊一文字

 畑氏の系図は畑諸家に伝わっているというが、大淵の畑氏のものが知られている。出版物としては『丹波志』に時能以後、『妙心寺史』に胤時・時能以後の世系が記されれており、「丹波志」のものは大淵畑氏系図が底本になったものと思われる。双方の系図を見比べると、「丹波志」では時能の子を能速、「妙心寺史」では時純とし、以後の人名はまったく異なっている。妙心寺史に記された畑時能は清和源氏後裔佐渡守左近太夫胤時の子とあり、時純は新田義貞の子義興に仕えて貞和四年(1348)に刀禰山で戦死した。その五代の孫道忠は細川持之・勝元に属し、応仁の乱前の寛正三年(1462)に没したという。また、経世系畑氏の世系に関しては畑経雄氏が復元されており、経重に至って大淵畑氏系図との重なりをみせている。
 六郎左衛門時能の出自について、太田亮著になる『姓氏家系大辞典』では「秦氏後裔か」とあり、系図研究家鈴木真年著の『苗字尽略解』では「畑、多治比真人姓、武蔵国児玉郡人」とあり、さらに「畑時能、武蔵丹波党也、丹三冠者経房九世孫畑六郎大夫丹治時道男六郎左衛門と号」と記されている。ちなみに、丹三冠者経房は十二世紀はじめの人物で丹姓中村氏の祖とされ、その後裔の下中村氏は播磨国三方荘に土着している。また、畑荘の総社である佐々婆神社が建保年間(1213~19)に再建されたとき、畑三河守経房が尽力したが、経房は藤原姓吉田氏の人物であったといわれる。
 他方、酒呑童子退治で知られる源頼光の嫡男頼国の室は畑氏から入り、その孫娘が後鳥羽院の后となった 承明門院という。承明門院は丹波畑庄と縁の深い女性で、佐々婆神社の神宮寺であった願成就寺は門院が 建立したというが、実は畑氏が門院の父源通親(経純)との所縁からその菩提寺として建てたともいわれる。 また、承久の変後、承明門院の子土御門上皇は土佐に流されたが、そのとき源通親の子具重が従った。そして、 配流地の土佐国畑庄をもって名字となし、畑氏の祖になったという。弘治二年(1556)、野尻氏流畑正時が 波々伯部掃部に送った由緒書に「畑氏者、自源家出也。(中略)畑氏経純公の末裔也」とあって 村上源氏を主張している。

写真(左より):佐々婆神社本殿 ・佐々婆神社境内の後鳥羽上皇宝塔 ・火打岩楞厳寺跡の承明門院供養塔

 このように丹波畑氏のルーツに関しては諸説があり、いずれが真を伝えているのか、その判断は難しい。 定説のとおり畑六郎左衛門時能が丹波畑氏の祖であるとしても、時能の丹波入部に際しては少なからぬ一族、 一門が同行してきたことは疑いない。一方で丹波畑氏の場合、船井郡・桑田郡などにも畑氏がいることから、 南北朝期以前より丹波に根付いていた畑名字を名乗る土豪がいたのではないか。 おそらく、丹波畑氏は六郎左衛門の子孫も含めた出自を異にする(名字も異にする)流れが、 長い歴史の流れのなかで混淆、同族化されていったものと思われる。そして、丹波の乱世のなかで勢力を蓄え、在地領主としての立場を確立したのであろう。
 ところで、太平記の記事に畑氏の笠験が「三つ州浜」とあり、藤原氏との関係、武蔵出身とするところなどから、畑経雄氏は畑氏は常陸の豪族小田氏の流れではないかと考察されている。たしかに、州浜紋は藤原姓小田氏の代表紋であり、小田氏の祖知重は源義朝の庶子で宇都宮氏に養われた八田知家の子である。さらに、土御門上皇が土佐に流されたとき、上皇の守護の任にあたったのは小田知重であった。知重麾下の武将ひとりに千葉一族の君島十郎左衛門嗣胤がいた。この嗣胤の孫は胤時を名乗り、建武二年、三河国矢作川の戦いに新田方として活躍、その戦功により備中守に任じられた。「藤原」「源」「ともしげ」「たねとき」といった畑氏に関わるキーワードが網羅され、まことに魅力のあるものだが、ちょっと推理小説的にすぎるようにも思われる。.....

畑氏の丹波入部に関して、一説には新田義興に属して刀禰山で戦死した時能の嫡男時純は、出陣に際して弟の能速に置文をしたため家督を譲ったという。時純戦死後、能速は武蔵を放浪したのちに、江田行義・大館氏義を頼って丹波綾部庄に身を寄せた。そして、江田・大館の助力をえて曽我部庄に入ると八百里城を築いて土着したというのである。また、能速が丹波に来住したとき、脇屋義助の子で藤坂の中馬氏の祖という尾張守義治が同行したとする伝承もある。いずれにしろ、丹波畑氏のはじめについては伝説的というしかないようだ。


