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玉置氏
洲 浜
(桓武平氏資流/尾張連後裔?)

 玉置氏は、家伝によれば平資盛の子が熊野に逃れ、大和吉野郡十津川村の玉置山上に鎮座する玉置社の神官となったと伝える。『太平記』には玉木荘司とみえ、その本拠は大和国十津川村折立付近であったといい、いまも十津川には玉置姓が多い。
一説によれば玉置氏は尾張連の流れを汲むともいうが、確かな系図が伝来していないこともあって出自に関しては不明というしかない。

玉置氏の発展

 後醍醐天皇の倒幕運動から起こった元弘の乱(1331〜33)当時の荘司玉置盛高は、幕府方として大塔宮の入山を拒んだ。盛高の養子直光に三人の男子があり、長男は玉置社別当職を継ぎ、次・三男は紀伊国日高郡川上庄・山地庄に移って別家を立てた。そして、日高川沿いに進出した次・三男の流れが、室町期に畠山被官となる玉置氏であろうと考えられている。
 いずれにしろ、玉置氏は熊野地方における一土豪であり、南北朝時代、北朝方に味方した玉置氏一族の玉置直虎が山地に鶴ヶ城を築き居城としたことが知られる。さらにその一族と思われる玉置大宣が日高川を下り、和佐に進出して手取城を築いた。かくして、鶴ヶ城に拠った山地玉置氏、手取城に拠った和佐玉置氏の二流に分かれた。和佐玉置氏は和佐の旧勢力である山崎(川上)城主川上兵衛則秋を滅ぼして、和佐を支配下におくと別所谷に築城、みずからの手で領地を切り取ったことから「手取」城と名づけたのだという。
 玉置氏が和佐に進出してきたころ、日高川一帯は牟婁郡芳養から興った湯川氏が亀山城を築いて勢力を拡大しつつあった。文和元年(1352)、将軍足利義詮は湯川光種に川上城攻めにおける感状を与えている。ついで、永和五年(1379)には紀伊守護山名義理が紀州に来攻、川上城はこの陣によって落城したようだ。おそらく、湯川氏が川上城を攻略したのち、和佐に進出してきた玉置氏が川上城を襲撃、攻略したものであろう。按ずるに玉置氏が和佐に足がかりを掴んだのは、十四世紀後半のことと考えられる。
 その後、室町幕府体制が確立すると、隣接する湯川氏とともに幕府の奉公衆として四番方に属し、畠山・玉置氏らとともに幕府の「御番帳」にも名を連ねた。一方、応永の乱後、紀伊守護に畠山基国が任じられると湯川氏らとともに畠山氏にも属したようだ。とはいえ、室町期の玉置氏の動向は、史料不足もあって必ずしも明確ではない。
 奉公衆は京の将軍に直属し、ともすれば強大化する在地の守護を牽制する役割も担っていた。 文安元年(1444)、玉置氏の惣領とおぼしき某が管領畠山持国邸において殺害された。理由は「国に於て野心ある故なり。公方奉公の者なり」とあり、奉公衆玉置氏が守護畠山氏にとって敵対的存在であったことをうかがわせる。ついで、康昌二年(1456)の内裏造営に際して、玉置氏は国役十六貫七文を負担しており、その記録に本領紀伊河上庄とあることから、玉置氏惣領が奉公衆であったことは疑いない。

動乱の時代

 十五世紀、永享の乱、嘉吉の乱が相継いで勃発、動乱のなかで将軍権力は次第に有名無実化し、幕府体制は動揺をみせるようになった。さらに、幕府管領家である斯波氏、畠山氏に家督をめぐる内訌が起こり、それに将軍継嗣問題が絡まって、時代は乱世の様相を濃くしていった。そして、応仁元年(1467)、京の御霊神社において畠山義就と畠山政長とが武力衝突、応仁の乱が勃発したのである。
 畠山政長は紀州の守護職であり、玉置氏ら紀伊の国人衆は政長に従って東軍に属したと思われる。応仁の乱は、京を焦土と化して文明九年(1477)に鎮静化した。しかし、乱は全国に及び、畠山義就と畠山政長の抗争は終わることはなかった。両畠山氏の抗争に紀州の国人衆も翻弄されたが、政長が管領職に就き、延徳二年(1490)に義就が死去したことで抗争は一応の決着がついたかに見えた。
ところで、長享元年(1487)、近江の六角高頼討伐を決心した将軍足利義尚は、直属の奉公衆を中心とした軍勢を率いて近江に出陣した。そのなかに玉置氏の名は見えないことから、このころ玉置氏は奉公衆から外されていたようだ。おそらく、両畠山氏の抗争のなかで、在地領主としての道を歩みだしたのではないだろうか。
 明徳二年(1493)、政長は義就のあとを継いだ基家(のち義豊)を討つため、将軍足利義材(のち義稙)を擁して河内に出陣した。ところが、その留守を突いた政敵細川政元のクーデタによって事態は急変、政長は嫡男尚順を紀州に落としたのち河内国正覚寺において敗死した。
 その後、政局は複雑に動き、家督相続をめぐる内部抗争によって細川政元が暗殺され、細川氏は二流に分かれて対立、抗争が続いた。やがて、細川氏は衰退の色を深め、重臣の三好長慶が幕府を牛耳るようになった。その間、畠山氏の内訌も収まることなく続いたが、尚順を追った湯川氏ら国人勢力が自立するようになった。

