|
新免氏
●三つ巴
●村上源氏赤松氏支族
|
新免氏は赤松氏の一族といわれ、室町時代中期以後、美作国吉野郡に住し粟井城・小房城に拠って勢力を振るった。新免とは貢租を許された免田の一種からきたものだが、新免という地名の所在は明らかではない。新免氏は宮本武蔵と関わりがあった家として有名であり、宮本武蔵に関する研究書・概説書には、たいがいその由来や系図が掲げられている。
新免氏の出自
『姓氏家系大辞典』によれば、赤松則村の子貞範−顕則−満貞=家貞と続き、家貞は宇野新三郎、中務少輔と称して、播磨の鳶巣城、美作吉野郡の高山・小原城主であった。家貞は男子に恵まれず、外孫の三郎貞重を養子に迎えた。貞重の実父が新免氏であったことから貞重は新免氏に改めて、明応二年(1493)竹山城を築き、そこへ移ったという。
では、新免氏の出自は、ということになるが、「新免家譜」によると、その祖は藤原北家徳大寺実季に出ている。実季は『諸家知譜拙記』に「権中納言正二位、元亨二年(1322)正月十七日死去、三十」とあり。『公卿補任』でも同じである。「家譜」はその子大納言に注して「建武年中、後醍醐天皇の勅勘を蒙り、作州粟井庄に左遷、武家より御所を作りて、垣内御所と号す。云々」などとあるが、これは少々怪しいものである。大納言の子則重のとき、勅免を得て新免氏と号し、その初代となったとする。また、将軍義詮から粟井庄・広山庄・吉野庄を賜ったという。この則重の嫡子が長重で次男が助隆で、ともに赤松方の有力な部将であった。
則重の母は有元佐高の女といい、妻は赤松貞範の女であったという。その出自はまさに修飾歴然たるものがある、といわざるをえないものだ。
いずれにしても則重は粟井を居城とし、その子新免長重は小房城に移り、播磨の赤松氏に属した。そして、岡・大谷・公文・下司・藤生・大野・石原・船曳・大原らの美作国人連合の盟主となった。文明十二年(1480)六月、山名蔵人や国人の山名猪伏入道、竹田.上原,小林らに攻められて討死した。弟の助隆は同年九月、粟井・有元・山名の軍勢と亀甲の館で戦ってこれもまた戦死した。赤松政則が、美作経営のために派遣した中村五郎左衛門尉が討死したのもこのころのことであった。
長重の妻は先の宇野家貞の女で、小房落城のとき五人の子を連れて家貞を頼り、家貞はかれらを養育した。そのような孫たちの一人が宇野三郎貞重で、家貞は貞重を養子として家を継がせ、新免氏を名乗らせたという。貞重は初め小原城にあったが、明応二年(1493)竹山城に移った。竹山城は「吉野第一の大城」といわれ、明応二年(1493)から慶長五年(1600)までの百八年間、新免氏の居城となった。貞重は新免家再興の英主というべき人物であった。
貞重すなわち新免伊賀守は、苫北郡賀茂庄・青柳庄・美和庄、吉野郡讃甘庄・大原庄・大野庄・吉野庄とともに「粟倉庄東西」を領有していたと「新免系図」に記されている。
戦乱のなかの新免氏
美作を舞台に展開された赤松・山名の攻防による戦火は大原庄までおよんでいたが、新免氏が支配する粟倉庄には及んでいなかったようだ。しかし、赤松氏に代わって浦上氏や宇喜多氏、山名氏に代わった尼子氏らの攻防の時代、すなわち戦国時代になると、戦火は粟倉庄にまで及び、村は侵略者の馬蹄に踏み荒らされるようになった。
主家赤松義村を圧倒して播磨・備前・美作支配権を掌握した浦上村宗は、享禄三年(1530)、両細川氏の乱に巻き込まれた。細川高国に味方した村宗は、翌年、天王寺の合戦に敗れて討死した。村宗の死後、長男の政宗は播磨の室津城に、次男の宗景は備前国和気郡の天神山城に拠った。兄弟はかねてより不和で、天文元年(1532)、政宗は備前に侵入し、宗景の居城である三石城を陥れた。しかし、宗景は日笠頼房ら有力国衆たちの活躍で政宗の軍を撃退し、備前東部から美作東部にかけて勢力を拡大していった。英田・吉野両郡の国衆たちも相次いで宗景の傘下に属したが、竹山城主の新免左衛門尉宗貞もその一人であった。
宗貞は貞重の子で英田郡七ケ庄を領し、父の築いた竹山城に拠っていた。この宗貞が備前の浦上宗景と結んだのは、当時、美作に進出してきた尼子勢や尼子氏と結んだ勝田・英田両郡の国衆たちに対抗するためであった。尼子氏は経久のときに山陰諸国を平定し、安芸・備後にも侵入して大内・毛利氏らと対立した。そして経久の跡を継いだ晴久の代になって、美作方面に進出を始めた。かれは天文二十一年(1552)には、出雲のほか備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆、と都合七カ国の守護職に補せられた。浦上宗景や新免宗貞の前に現れたのが、この全盛期の尼子勢力であった。
尼子晴久が美作東部の抑えとして派遣したのが川副久盛であった。美作東部の国衆たちは、勝田郡の三星城主後藤久盛をはじめ、ほとんどが尼子氏に従った。それに対し、美作東部の吉野郡の国衆たちは尼子氏に屈せず、これに抵抗するものが少なくなかった。かれらの多くは、赤松氏の支配の時代に播磨から移住したものたちで、播磨方面との結びつきが強かったためとも考えられる。
