佐竹氏
五本骨扇に月丸 (清和源氏義光流) |
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佐竹氏は清和源氏義光流で、義光の孫・源昌義に始まる。義光は「後三年の役」に際して、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助けた。役後、その功績が認められ、常陸介や甲斐守などの官職を得て、陸奥国や常陸国に領地を賜り、常陸国では佐竹郷を領有した。
義光には数人の男子があったが、義業が佐竹郷を領有し下向してきたという。そして、常陸国に勢力を有していた平繁幹の娘を妻に迎え、常陸平氏と同盟を結ぶことで常陸に勢力を拡大する基礎を固めた。当時、常陸南部は常陸平氏が絶大な勢力を振るっていたことから、義業の領地拡大は常陸北部に限られた。義業の子の義昌の時代になると、常陸奥七郡をほぼその支配下においていた。昌義は久慈郡佐竹郷に本拠を置いて佐竹冠者と称し、佐竹氏の初代となった。
昌義の跡は三男の隆義が継ぎ、その勢力は奥七郡を越えて、下総にまで及ぼうとした。昌義は常陸平氏を介して中央の平氏と結び、治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵したときも明確に反頼朝の立場をとった。頼朝は同年十月、富士川の合戦で平氏の軍勢を破ったが、そのまま京都に攻め上らなかったのは、常陸の佐竹氏の動向が気がかりであったからである。さらに、常陸平氏も傍観的姿勢を続けていたことも、頼朝をして東国に留まらせた。頼朝は佐竹氏討伐を決し、常陸に兵を進めた。佐竹氏は頼朝の軍勢を相手に良く戦ったが、結局、金砂山合戦で敗れ、それまでに確保していた奥七郡および太田・糟田・酒出などの所領を没収され佐竹氏の勢力は潰滅した。
佐竹氏の旧領には、頼朝の腹心が各郡の郡地頭として配置された。一方、佐竹氏は御家人としての待遇も得られず、逼塞を余儀なくされた。この佐竹氏に一大転機となったのは、文治五年(1189)の頼朝による奥州藤原氏征伐であった。隆義のあとを継いだ秀義は佐竹氏惣領であったが、苦しい立場にあり、頼朝に帰順する腹を固め、宇都宮で臣礼をとり忠誠を誓った。頼朝も秀義を許し、秀義は名誉回復をはかって奥州へと出陣したのである。しかし、奥州征伐後の新恩賞や領地回復の様子については全く不明である。
ともあれ、秀義はその地位を回復し、常陸介に任じられた。 以後、佐竹氏は鎌倉御家人として行動をすることになる。とはいえ、常陸の守護は八田知家であり、鎌倉期の佐竹氏は小田・宍戸・大掾氏らの勢力に押されがちであった。
佐竹氏の台頭
こうした状況を打ち破り、佐竹氏が頭角を現わすようになったのは南北朝の内乱期であった。貞義は足利尊氏に属して各地で戦功を挙げ、ついに常陸守護に任じられ、佐竹氏発展の基礎を築いたのである。
足利氏に属した佐竹氏の軍事的活躍は大きかった。建武二年(1335)北条時行が鎌倉を攻める「中先代の乱」が起こり、貞義は足利直義を支援するため、鎌倉に向かった。しかし、北条軍の勢力は強く直義は敗れて鎌倉を脱出し、貞義もまた武蔵の鶴見で撃破され、子の義直をはじめ多くの有力武将を失った。その後、京都の尊氏が東下し、時行の軍を破って鎌倉に入った。以後、尊氏は後醍醐天皇の意向を無視して、鎌倉にとどまり政務をとった。このとき、佐竹貞義は正式に常陸守護に任ぜられた。
ところで、足利尊氏・直義兄弟が深く帰依した夢窓疎石の高弟に月山周枢があった。周枢は貞義の子で、兄弟に義篤と師義がいた。貞義は出家させる子の入山先を臨仙寺とした。臨仙寺は、京嵐山の渡月橋の畔にあり、当時疎石が在住し、天龍寺の経営にあたっていた。長じた周枢は尊氏兄弟と親交を結んだ。貞義さらに嫡男義篤が常陸守護に補任されたのは、周枢の存在があったことは疑いない。