乱世を生きる

 独自な戦国領主として歩みだしたとはいえ、湯川氏は畠山氏との協調関係を維持し、湯川直光は高政を擁して河内守護代に任じられた。高政は三好長慶の後押しで河内高屋城に拠ったが、その後、高政と長慶との間に不和が生じ対立関係となった。永禄五年(1562)、高政は湯川直光ら紀伊国人衆、根来衆らを率いて河内に出陣、三好軍との間に戦端を開いた。玉置氏も竜神・貴志・安宅氏らとともに高政に属して活躍、久米田の合戦で三好実休(義賢)を討ち取る勝利をえた。
 その後、松永久秀ら三好軍が河内国教興寺表に進出、久秀は謀略をもって畠山勢を撹乱、動揺した高政は兵を引き上げてしまった。このとき、湯川・玉置らの紀州衆と根来衆は退陣が遅れ、教興寺あたりで三好軍と激戦を展開し、湯川直光をはじめとした湯川一族、竜神・貴志・安宅・目良らの諸将、根来衆らが戦死をとげた。畠山高政も三好軍の攻撃によって紀州に逃れ、畠山勢は壊滅的打撃を被ったのである。
 永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛、時代は大きく転回した。信長は将軍職に就いた義昭を奉じて、着実に天下統一を推し進めていった。このころ、玉置氏は玉置千光院(直和?)・小平太(永直?)の時代で、日高郡・有田郡の内で一万石を領していたと伝えられる。
 やがて、信長と義昭の対立が表面化、天正元年(1573)、義昭は信長打倒の兵を挙げたが敗れ去った、信長に追放された義昭は河内を経て、紀州の湯川直春を頼ってきた。泊城に入った義昭は、玉置氏らに文書を発して協力を依頼した。しかし、湯川氏はもとより玉置氏らは義昭に協調しなかったため、義昭は紀州を去っていった。その後、紀州はつかの間の平穏な時間が過ぎたようだ。

戦国時代の終焉

 天正十年、本能寺の変で織田信長が横死、部将であった羽柴秀吉がにわかに出頭、ついには天下人へと駆け上っていった。天正十三年、紀州攻めの陣を起こした秀吉は、根来寺、大田城を打ち払うと、紀州南部にも兵を進めた。このとき湯川直春は一族、被官、麾下の諸将らを集めて軍議を開いたという。その場で、直春の女婿である玉置直和をはじめ白樫氏・神保氏らは直春に降伏を勧め、湯川一族の安芸守も秀吉への帰順を進言した。しかし、直春は抗戦を主張したため、結論は秀吉軍迎撃となった。直春と袂を分かった玉置直和・白樫氏・神保氏らは、それぞれの居城に立て篭もった。
 直春は白樫氏と名島表で戦い、さらに玉置氏の拠る手取城へと攻め寄せてきた。玉置一族と湯川勢との間で坂ノ瀬合戦が起こり、敗れた玉置氏は城を落とされ没落となった。その後、湯川直光は秀吉と和議を結び、紀州の戦乱も終わりを告げたのである。
 手取城から落去した玉置直和は、子永直に家督を譲ると高野山に上って出家し、茶の湯の瑞穂流を起こしたと伝えられる。永直は豊臣秀長に仕えて三千五百石を与えられたが、秀長が没したのちは秀吉に直仕した。そして、関が原の合戦には西軍に属したため没落、のち紀州徳川家に仕えたという。
 玉置氏が拠った手取城は東西500m、南北250mという広大な城域に、連続堀切や畝状竪堀、谷からの敵に備えた横堀、土塁が残り、和歌山県下屈指の中世山城として知られる。保存状態も良好で、「山城の歴史の中で戦国時代の城郭の典型、集大成を示す城郭」と高い評価を得て、川辺町の文化財となっている。   
  
手取城址を歩く


● 城址を遠望する ・夏草の繁る堀切 ・東の曲輪の大土塁 ・玉置氏の菩提寺-生蓮寺 【右端:縄張図】

→ 手取城址に登る

参考資料:御坊市史/日高町史/中世城郭事典 ほか】


■参考略系図

参考:尾張氏発祥系図


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