十河氏
公饗に檜扇
(讃岐朝臣後裔) |
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十河氏は景行天皇の流れを汲み天皇の皇子神櫛王が南海道を治めるために、讃岐に派遣された。王は山田郡に居住し、子孫は延暦年中に讃岐公の姓を賜った。貞観六年(864)八月、讃岐朝臣高作・同持雄・持人などが姓和気朝臣を賜ったと「三代実録」にみえ、高作・持人の父が永直である。
讃岐公永直という人物は、奈良朝時代の明法博士として名高い。娘は光孝天皇の女官だったが皇子を生んだ。永直は令義解十巻を十二人で天長三年(826)から十年かけて編纂した。そして子らが和気朝臣の姓を賜った。
これらの後裔が鎌倉時代に植田氏となって讃岐地方史に現われてくるのである。植田氏は山田郡を根拠として、十河・神内・三谷などの諸氏に分かれ、東讃岐を勢力圏としていった。そして、十河氏は讃岐朝臣景邦の子景次がはじめて十河を称するようになったのが始まりいわれている。
幕府が崩壊、南北朝時代になると細川氏が守護として四国を領有し、讃岐はその治下になった。細川頼之の時には、讃岐国内の諸氏は悉くこれに隷属した。主なものは、香西・新居・福家等の一族、それに羽床・詫間氏等讃岐藤氏の輩、讃岐橘氏とよばれた長尾・寒川・三木氏、神櫛と伝える十河・神内・三谷等の植田一党、その他秋山・近藤・大平氏等であった。
室町時代中期、将軍足利義政は政務を忘れて奢侈と風流の生活を続けた。結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、四職の一人山名持豊らに握られた。そして、やがてこの両者が対立し、応仁元年(1467)京都の東西に対陣して、戦端を開くにいたった。世にいわれる「応仁の乱」が勃発した。
勝元は急ぎ領国の讃岐・土佐・丹波・摂津、その他から十六万余の兵を集めて京都の東北に陣していた。讃岐より参加した諸将は香西・安富・奈良・羽床・長尾・寒川、そして三谷・神内・十河の植田一族らであった。その後も戦乱は続き、文明四年(1472)五月、香西・安富二将は寒川・羽床・長尾・三谷・植田・十河等を率いて相国寺で大合戦となり、十月に相国寺は炎上し、安富元綱・同盛継らは戦死した。
文明五年、三月に山名宗全が、五月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平させた。しかし、戦乱はおさまることなく日本中に波及し、世は戦国時代となった。
戦国期に至り、十河氏が大きな力をもつようになるのは、阿波にあって同じく細川氏に仕えていた三好氏との結び付きをもったことにほかならない。
十河氏の勢力伸長
それは、細川政元の養子の澄之と澄元の対立に始まった。永正三年(1506)、澄元派の三好之長ら阿波の三好氏が十河氏ら植田一族と結んで讃岐に親友したことによる。当時、澄之派にあった香西氏ら讃岐の大方の国人は澄元派である三好氏の讃岐侵入に抵抗した。しかし、三好氏と済んだ十河ら植田一族は、三好氏の後楯をもってそれら諸氏と対立することになった。
そのような状況下、十河景滋(存春)の嫡子金光が早世してしまい、三好長慶の弟が十河氏を継ぎ一存と名乗った。一存は安宅氏を継いだ冬康とともに、兄三好長慶の下剋を支える一人になったのである。そして、一存は兄長慶を助けて畿内に戦い、その戦いぶりは勇猛で、さらに容貌も鬼のようであったところから「鬼十河」の異名をとった。
一方、三好氏は、主家である管領細川晴元と対立、長慶は晴元を凌駕する勢力をもち、将軍義輝を擁立するなど、幕府の実権を握った。一存は、子の義継を兄・長慶の養子として三好氏を継がせたり、三好実休(義賢)の子存保を自身の後継としたり、三好氏との関係を深め、その後楯をもって讃岐全土をその勢力下におさめていった。
その後、一存は永禄三年十二月有馬に湯治の折、落馬がもとで翌年三月に没した。養子の存保が十河家を継ぎ、一存以来の堺所司代をつとめた。ところで、存保は十河城に入り十河氏を継いだが、さらに本拠地を東讃の虎丸城に置いた。天正六年(1578)、三好本家を継いでいた実兄・三好長治が傀儡君主として立て、後に追放処分とした細川真之との抗争により自刃。家中の動揺を回避すため存保は勝瑞城に入り阿波一国をも支配するようになった。この時、真之の後ろ盾には、土佐の長宗我部元親がおり、元親は四国制覇を目指していたのである。