京都政府は足利尊氏の征伐を決し、新田義貞に軍勢を授けて東下させた。足利尊氏は箱根竹の下で迎え撃った。佐竹義篤は足利方に属して奮戦し、尊氏は敗走する新田軍を追って京都へ進撃した。この軍勢に佐竹氏の一族、家臣らが従った。上洛した尊氏は陸奥からあとを追ってきた北畠顕家の軍に敗れて、九州へとへと下っていった。このとき、義篤は常陸北部で南朝方と交戦を繰り返し苦境に陥っているため、尊氏一行と離れて常陸へ帰った。
ただ、弟の師義は尊氏に従軍した。以後、師義は京に留まって佐竹一族を代表するかのごとく新政権に仕えた。その後「観応の擾乱」に尊氏に従い直義軍に敗れて戦死した。尊氏はその勲功として山入の地や小田野・高柿・松平などの地を与えた。このため子孫は「山入氏」を名乗り、佐竹宗家に対抗する勢力を築くことになる。
【佐竹氏の軍旗】
南北朝の抗争
一方、常陸国に戻った佐竹貞義は西金砂山城を拠点に南朝方と対峙していた。南朝方は瓜連城に楠木正成の甥正家を派遣し、南朝側の勢力が強化された。建武三年(1336)二月、正家は西金砂山城に攻撃をかけ、佐竹勢は激戦のすえに敗退した。このとき、貞義の子義冬が戦死した。
その後、尊氏に従って上方にあった貞義の嫡子義篤らが帰国してきたことで、佐竹勢が次第に攻勢となり、瓜連城を攻撃した。しかし、小田氏らが楠木軍を助けたことで、佐竹勢は敗退、山間地に撤退した。このように佐竹氏は北朝方として奮戦し、ついには瓜連城を落し南朝方の那珂通辰を討ち取っている。
しかし、常陸の国んぼ南朝方は北畠親房が下向してきたことで、さらに激しさを加えた。暦応二年(1339)高師冬が鎌倉に入り、武蔵・相模の軍勢を率いて北上し、体制の立て直しを図った。佐竹氏も師冬を支援して各地を転戦した。ちょうどこのころになって、南朝勢力に分裂が起こり、小田治久が師冬に降伏し、結城氏も北朝側に転じた。さらに北朝方の関城、大宝城が相次いで陥落し、親房は吉野へと帰っていった。
この結果、常陸における南朝方諸勢力の退潮は決定的なものとなり、代わって、終始足利氏に与して活躍した佐竹氏が常陸の雄として台頭することになるのである。このように義篤義篤は小田治久と戦ってこれを破り、常陸北部の支配を不動のものにした。所領の拡大とともに、惣領家から分出した稲木・額田・岡田などの庶子家が常陸の各地にちらばり、佐竹宗家の被官として、佐竹氏の惣領制を形成していったことも、その後の佐竹氏発展の大きな要因となった。
佐竹氏の内訌
ところで、義篤の弟の師義は、兄義篤が東国にあるとき、西国にあって足利政権樹立に働き、佐竹宗家に対抗する力を有していた。師義は観応の擾乱で戦死した、その跡を継いだ与義は「京都様扶持衆」に列していた。京都様扶持衆とは、関東有力武家の惣領を鎌倉公方家のお目付役として、鎌倉府が室町幕府の意に反しないよう監視させる役目を帯びていた。
佐竹宗家では、義篤についで貞治二年(1363)に義盛が守護に就任した。義盛は応永十四年(1407)に没するが、嗣子がなかった。そこで与義らの反対を押し切る形で、関東管領山内上杉憲定の子義憲(義人)を迎えて佐竹惣領家と守護職を継がせた。義憲の鎌倉府寄りの姿勢に対し、与義を中心とする山入佐竹氏をはじめ、一族の長倉氏らは反発、かれらは、佐竹氏内で「山入党」と呼ばれるようになった。
このように、山入氏は佐竹氏の支族ながら宗家に匹敵する勢力をもち、与義は反義憲の急先鋒として行動した。
このころ鎌倉府では、公方持氏と管領上杉氏憲(禅秀)が対立し、応永二十三年(1416)十月、世にいう「上杉禅秀の乱」になった。罷免された氏憲に替わる新管領には義意の兄義基が就任したので、山入党は必然的に氏憲側に加担した。この反乱には小田氏・大掾氏をはじめ、千葉・岩松・那須・武田氏らも加わり、関東は大争乱となった。しかし、翌年正月、禅秀は敗れて自刃し、乱は鎮圧された。
