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畑氏
●丸の内鶴丸に一文字
●桓武平氏畠山氏流?
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土居の内に現住される畑家の家紋を採録、丸に二つ引両・菊に一文字を用いる家などもある。
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デカンショ節で知られる丹波篠山の東北に瀬利という在所があり、戦国時代、そこに八百里城があった。城主は畑氏で、南北朝時代に新田義貞に仕えて軍功をあげた畑六郎左衛門時能の子孫という。畑氏は武蔵国府中の出身といい、その祖先は源頼朝に仕えて武者のなかの武者と賛えられた畠山重忠であると伝えている。いわゆる桓武平氏の流れということになる。六郎左衛門時能は鷹巣城下の戦いで戦死し、その子六郎時速が新田一族で丹波にいた江田行義を頼って丹波に移り、曽我部郷畑村に住したのが丹波畑氏のはじめである。
南北朝期、丹波守護職は仁木頼章が補されたが、やがて山名時氏・氏清父子が守護職にあった。ところが、山名氏は「明徳の乱(1391)」で勢力を失い、細川頼元が丹波守護に補されたのである。以後、丹波守護職は細川氏が世襲することになる。このころ、畑氏は六郎時速の子能道が当主であったようで、能道は丹波守護細川頼元に属した。
応永六年(1399)、大内義弘が幕府に叛旗を翻した「応永の乱」が勃発すると、山名氏清の子時清・満氏らが大内義弘に加担し、八百里城の北方にある奥畑城に籠城した。これに対して幕府は、同じ山名一族の時熙を討手に差し向けた。能道は福住の籾井氏とともに討手の陣に属して、城攻めに功を挙げたと伝えられている。能道のあと、守道─守永─守重─守綱と続き、丹波守護だった細川満元─持元─勝元─政元に属して活躍、畑一族は丹波の一角に勢力を築きあげたのでる。
●八百里山城、遠景
●戦国乱世のなかの畑氏
応仁の乱を契機として、世の中は戦国時代の様相を濃くしていく。この乱世のなか、畑氏は丹波守護細川氏に属して京洛の合戦に出陣したことは疑いないが、その間の確かな記録はみあたらない。やがて、内訌を起した細川氏は次第に勢力を失い、代わって被官波多野氏が大きく台頭してきた。
この間の文明十七年(1485)、幕府奉行人の連署で畑一族に宛てて、大芋荘名主百姓が年貢を拘置して逃散したのを還住せしめていることが『土佐文書』から知られる。そして、十六世紀はじめの大永元年(1521)、守綱は波多野稙通から曽我部荘の所領を安堵されている。こうして畑氏は波多野氏の麾下に属し、八百里城に拠って一方の旗頭となった。さらに奥畑城もその支配下におくなどして、丹波の有力武将の一に成長したのである。
戦国時代末期の天正三年(1575)から同七年、天下統一を押し進める織田信長は部将明智光秀に命じて丹波経略を開始した。そもそも、丹波の諸勢力ははじめ織田信長に好意的であったが、天正三年に波多野氏、赤井氏らが信長に離叛したことから、信長の丹波攻めが始まったのであった。
畑牛之允守能は子の守国・能国らとともに、波多野氏に属して信長勢に抵抗した。しかし、天正七年、明智軍の総攻撃で波多野氏は滅亡、守国・能国兄弟は戦死し、戦陣を逃れて摂津母子の永沢寺に入った守能は得度し、老牛と称したという。一説には、畑一族に遺言状を残すと高野山に上ったともいわれる。いずれにしろ、南北朝時代より八百里城を拠点に丹波に一定の勢力を維持した畑氏は、信長軍の攻撃に敗れて武家としての歴史に幕を閉じたのである。・2004年11月08日→11月12日
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