永禄十一年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて入洛すると、本家の三好義継らは信長に降ったものの、長治ら三好一族は信長に抗し、元亀元年(1570)摂津野田・福島において信長と戦った。しかし、信長の勢力に抗しきれず、存保は天正三年(1575)長治とともに信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入った。
天正五年、三好長治の死によって、長治の遺跡を継いだ存保は阿波勝瑞城入り、阿波.讃岐二ケ国の主におさまった。
・写真:南北朝期から戦国期まで十河氏が拠った-十河城祉。
長宗我部氏との攻防
やがて、長宗我部元親が四国統一の軍を起こし、存保は土佐軍との緒戦に敗れ、長宗我部軍の東南阿波への侵攻を許してしまった。
その後も元親の率いる土佐軍の攻勢のなか、存保は次第に劣勢を強いられ、信長に援軍を請い、中国征伐中の秀吉と結んで元親に対抗した。そして、存保自ら、織田の四国征伐軍の先鋒として活躍を見せたが、天正十年(1582)六月、本能寺の変により信長が横死すると事態は急変した。
八月、満を持していた元親が行動を開始した。香川親政を総大将とし土佐・阿波・西讃の兵一万余が十河城に押し寄せた。一方、阿波の勝瑞城には元親の本軍二万三千が迫った。八月二十八日、長宗我部軍は一宮成祐・桑野康明を先陣として吉野川下流南岸の黒田の原まで進出した。これに対して十河存保は、兵五千を率いて自ら勝瑞城を出て、勝興寺表に本陣を構えた。さらに存保は先陣二千余を前面の中富川の川原に配し、長宗我部軍を迎え撃った。
ここに阿土両国の命運をかけた決戦が、吉野川の本流中富川を舞台に開始された。長宗我部軍は香宗我部親泰の兵三千を先手とし、対岸の存保勢を目指した。一方、迫る敵に対して存保勢も果敢に馬を川中に乗り入れ向かえうった。かくして、川中から岸辺にかけて凄惨な死闘が繰り広げられた。存保の先陣は二万余の大軍を一手に引き受け「先陣二千余人今日を限りに」と最後の死力を尽くしたが、主将の矢野伯耆守が戦死したのを始め各所で土佐軍に突き伏せられ、十河存保の先陣は壊滅し、大敗北を喫した。
存保は味方の敗戦を前にして、今はこれまでと、敵陣に駆けこもうとしたが、十河但馬守らの必死の諌止によって勝瑞城籠城を決意し、残兵をまとめて退いた。元親はただちに存保の籠る勝瑞城の攻撃に着手し、たちまち本丸近くまで進出した。しかし、元親はあえて力攻めすることを避け、持久戦に出た。その後、小規模な戦いはあったが、大勢はすでに決し、存保は降伏を申し入れ、一旦は拒絶されたものの、元親はこれをいれた。こうして、存保は勝瑞城を出て虎丸城へと退去した。
讃岐虎丸城に退いた存保は、信長の後継者の位置に台頭した秀吉に援助を請い、元親の攻勢を止めるべく手だてを講じるが、元親の率いる土佐軍の勢いを止めることはできず、存保の弟三好存之の守る十河城もついには陥落してしまった。
この戦況をみて、秀吉も見過ごすわけに行かず、存保からの援軍の申し出を受け、淡路洲本の仙石秀久に救援に向かうよう命じた。秀久はさっそく讃岐に向かい、引田に船を紛れさせて長宗我部軍を迎え撃つ作戦を採った。しかし、この作戦を察知した元親は、引田周辺に陽動作戦を展開させ上陸してきた仙石軍をさんざんに打ち破った。さらに、引田の町を包囲していた仙石軍に対しては、甥の吉良親実を当て、包囲軍を船に追い落とした。
この時秀吉は、宿敵柴田勝家と対峙していたため、四国にまで手が出せない状況にあったこのため引田の合戦での仙石軍敗北により、実質的に秀吉からの援助は絶たれたこととなり存保は孤立無援の状況に置かれてしまった。結局、本拠虎丸城も元親に奪われ、命辛々大阪城へ逃れることとなった。
翌年、賎ヶ岳の合戦から北の庄城攻めで勝家との間に決着をつけた秀吉は、本腰を入れて四国征伐軍を組織し、存保もこれに属して戦った。戦いは秀吉軍の優勢のまま推移し、ついに元親は家臣の助言を入れて、秀吉に降伏し、元親の四国制覇の野望は潰えた。一方、存保は旧領の讃岐十河城三万石を安堵され、豊臣大名の一となった。