禅秀の乱後、山入与義は持氏に降ったが、佐竹氏の支族稲木義信は依然持氏に反抗を続けた。義信の反抗はさらに一族の長倉義景の叛乱をよび、豪族山県氏の参加をみるほどになった。持氏は佐竹義憲に征討を命じたので、義憲は義景らを降し、稲木城を落し義信を殺害した。こうして常陸の争乱は治まったかに見えたが、山入与義の佐竹義憲に対する反感は根強く残っていた。
応永二十五年、山入与義は、将軍足利義持から常陸守護に任命された。これは、禅秀の乱後、室町政権と対立を続ける鎌倉公方持氏に対する幕府の対抗策であった。そして、山入党は義憲に対する反発から、甲斐武田氏らとともに兵を挙げ、与義は鎌倉比企谷邸で殺されてしまった。山入佐竹氏は関東御分国の守護として鎌倉に在住する義務があったため、鎌倉の邸で落命したのであった。与義の跡は、義郷が継いだが永享三年(1431)に没し、祐義がその跡を継いだ。
山入氏との抗争
山入氏らが持氏に反抗したのは室町幕府の後楯があったからにほかならない。鎌倉府の反抗的姿勢を警戒する幕府は、祐義を常陸守護に任ぜられた。義憲は祐義が守護に補任されたことに憤慨し、持氏にその不当を訴えたが解決には至らなかった。幕府と持氏との対立はその後収まったが、常陸の守護職は、従来からの佐竹義憲と山入祐義とが、半国守護として並びたつことになった。
その後、持氏と幕府の対立が激化し「永享の乱」が起こった。敗れた持氏は自殺に追い込まれた。持氏方の重鎮として活躍してきた義憲は、家督を子の義従に譲って隠居した。このような状況で台頭してきたのが江戸氏であり、山入氏も宗家に対して優勢となった。
以後、十五世紀の末ごろから佐竹宗家と山入氏との間で衝突が繰り返される。延徳二年(1490)佐竹氏当主の義治が死去し、その跡を義舜が継いだ。その四ヶ月後、山入義藤・氏義父子と佐竹義武・長倉義久・天神林義益・宇留野義公ら佐竹一族、さらに水戸氏らが一気に太田城を攻撃した。若い義舜は応戦かなわず、孫根城に逃亡した。ここに、山入氏が佐竹氏の本城である太田城の城主となったのである。
しかし、明応元年(1492)山入義藤が没すると、その子氏義と佐竹義舜との間に和議の気運が高まった。それは、隣国の岩城親隆・常隆父子らの斡旋によるものであった。和議では氏義は小野崎・江戸氏との関係を絶ち、義舜ならびに岩城氏に同心することを誓った。しかし、和議にも関わらず。山入氏は太田城を明け渡さず、さらに孫根城を攻めて、義舜を東金砂山に追い込んだ。ところが、小野崎・江戸氏らが義舜に協力したことで、山入軍は義舜を完全に征服でいないまま敗戦をこうむった。
一方の義舜は危機を脱し、次第に態勢を固め山入氏を孤立化させ、ついに永正元年(1504)太田城の奪還に成功した。氏義は本拠の国安城に逃れたがそこでも敗れ、ついに茂木で殺害されてしまった。かくして、一世紀にわたた佐竹宗家と、有力支族山入氏との抗争は終結した。
佐竹宗家の復活
山入氏を打倒して太田城に帰った義舜は、家臣団を再編成して軍事力を整備することにつとめ、山入地方に弟義言を、檜沢・高武方面には同じく弟政義を配置した。義言、政義はそれぞれ佐竹北家・佐竹東家の祖となり、佐竹宗家を中心とする共同支配体制を確立した。一方、山入氏との抗争中に江戸・小野崎氏らに押領された領地の調査を実施し、ある程度その返還を実現したが両氏の領地として認めざるを得なかったところも少なくなかった。
永正七年(1510)には、江戸氏に対して佐竹と「一家同位」の待遇を認め、「人返し」協定を結んで分国の安定化を推進し、佐竹氏の勢力回復・伸張の基礎を固めた。永正八年になると、白河結城氏に奪われた旧領依上保を回復するため抗争し、依上保の大半を支配下におくことに成功したが、依上保に進出したことで那須氏との対立を生き起すことになった。
このころ、関東では古河公方足利政氏と高基の父子が対立し、それぞれ関東の豪族を味方に引き入れて武力衝突に発展していた。この内紛に義舜は岩城常隆らとともに政氏方に属し、永正十一年(1514)、岩城氏とともに高基派の中心勢力であった宇都宮忠綱を攻撃したが、結城政朝が宇都宮氏を支援したため戦果をあげることはできなかった。
