玉造氏
二つ巴*
(桓武平氏大掾氏流)
*源平姓氏・家紋400大事典(1984/12歴史読本臨時増刊
所収:能坂利雄氏監修)による。 |
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平安中期に、地方に発生した武士団は、周辺の武士団を統合して、やがて各地方に無視しがたい実力をつけていった。その典型的な大武士団が桓武平氏と清和源氏であった。両氏のうち、桓武平氏は東国に定着して諸地域に一族を拡大させた。桓武平氏のうちで、常陸国内で発展したのが常陸大掾氏であった。常陸大掾氏は平国香の孫にあたる維幹を祖として、筑波山麓南西の多気を本拠に勢力ももち、十二世紀初期の致幹の時代には真壁・下妻・結城・小栗・水戸へ進出している。
この大掾政幹の弟で、水戸へ進出したのが清幹であった。清幹は吉田を根拠として吉田次郎と称し、さらに南方の鹿島・行方両郡へ進出した。建久二年(1191)「摂政前太政大臣家政所下文」によると、清幹は行方郡内の鹿島社領内に領地を有していた。これが、常陸大掾氏の行方郡に関与した最初の記述でもある。
清幹には三子があり、父の開発地へ分出した。すなわち長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎と称して、それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となった。とくに忠幹は行方平四郎とも称して、吉田から行方郡内へ進出ののち、行方郷に居を構えている。
忠幹の子景幹は行方太郎刑部大輔と称して、平安末期から鎌倉初期にかけて活動した。景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇った行方氏の基盤を確立した人物である。鎌倉期の東国諸地域では、鎌倉幕府の奨励によって、荒野開発の気運が高まり、景幹もこの状況のもとで行方郡内の荒野開発を押し進める一方、鹿島社領への侵入を繰り返すことで自領を拡大していった。景幹の鹿島社領への進出は北浦西岸の北浦・潮来・小牧・大生から霞ヶ浦北岸の麻生、玉造にまで及んでいる。このため、景幹は神宮の神官と社領支配をめぐって、しばしば衝突を引き起こした。
行方氏は吉田氏から分出して以来、忠幹・景幹の二代にわたって地頭職を利用し幕府の政策に応じて、神宮社領の侵入と荒野開発を進展させ、行方郡内に確固たる地盤を築いていったのである。
行方一族の四頭と玉造氏
景幹の四子は長男行方太郎為幹、次男島崎太郎高幹、三男麻生三郎家幹、四男玉造四郎幹政であった。それぞれ、行方・島崎・麻生・玉造の各氏の祖となった。そして、この四子は景幹の開発地や特権を分割譲与されて、行方郡内の諸郷村の地頭として発展していく。
このうち、長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、のちに、小高へ築城して移動したので、小高氏を称するようになった。また、この四子の創設した四家は、郡内に広まった行方氏一族の中心的地位を占めたことから、俗に「四家」と呼ばれ、特異な存在であった。四頭は、小高氏を惣領として結合し、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形態で、行方氏一族の統合を計っていった。
その後、行方氏は鹿島神宮の祭事や、造営等に関与することで支配を安定させた。とりわけ、行方氏の支配権の確立に影響を与えたのが、鹿島社の大使役であった。鹿島大使役とは、鹿島社の大祭の祭使を勤める役である。この大祭の祭使には平安末期のある時期まで、朝廷より勅使が派遣されていた。しかし、その後の律令体制の崩壊による国家財政の化を理由に中止され、国衙の最重職にある大掾官が代官として勤仕する慣例となっていたものである。
また、大使役は大掾氏一族のみで勤仕され、他氏の介在をまったく許さないものであった。常陸大掾氏は国府(馬場)・吉田・行方・鹿島・小栗・真壁・東条の有力七家によって構成されていた。そして、この七家が七年に一度、順番で勤仕する体制をとっていた。大使役の巡役体制は源頼朝の在世中にすでに開始され、戦国時代まで続いている。一方、この大祭の費用は鹿島社領に特に設定されず、大使役を勤める大掾氏一族の供出に依存することが大きかった。そのため、大掾氏一族には支配地に対して、特別な権限が認められていたようである。つまり、大掾氏一族は居住する郡郷から、郡役・郷役を徴収できる権限をもっていたようである。
行方氏の場合、小高氏を中心に四頭が順不同ではあるが、一様の間隔で行方郡役を勤め、頭は大使役の勤仕という一大神事を通じて、郡内に拡大した一族の中核的地位を占め、リーダとして重大な役割を担ったようである。
玉造氏は四頭の一家として、政幹の定着以後、その子孫は郡内西部の諸村の地頭として勢力を培っていった。とくに、玉造氏が行方郡西端に位置し、その勢力が南郡境に及ぶという地理的な条件から、行方氏一族の西方に対する守衛として、軍事面での責任は大きかった。そのため、西方の下河辺氏一族の動向に対する警戒を要した。このため、玉造氏は郡西部の分出した一族庶子を統制し、これに備える必要があった。
鹿島大使役は玉造氏の一族統制に有利な状況を与えた。こうして、玉造氏は大使役に任命されると、行方郡役を催促し、玉造・現原・手賀らの勢力下の諸郷から郷役を徴収して、大祭の祭使を勤めたのである。当然、外部からの侵入に対してもこのことが機能したことは間違いない。