この反尼子勢力の中心が竹山城主新免宗貞であった。尼子方の川副久盛・後藤久盛らは連合して吉野郡の反尼子勢力の掃討に乗り出した。新免宗貞は防戦に努めたが、天文二十三年(1554)戦い敗れてその所領を奪われてしまった。宗貞は豊福氏と軍事同盟を結んで失地回復を図って、川副・後藤の尼子勢と戦ったが敗れ、豊福氏は天文二十四年十一月の今岡山合戦で討死した。その後も旧領奪回の戦を尼子勢に挑んだが失地回復をすることはかなわず、宗貞は無念のうちに永禄元年(1558)十一月、五十二歳で没した。
宗貞の死去により、嫡子伊賀守宗貫が家督を相続した。しかし、かれはまだ幼少だったため、伯父の備中守貞弘がかれの後見となった。そして家名挽回の機会は、宗貫の家督相続ののち数年にして訪れた。
ときに永禄六年ごろ、尼子晴久は病死していて、尼子氏の惣領は義久であった。当時、安芸の毛利元就は山陽道を制覇し、その余勢をかって出雲に攻め込み、同年八月、尼子氏の本城富田城を囲んだ。そのため、川副久盛ら美作地方に派遣されていた尼子方の部将は続々と出雲に引き揚げていった。
それまで尼子方に与していた後藤勝基は浦上宗景のすすめで、いちはやく尼子を裏切って浦上氏と結んだ。
そして、勝基は周囲の尼子方の国衆を攻撃した。永禄九年、富田城が落城したため、それまで尼子方に服属していた
国衆たちも勝基に服属し、美作東部はふたたび浦上宗景の勢力圏となった。こうして宗貫による新免氏再興の条件も
熟したが、再興が実現するのは、浦上氏に代わって備前・美作を制覇した宇喜多直家の時であった。
………
・写真:竹山城址を遠望 (2001/08)
宇喜多氏と新免氏
新免宗貫が宇喜多直家と結びついた時期は必ずしも明らかではないが、『美作古城記』によれば、「宇喜田直家に仕えて戦功あり。元亀二年直家より宗貫に大庭・真島三郡の代官を命じける。宗貫、伯父新免備中守貞弘、同備後守家貞を名代としてつかはし、篠吹、高田の両城を守らしめける。(中略)貞弘、家貞等は、天正八年まで在番せり」と記されており、この記述は「新免家系図」とも一致している。このことから、宗貫は元亀二年(1751)以前、おそらく永禄年間から直家に属し軍功を励んでいたものであろう。
そして、宇喜多氏が毛利氏と断絶した後の天正七年(1579)、毛利方の草刈与次郎の守る吉野郡佐淵城を攻め、与次郎を討ち取った。宇喜多秀家時代には、知行三千六百五十石、戸川達安の与力となり、文禄・慶長の役に朝鮮へ出陣した。その後の宇喜多家の内訌により、一時宇喜多氏を離れたがのちに帰参している。
『新免家侍帳』によれば、宗貫は吉野郡吉野庄・讃甘庄・大野庄・大原庄・粟倉東西のういちで知行五千石を賜っている。おそらく、秀家のころの知行高であろう。「侍帳」には、新免家の家臣として侍五十七名、扶持した男女の数は百八十余人と記されている。侍とは国衆のことで、新免氏の家来であると同時に自らも家来を抱えた土豪で、宮本武蔵、竹内中務大輔らの名前もみえる。
■新免家被官分布図
*『粟倉町史』所収地図を転載。
宗貫の支配は天正十年から慶長五年までの約十八年間続いた。その間、宗貫の主君宇喜多秀家は、豊臣秀吉の全国統一戦争や朝鮮出兵にも従軍して活躍している。しかし、その間における新免宗貫の働きは記録に全く残っていないようである。そして、慶長五年の関ヶ原の合戦に宇喜多秀家は西軍に属して敗れたため、宗貫も知行を失った。
その後、家臣の一部とともに筑前福岡の黒田長政のもとに迎えられ、三千石の高禄を宛行われるなど厚遇されている。このことは、記録にこそ残っていないものの、朝鮮の陣において宗貫が家臣ともども秀家の軍に従い、黒田軍と一緒に戦ったことによるものと考えられる。以後、新免氏は黒田家家臣として存続していくのである。
新免一族のなかで異色の人物として宗貫の孫、三喜之介貞為がいる。貞為は、姫路藩主本多忠刻に仕え、忠刻の死に際して殉死したことが知られている。貞為は宮本武蔵の外孫といわれ、剣術をよくし、宮本氏を号したという。・2005年07月07日
● ● ●
さて、宮本武蔵のことである。
宮本武蔵の出生については謎が多く、その生地について、武蔵自身は播磨の生まれといっており、その地は印南郡米田村とする。対して美作出生説では吉野郡讃甘村という。武蔵の父は平田無二斎といわれ、母は別所林治の女と、新免宗貞の女との二説がある。そして武蔵は新免武二の養子になったのだという。さらに武蔵がなぜ宮本を称したか、そしてその地名はどこから出たかということである。これについても讃甘村字宮本と播磨説があるのである。
ともかく、宮本武蔵の出生、出自に関しては疑問点が多い。ここでは、新免氏に関わりがあった人物ということに止めておきたい。
・武蔵の生家といわれる■播磨田原氏のページへ
【参考資料:大原町史/西粟倉村史/東作誌 ほか】
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
|
|
|