永正十三年三月、義舜は四十八歳で波乱の生涯を閉じた。義舜は「佐竹氏中興の祖」といわれ、一世紀にわたった山入氏との抗争を克服し、家臣団を再編成して軍事力を充実するとともに、失われた所領の回復を図り、一族による支配体制の再整備を実施するなど、佐竹氏が戦国大名として雄飛する基礎を固めた人物であった。
戦国大名への助走
義舜の死後、嫡子の徳寿丸が家督を継いだが十一歳の幼さであったため、叔父の佐竹北義言、佐竹東政義らが補佐した。その後、元服した徳寿丸は義篤と名乗り、家臣団に対する所領宛行や官途・受領の付与を本格的に行うようになる。そして、白河結城氏の支配下にある陸奥南地方への進出を企て、依上保を基地として軍陣を固めていった。また、小野崎氏や大山氏と起請文を交わし相互の結束を強化し、水戸城を拠点に常陸中央部に勢力を買う台しつつある江戸氏とも協調し、佐竹氏は北へ、江戸氏は南へと相互の利害関係に齟齬をきたさないように進出の方向を定めている。
こうして、義篤の施策は順調に進んでいくかにみえたが、弟義元との抗争が起こった。義元は部垂城に拠っていて、佐竹一族の小場義実・高久義貞、家臣らが味方して、享録二年(1529)から天文九年(1540)まで、十年以上にわたって断続的に抗争が繰り広げられた。この内紛は「部垂十二年の乱」と呼ばれ、義篤は天文四年に高久義貞を抑え、天文九年三月に部垂城に総攻撃をかけ義元とその一族を滅ぼした。この乱を克服したことで、佐竹宗家の権力はさらに強化されたのである。
乱が継続中の天文八年、義篤は那須政資・高資父子の内紛に際して、小田政治・宇都宮尚綱らとともに政資を助け、高資を支援する結城政勝・小山高朝・白河結城晴綱らを攻撃している。佐竹氏の下那須進出は義舜の晩年のころから開始されていたが、義篤の代になるとさらに展開が急となっていた。天文十年になると、南郷の要害である東館を陥落させ、寺山城へ迫る勢いを見せたが、岩城重隆の仲介があって、白河結城氏と和睦している。もっとも、この和議も間もなく破れ、佐竹氏の北進はふたたび開始されることになる。
義篤は弟の義隣(のちの義里)に佐竹南家を興させ、従兄弟の佐竹北義廉、佐竹東義堅とともに佐竹宗家の藩塀とし、佐竹氏一門による支配体制を確立し天文十四年(1545)に死去した。
四隣への勢力拡大
義篤のあとをは義昭が十四歳で継いだが、まだ若かったため、佐竹南義里・佐竹北義廉・佐竹東義堅の佐竹三家が交替で佐竹氏の政務を取り仕切ったという。これが、いわゆる佐竹三家であるが、分立して独自の支配権をもつほどではなかった。若い義昭は家臣の処遇問題や在地支配に関する件で、叔父の南義里に助言を受けることが少なくなかった。
当時、佐竹領の北には八溝金山があり、この八溝金山の支配をめぐり義昭は白川結城氏と対立、陸奥依上保へ兵を出した。一方、江戸氏との関係が悪化してきて、天文十六年〜十九年にかけて佐竹氏は江戸忠通との間で合戦を繰り替えした。そして、江戸氏は佐竹氏の宿敵である白河結城氏と結んで佐竹氏に対抗したが、次第に佐竹氏の優勢となり、天文二十年、忠通からの申し出があった佐竹氏と江戸氏は和議を結び、江戸氏はふたたび佐竹氏の麾下に属するようになった。
江戸氏との抗争を収拾した義昭は家臣団統制を進め、それを基礎として本格的に外部進出を開始するようにあんる。天文二十一年竜子山城主の大塚氏が麾下に属し、翌二十二年には岩城氏一族の船尾昭直が佐竹氏に属しすなど、義昭は急速に勢力を伸張していった。弘治三年(1557)には、宇都宮尚綱の嫡子で、重臣の壬生氏によって宇都宮城を追われていた広綱を助けて宇都宮に出陣し、壬生氏を追い払って広綱の宇都宮城復帰に一役かっている。義昭はのちに広綱の妻として娘を送り、佐竹・宇都宮両氏の連合を形成し、また那須資胤と同盟を結んで、白河結城氏の攻略に全力をあげた。このような佐竹氏の北進に対して、岩城氏麾下の上遠野宇治が義昭に接近し、やがて上遠野一族は佐竹氏に臣従するようになった。