玉造庶氏家の台頭
鎌倉幕府の滅亡より南北朝対立の時代になると、鎌倉以来の有力武士は支配体制に一転機がもたらされた。鎌倉期に分出した庶子は次第に成長を遂げ、惣領の支配から自立する傾向が顕著になってきたのである。すでに常陸国では、鎌倉期には国内北方の一勢力に過ぎなかった佐竹氏が、小田氏の衰退に代わって常陸国守護に任じられ、国内政治の中心的存在とみられるまでに成長した。
以来、常陸国内で発生した争いは、佐竹氏の影響を強く反映することが多くなった。このような政治的な変化は、比較的平穏であった玉造地方に所領を有する諸氏にも影響を及ぼしてきた。すなわち、玉造氏一族の手賀氏、鳥名木氏および行方庶子らは、南北朝期より次第に地域の支配者として、独自の道を歩むようになったのである。このため、玉造氏、行方氏らは、一族庶子の発展にともない、新たな対応を迫られることになった。
手賀氏は玉造四郎幹政の次男正家が手賀郷に一城を構えて手賀氏を称したことに始まる。以後、鎌倉期を通じて惣領玉造氏の支配下で所領を拡大していったのであった。鳥名木氏の出自は明かではないが、諸系図や鳥名木文書等によると、手賀氏の勢力下において活動していることから、手賀氏を惣領とする庶子家と思われる。
南北朝時代末期になると、鳥名木氏は常陸国内をはじめとする諸々の合戦に参加し、領主としての地盤を築いていたようである。さらに、鎌倉公方の命令に応じて諸戦に従軍し、所領の維持と拡大をはかっている。一方、惣領の手賀氏の圧力を受け、鹿島造営費用の徴収をめぐって抗争をしている。
戦国時代の玉造氏とその滅亡
南北朝期における玉造惣領家の動向は、庶子の活動に比して詳らかではない。さらに十六世紀後半の戦国期における玉造氏の動向を伝える史料も少なく、不明な点が多いのである。
天文五年(1526)二月、玉造宗幹は島崎利幹と戦った。この合戦は玉造氏と小高氏という隣接する行方一族の間における争いを契機として、卓越したリーダのいない行方地方の中小領主層の間で、かつての行方四頭とは異なる新たな勢力分布創出の気運が生じ、その動きと府中大掾氏・結城氏・真壁氏や、小田氏・佐竹氏・
江戸氏など常陸の諸氏が勢力拡大にむけた利害関係がからみあったものと思われる。
さらに、その背後には上杉氏の勢力、および古河公方の勢力と新たな東国支配体制を築こうとしていた、五北条氏の勢力が存在していた。時代はまさに流れていたのである。
永禄六年(1563)、大掾貞国が小田氏治と三村で合戦をして敗れた。翌七年には、佐竹義昭が小川城から府中城に入り、常陸大掾氏を援け、小田氏攻めの拠点とした。しかし、翌八年十一月に義昭は府中城において没した。その後、永禄十二年(1569)には、佐竹義重が小田城を攻撃するにあたり、花室城の城番衆として、玉造氏、手賀氏が動員されている。また、鹿島治時が、惣領家にそむいた烟田忠幹を攻め、鹿島郡の北部に勢力を拡大しようとした。
天正四年(1576)鹿島治時が没し、翌五年には、大掾貞国も没し、清幹が大掾氏を継いだ。すると小川城の園部氏が大掾氏に背き江戸重通に内通する動きがあり、大掾清幹は田木谷城を修築して小川城に対処した。一方、佐竹氏の小田氏に対する攻勢は続き、宍倉城・戸崎城を攻略し、翌六年には、木田余城を攻略、その城番衆として、鹿島・行方両郡の諸氏が動員された。このころ、小田氏治は、小田城を攻められると土浦城に逃れ、また小田城を奪還するということを何回か繰り返したが、次第にその勢力を衰退させていった。
天正十四年(1586)、江戸重通と大掾清幹の対立が表面化し、佐竹氏の和平工作も効なく、江戸重通の軍は竹原城を攻略し、園部川を渡って行里川に進み、ここで大掾清幹の軍と衝突した。その後清幹は、玉造に出兵し、武田信房を攻め、高岡城を攻撃した。同十六年、ふたたび江戸氏と大掾氏の対立が激化し、江戸氏と佐竹氏の連合軍は、大掾方の小幡城、片倉城、田余城を次々と攻略し、大掾清幹は和議を請うに至った。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した佐竹義宣は、秀吉から常陸国において二十一万貫の所領を安堵された。そして、十二月には江戸氏の拠る水戸城を攻撃し、江戸一族を服属させ、さらに、府中城を攻撃し、大掾氏を服属させた。常陸南部においてもその支配を強化し、秀吉からの安堵の実質化をめざした。この活動の延長として、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちが、天正十九年(1591)二月、太田城に招かれ、佐竹氏によって謀殺された。
このとき、玉造城主の与一太郎重幹は、宇垣伊賀守に捕えられて、大窪兵蔵に預けられ、正伝寺において切腹させられた。また、一説に重幹は太田に着いて間もなく、軍勢に取り囲まれたが、中田蔵之助貞利と須賀隼人正という家臣と三人で大久保の正伝寺まで落ち延び自害し、二人の家臣も主君に殉じたと伝えられている。
太田での変事が玉造に報じられると、玉造在地の家臣たちは、玉造城に籠城して押し寄せてきた宇垣伊賀守らの軍勢と戦った。しかし、水戸の江戸氏や府中の大掾氏を討滅した強大な佐竹軍を防ぐことはできず、佐竹氏に内応する者も出て、玉造城は短期間のうちに落城した。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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