十河氏
公饗に檜扇
(讃岐朝臣後裔) |
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十河氏は景行天皇の流れを汲んでいるという。すなわち、天皇の皇子神櫛王が南海道を治めるために讃岐に派遣された。
王は山田郡に居住し子孫は延暦年中に讃岐公の姓を賜った、そして讃岐公から植田氏があらわれ、さらに
十河・神内・三谷などの諸氏に分かれ出たのである。
南北朝の動乱期に植田一党は細川氏に仕えるようになり、讃岐の国人領主として地歩を固めていった。十河氏が大きな力をもつようになるのは、
戦国期、阿波にあって同じく細川氏に仕えていた三好氏との結び付きをもったことによる。そして、最盛期は讃岐一国を支配する勢いを示した。
十河氏の家紋は「公饗(くぎょう)に檜扇」である。公饗とは神様や貴人などに食物を饗するときに用いる器で、
いわゆる穴のない三方をいう。
その由来について、『南海通記』の「細川清氏讃岐合戦記」の条に「清氏白山麓に陣を居えて、国中之帰服せん者を
招く。時に十河吉保来りて、御方に参るべき由を申す。云わく我兄弟三人あり、神内・三谷・十河という、我は其の
三男なり。後日、三人ともに来りて謁す、清氏、公饗に檜扇を居えて出す。十河公饗を受け取り、兄両人に一本宛取りて
遣わし、其の身は公饗と共に持って退いて頂戴す。清氏いわく十河は庶子なれども、惣領の挙動也、十河をもって
惣領とす。兄両人には檜扇を紋に許す、
十河に「公饗に檜扇」紋を許す」記されている。これによって、十河氏は家紋を「公饗に檜扇」に改め、
二人の兄神内氏、三谷氏をはじめ一族みな檜扇をもって家紋とすることになった。
十河氏は景滋の代に断絶したため、三好長基の子一存が養子に入ったことで清和源氏になった。そして、三好氏流の
「松皮菱に三文字」「釘貫」などの紋も併せ用いた。「松皮菱に三文字」の松皮菱は小笠原氏流を、三文字は三好氏流を
表わしたものである。一存は安宅氏を継いだ冬康とともに讃岐兵武士を率いて畿内に出陣、兄三好長慶の下剋上を支える
一人になったのである。長慶を助けて畿内を転戦する一存の戦いぶりは勇猛で、
容貌も鬼のようであったところから「鬼十河」の異名をとった。
天正十年(1582)一存の子存保は、長宗我部元親の四国統一の軍を吉野川の本流中富川に迎え撃った。
死力を尽くしたが、主将の矢野伯耆守が戦死したのをはじめとして十河勢は各所で土佐軍に突き伏せられ大敗北を喫した。その後、豊臣大名に取り立てられたが、天正十四年(1586)十月、
秀吉の九州島津征伐に従軍して戸次川の戦いで戦死、十河氏は没落した。
十河氏は大名としては残れなかったが子孫は各地に残り、家紋は三宝の上に檜扇を広げたものや台付扇を用いていると
いう。また、公饗と折敷が似たものであることから「折敷に檜扇」と称する家もあるようだ。同族の植田・神内・
三谷氏系の諸家も「三本扇」「並び扇」など扇の紋を用いている。過日、
神内という方より家紋の情報をいただいたが、意匠こそ違えまぎれもない「公饗に檜扇」の紋であった。
………
●神内家の「公饗に檜扇」の紋
■十河氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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