永禄三年(1560)、義昭は南郷北部の寺山城を攻略し、佐竹東義堅父子を城将として白河結城氏を着実に侵略していった。一方、古河公方足利義氏が北条氏康を介して、佐竹・白河結城氏の和議を命じてきた。この命令に義昭はいったん従う様子を見せたが、古河公方はすでに後北条氏に私物化されたことを見抜いた義昭はこれに従わず、さらに白河結城氏への攻勢を強めるのである。
このように義昭は北進策をとりながら南進策も取り、宍戸氏が佐竹氏に属し、江戸氏も服属の度を深めていった。加えて真壁氏も佐竹氏に接近してきていた。その一方で、小田原北条氏の勢力が拡大し、その鉾先は北関東にも迫りつつあり、佐竹氏は上杉謙信と結んでそれに対抗した。
永禄七年、義昭は謙信の助けを受けて小田城を攻略し、小田氏領の大半を奪取した。一方、常陸府中城の大掾氏には弟を送り込んで昌幹を名乗らせ家督を継がせたが、家中の反対に遭って大掾氏の家督は貞国が継いだ。しかし、大掾氏に対する佐竹氏の影響力は次第に大きくなり、やがて大掾氏も佐竹氏の麾下に属するようになった。さらに、下野では松野・茂木・武茂氏らが義昭に服属した。義昭は佐竹氏の勢力を南北に拡大したが、やがて病を得たようで、永禄八年(1565)三十五歳の働き盛りで死去したのである。
鬼義重の登場
義昭のあとを継いだ義重は、元服前から活動が知られ、元服した翌年の永禄三年には父義昭と連名で重臣の和田昭為に所領を宛行っている。とはいえ、義重の活動が本格化するのは、永禄八年からである。義重は「鬼義重」「坂東太郎」の異名をとる豪勇の武将であり、関東管領職に補任された上杉謙信と結んで小田原北条氏の常陸進出を阻止する策に出た。
義昭が攻略した小田氏領は、義昭の死の前後に小田氏に奪回されたため、永禄九年、上杉謙信らとともに小田城を攻撃し、ふたたび小田領を制圧して客将の大田資正・梶原政景父子を配置した。そして、常陸小田・土浦方面、下野那須・芳賀方面、南奥白河方面への進出を展開した。十年一月には白河へ、ついで二月には謙信の要請をいれて下野へ出兵し、三月になるとふたたび白河へ出兵し白河義親を攻めた。翌年には小田氏の属城海老島城を攻略し、佐竹氏の威勢を大いにあげた。
しかし、後北条氏の北進、武田氏の上野侵攻によって、これまでの上杉謙信との友好関係だけでは有効な勢力拡大は望めない政治情勢になりつつあった。永禄十二年、謙信と北条氏康との間で「越相同盟」が成立すると、義重は謙信に裏切られたという思いもあって武田信玄と結び、新しい政治動向に対処したが、佐竹氏の前途は険しいものであった。
そのようななかで、義重は上杉・後北条・武田氏の勢力均衡の間を縫って、基本的な姿勢としては上杉謙信との友好関係を頼りとして、常陸中南部に勢力圏を拡大し下野東部の国人層との盟約を保ち陸奥白河領への進出を続けた。その間、陸奥の蘆名・石川・田村氏らとの関係を悪化させたが、天正二年には赤館城に迫り、翌年には白河結城氏の内紛に乗じて白河義親の居城を残して白河領の大半を征服した。そして、二男の義広を
白河義親の養子として送り込み、これを東義久に支援させるとともに監視させる体制を形成し、白河結城氏を目下の同盟関係に置くという方法で白河領を掌握したのである。しかし、佐竹氏の勢力が北上するに従い、南下してくる伊達氏との対立を激化させることになった。
・甲冑姿の義重肖像
後北条氏、伊達氏との抗争
一方、小田原北条氏の勢力は常陸.下野地方に大きく伸びてきており、祇園城主小山秀綱は後北条氏に居城を攻略されて佐竹氏を頼っていた。後北条氏の侵攻に危機と直面した義重は宇都宮広綱・結城晴朝、さらに那須資晴らと協調し、後北条氏に対抗した。そして、この軍事的緊張のなかで、常陸一国および下野東部の軍事統制を推進し、結城氏の麾下の有力者多賀谷氏も義重に服属するようになった。