戸次川の戦いと十河氏の滅亡
その後、豊臣秀吉による九州島津征伐が着々と進められた。天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。豊臣軍は仙石秀久を目付として先鋒には十河存保五百余人、讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他が秀吉の命を受け戦陣に加わった。そして、土佐勢の長宗我部元親、その嫡子信親らとともに出陣。
島津軍との決戦の場は豊後戸次川の河原であった。島津軍を前に、戦に馴れた十河存保・長宗我部元親らは大友勢の到着を待って渡河する、あるいは島津軍の渡河を誘ってそれを叩く策を秀久に勧めたが、功にはやる仙石久秀はかれらの意見を無視して、島津軍に攻撃を開始すべく行動を開始した。
豊臣方は淡路勢を先陣に第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手、元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越えた。豊臣方は島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指した。
■戸次川の戦い-要図
・図:「裂帛-島津戦記」掲載の図を参考に作成
これに対し、島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げさせた。最初に崩れたのは淡路勢だった。兵力三千ほどの新納隊は、淡路勢に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕し、秀久を遁走させた。しかし、新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で頑強に抵抗した。新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦となった。これに東に向かっている讃岐勢が方向を転じ、土佐勢の主力も加われば、新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びることになるはずだった。
しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に分断した。さらに山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃した。こうして島津方に包囲された豊臣方は、壊滅的な敗戦を蒙った。
合戦の最中、十河存保は「今日の合戦は仙石氏の謀略のまずさによるといえども、恥辱は先手にあった将帥にあり、長宗我部信親引き返って勝負を決したまえ。存保加勢申さん」といい遺し、存保は馬に乗って走った。聞いた信親もともにとって返し敵の中に突入し、壮烈な戦死を遂げた。存保も『南海通記』に存保いよいよ最後の戦いという時、一子千松丸を秀吉の前に伺候させるよう。家臣に頼み残して敵陣に乗り込んでいった。そして十二月十二日、奮戦虚しく島津家久の猛攻の前に戦死。享年歳三十二歳であった。
一方、無謀な作戦が裏目に出て豊臣軍の大敗を招いた仙石久秀は、いちはやく戦場から離脱した。戦後、敗戦の罪で、讃岐を没収されたが、のちに復活して近世大名として生き残った。秀久の無謀から始まった合戦に勇戦戦死した存保・信親らは草葉の蔭でどのような感慨を抱いただろうか。
残された一子千松丸は、生駒親正が預かって養育していたが、十五歳の天正十七年七月、何者かによって毒殺された。ここに十河氏直系の血は絶え事実上その系譜を閉じた。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
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丹波
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
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