丹波の有力国衆に成長

 南北朝期、丹波守護職は仁木頼章が補された。仁木氏が幕府内の政治抗争に敗れて没落すると、山名時氏・氏清父子が守護職に任じられた。ところが、山名氏は「明徳の乱(1391)」で勢力を失い、幕府管領を務める細川頼元が丹波守護に補されたのである。以後、丹波守護職は細川氏宗家が世襲することになる。このころ、畑氏は六郎時速の子能道が当主であったようで、能道は丹波守護細川頼元に属した。
 応永六年(1399)、大内義弘が幕府に叛旗を翻した「応永の乱」が勃発すると、さきに明徳の乱に敗れた山名氏清の子時清・満氏らは大内義弘に加担し、畑庄の北方にある奥畑城に籠城した。これに対して幕府は、同じ山名一族の時熙を討手に差し向けた。能道は福住の籾井氏とともに討手の陣に属して、奥畑城攻めに功を挙げたと伝えられている。
 応仁の乱を契機として、世の中は戦国時代の様相を濃くしていく。この乱世のなか、将軍の権威は有名無実化し、代わって幕府管領細川氏をはじめ有力守護大名らが幕府政治を左右した。応仁の乱に際して、畑氏は他丹波国衆とともに細川方として京に出陣したものと思われる。そして、文明十七年(1485)、幕府奉行人の連署で畑一族に宛てて、大芋荘名主百姓が年貢を拘置して逃散したのを還住せしめていることが『土佐文書』から知られる。
 やがて、「明応の政変(1493)」を起こした細川政元が幕府の実権を掌握した。ところが、永正四年(1507)、政元は家督をめぐる内部抗争によって家臣に暗殺されてしまった。以後、細川氏は家督をめぐって内部抗争を繰り返し、畑氏ら丹波国衆は細川氏の内訌に翻弄されることになる。
 細川澄元と細川高国との戦いには高国方に属し、畑弥太郎(守綱か)は近江国神崎に出陣している。この細川氏の内部抗争は、丹波国衆を二分し、勢力地図は大きく塗り替えられていった。とくに因幡出身で細川氏の内衆として丹波に進出してきた波多野氏が台頭、元清(稙通)は高国方の中心勢力であった。大永元年(1521)、守綱は波多野元清(稙通)から曽我部荘の所領を安堵されている。
 大永六年、讒言を信じた高国が元清の弟香西元盛を謀殺したことで、元清は細川晴元方に転じた。 そして翌七年、元清は弟の柳本賢治、晴元の重臣三好元長らとともに京都に侵攻、桂川の戦いで高国軍を撃破した。 こうして畑氏は波多野氏の麾下に属し、八百里城に拠って一方の旗頭となった。さらに奥畑城もその支配 下におくなどして、丹波の有力国衆の一に成長したのである。  


畑氏の故地を訪ねる


・畑氏の居城八百里山城の案内柱、背後に説明板も立っている。
・八百里山城の登り口にある鳥居、松茸山ということで秋は登城はできない。
・東側から見た八百里山城、優しい山容をみせる。
・奥畑にある神護山太寧寺、細川持春が父満国の供養のために建立した。
・細川氏、波多野氏、畑氏らが崇敬し援護を続けた佐佐婆神社。


「丹波志」には大渕古館として「天正の頃、畑佐近允能綱同弟弾正守弘等住む」と記された「土居の内」史跡。土居とは、中世、集落や建物などの周囲に防御のために巡らした土塁のことをいい、本史跡は、往時の武士の暮らしを偲ばせるものである。【右端:土居の内の後方に素晴らしい虹が出た】

●丹波八百里城に登る

戦国時代の終焉

 戦国時代末期の天正三年(1575)から同七年、天下統一を押し進める織田信長は部将明智光秀に命じて丹波経略を開始した。そもそも、丹波の諸勢力ははじめ織田信長に好意的であったが、天正三年に波多野氏、赤井氏らが信長に離叛したことから、信長の丹波攻めが始まった。畑牛之允守能は子の守国・能国らとともに、波多野氏に属して信長勢に抵抗した。
 天正五年、明智光秀は氷上郡黒井城の赤井直正を攻めたが敗れ、多岐郡の鼓峠を越えて亀山に敗走した。そのとき、守能は三岳を越えて鼓峠に出陣、本郷の細見氏らとともに光秀軍を待ち伏せ、散々に打ち破った。また、播磨の別所氏や安芸の毛利氏との間を使者として往来している。
 しかし、丹波勢は物量に勝る明智軍の攻勢によって次第に切りくずされていき、ついに天正七年、波多野氏は光秀に降伏、八上城は陥落した。守国・能国兄弟は明智軍との戦いに戦死し、守能は戦陣を逃れて摂津母子の永沢寺に入って得度、老牛と称したという。一説には、畑一族に宛てて遺言状を残すと高野山に上ったともいわれる。かくして、八百里城を拠点に丹波国人のひとりとして勢力を維持した畑氏は、他郷に奔る、あるいは山林に隠れたのである。
 その後、明智光秀が信長を本能寺に殺し、光秀も山崎の合戦に敗れて滅亡すると、畑氏一族は故郷に還住して 現代に続いた。いまも、佐々婆神社を中心とした畑には、畑姓を名乗る人たちが暮らされ、篠山唯一の中世土豪の 館跡「大渕館(土居の内)」が残っている。 ・2004年11月08日→11月12日→2008年10月5日→2021年8月6日

■丹波細見氏-家紋分布


主な参考文献:多紀郷土史考/丹波志/日本国誌資料叢書『丹波・丹後』/みたけの里-歴史さんぽ/畑経雄氏の論文/畑時能公遺徳顕彰会刊行物 など】

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■参考略系図
・「丹波志」「妙心寺史」畑経雄氏の論文などから作成。
  

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