天正六年三月、上杉謙信が死去したことで、義重は関東南下および常陸・下野両国の平定を断念せざるを得なかった。その後、佐竹氏に対する後北条氏の軍事的圧力はさらに強まりをみせていったが、天正十一年には羽柴(豊臣)秀吉との友好関係を取り結んでおり、それを梃子として後北条氏の圧迫に抵抗しようとした。そして、天正十二年(1584)には下野沼尻で後北条氏と戦い、翌十三年には安積表で、同十六・十七年には須賀川で伊達氏と対陣した。とくに、沼尻の戦いは後北条勢八万に対して佐竹勢は二万という劣勢で戦って、後北条氏の進出を防ぐことに成功した。これは、戦国大名としての義重の力量を如実に示すものであろう。
当時の佐竹氏は強力な家臣団を有していたが、それは佐竹氏一族を中心に奥七郡の国人領主ら譜代、佐竹氏が守護となってから主従関係・同盟関係を結んだ外様、それに他国からきて佐竹氏の支配下に入った牢人の四つの身分からなっていた。さらに佐竹氏の軍事力で注目されるのが鉄砲の存在であった。沼尻の戦いに佐竹氏は鉄砲八千六百梃を備えていたという。この数字は誇張としても佐竹氏がかなりの鉄砲を所有し、それが義重をして北関東地方で主導権を握り続ける根拠の一つでもあった。
義重はまた、白河家に入嗣していた二男義広を、会津葦名盛隆の跡目に送り込むことに成功し伊達政宗との対立関係を深めてゆくことになる。このような、伊達氏の南進、後北条氏の北進という重大な時期に義重は家督を義宣に譲って(おそらく天正十五〜十六年)家政の一線から退いている。
葦名氏の没落
家督を譲られた義宣は、天正十六年、江戸重通と大掾清幹が対立した時、両者に和解を要求したが、清幹がこれを無視したため重通を助けて府中へ出陣し大掾氏を降し、分国内の乱れを防いでいる。家督を継いだ義重にとって脅威となっていたのは、小田原の北条氏直と陸奥の伊達政宗で、この両氏によって佐竹氏の発展は完全に抑えられていた。特に、伊達政宗の勢力拡大は蘆名氏との対立を深め、政宗の蘆名氏に対する攻勢を義宣は実弟の蘆名義広とともに必死になって阻止しようとした。
一方の政宗は会津攻略をねらい南下策をとり、小浜城・二本松城を次々に攻め、他方で葦名氏の諸将の内通をそそのかした。義広は城主となるや、まず小浜城の大内氏の謀叛にぶつかった。そして、阿武隈川沿いに伊達軍と戦い敗勢となり、父義重に援軍を求めた。そして父の援軍を得て、連合軍三万が郡山城を囲んだ。世に郡山対陣とよばれる合戦で、両軍、すさまじい白兵戦を展開し、秀吉は戦況を知り葦名方に鉄砲百挺を送ろうとしたが合戦には間に合わなかった。やがて、岩城常隆らが調停に出て、両軍はいったん休戦に入った。
しかし、政宗はなおも葦名領を蚕食しつづけ、義広はこれを押さえようと、天正十七年(1579)、軍を須賀川に進めた。ところがこの隙に、猪苗代盛国が猪苗代城で謀叛を起こし、伊達軍を引き入れた。義広はこの報を受けて軍を黒川城に引き返した。そして六月、磐梯山麓の摺上原で、葦名、伊達両軍の間で決戦の火ぶたが切られる。
葦名軍一万六千、伊達軍二万三千。葦名の先鋒は富田将監で七千の兵をもって、伊達の先陣猪苗代盛国の勢を破り、さらに奮戦して葦名軍優勢とみえた。しかし、葦名の二軍、三軍は停滞し、そこに伊達成実が迂回作戦に出た。折りから風向きが変わり、葦名軍に砂塵を吹き付けた。さらに内紛の疑心暗鬼から、敵の出現を味方の謀叛かと誤認するなど葦名軍は浮き足だち、この機を伊達軍は見逃さなかった。葦名勢は善戦しながらも、たちまち大勢は決した。合戦に敗れた義広は常陸の実家に逃げ落ち、葦名氏は滅亡した。
勢いに乗じた政宗は仙道地方を南下して、常陸の国境に迫った。このため、佐竹氏の与党であった白河義親や石川昭光など南奥諸大名がつぎつぎと伊達軍に寝返り、さらに小田原北条氏と伊達氏が同盟を結んだことで、佐竹氏は孤立化し存亡の危機に直面した。
豊臣大名に生き残る
義宣は蘆名氏問題の裁定を豊臣秀吉のもとに依頼していたので、秀吉は政宗が蘆名軍を撃ち破ったことを譴責して兵を収めるように命じたが、政宗はそれに従わず。逆に北条氏直と結んで佐竹氏を矯激しようとして南下を続けた。その結果、佐竹氏の治めていた南奥の領地はつぎつぎと政宗に攻略され、天正十八年になると南郷を残すのみという状況となった。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐とこれに続く奥州出兵は、義重の子義宣が秀吉に関東・奥両国惣無事令を後北条氏・伊達氏が違反していることを通報したために起こった。
三月、秀吉は京都を出発し小田原攻めを開始した。このころ、佐竹氏は伊達氏の南下を防ぐため白河で対陣していたため、小田原への参陣は容易なことではなかった。しかし、石田三成の仲介を得て東義久ら一族と宍戸・太田・真壁・長倉ら常陸の諸豪族、宇都宮国綱ら下野・下総の諸大名らとともに、莫大な進物を携えて秀吉のもとへ伺候した。一方、小田・江戸・大掾氏らは後北条氏の働きかけもあって参陣を見合わせた。これが、のちに各氏の命運を分けることになった。
七月、小田原城は開城し後北条氏は没落した。その後の仕置で、小田原征伐に参陣した佐竹義重の嫡子義宣は、秀吉から常陸国において二十一万貫の所領を安堵された。そして秀吉から得た朱印状をてことして常陸国内の統一を推進した。まず、十二月には江戸氏の拠る水戸城を攻撃して江戸一族を追放し、ついで、府中城を攻撃して大掾氏を滅亡させた。さらに常陸南部においてもその支配を強化し、秀吉からの安堵の実質化をめざした。この活動の延長として、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちを、天正十九年(1591)二月、太田城に招いて一気に謀殺した。
その後、義宣は領国支配の中枢として水戸城に入った。そして、常陸経営の本拠として、水戸城と城下町の建設に乗り出そうとした。しかし、天正十九年以後の四年間、佐竹氏は豊臣政権からの絶え間のない軍役負担のためその余裕はなかった。城下町の建設に義宣が着手したのは、文禄二年(1593)九月、朝鮮出兵のための遠征から帰ってのちのことであった。
関ヶ原の合戦、秋田への転封
慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に際して義宣は家康派と三成派の間にあってどちらにも加担しなかった。しかし、実際は家康に敵対する意志のないことを表明しながら、裏では三成派やそれと結ぶ会津の上杉景勝ひそかに密約を交していた。これが、のちに佐竹氏が常陸から出羽へ転封となる原因となったのである。慶長七年(1602)春、義宣は家康と大阪城の豊臣秀頼に謁するため水戸を出立し、上洛の途についた。
謁見の結果は上々と思われ、義宣はその旨を国元へ書き送っている。ところが五月八日、家康から義宣に対し、領国を没収し出羽の内で替地を与える旨の転封令が伝達された。すでに諸大名に対する転封は一段落したと思われる時期に、突如として出された命令であった。
そして七月、水戸城をはじめ常陸の接収が終わった七月二十七日、義宣は出羽国の内秋田・仙北両所を領知すべき旨の判物を与えられた。そして、京から秋田へ赴くことが許されたのであった。二日後、義宣は秋田へ向けて出発した。供連れはわずかに九十三騎であったという。義宣は旧領地であり故郷でもある常陸国を通ることなく、九月中旬に秋田に到着した。義宣たちとは別に重臣や近臣らも常陸から秋田に下向したが、常陸に土着したものも多かった。
常陸にいた義重も秋田へ向けて出発した。こうして、秋田に移住した佐竹氏は二十万五千八百石の近世大名として存続することになったのである。
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