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寒河江氏
●一文字に三つ星
●大江氏流  
 


 中世、出羽国寒河江荘を領して勢力のあった寒河江氏は、鎌倉幕府初代の政所別当を勤めた大江広元の後裔である。『尊卑分脈』等によると、大江氏は平城天皇の皇子阿保親王より出るとしているが、その祖先は土師氏であるとされている。大江氏は平安時代に多くの文人・学者を出した氏族で、菅原氏の「菅家」に対して「江家」と通称され、広元も当代の学者として知られた存在であった。
 広元は「守護・地頭の制」を頼朝に進言するなど鎌倉幕府の基礎を固めた功労者で、文治五年(1189)、「奥州征伐」の論功行賞で長井荘ならびに寒河江荘の地頭職に任じられた。寒河江荘の地頭職は広元の長男親広が相続し、初めは広元の妻の父である多田仁綱が目代になって寒河江に下向していた。 

大江氏の寒河江移住

 承久三年(1221)、承久の乱が起ったとき、大江広元と子供らは幕府方として活躍した。しかし、京都守護として京都にあった親広は、上皇方に加担し敗れて寒河江荘に逃れて潜居した。のちに広元の請によって許された親広は、寒河江荘内楯に居館を構えて住し寒河江大江氏の祖となったのである。寒河江荘地頭職は子広時が安堵され、広時、子の政広は幕府の要職にあって『吾妻鏡』にもその活躍が記されている。おそらく、寒河江大江氏は直接寒河江荘に入部してその統治にあたることはなく、代官を派遣して統治したものと思われる。
 大江氏が寒河江に入部したのは政広の子元顕のとき、十三世紀末のころと推定されている。大江氏が永年にわたる鎌倉暮らしと決別して、雪深い出羽国寒河江荘に下向して土着した背景にはどのような理由があったのだろうか。
 鎌倉幕府も中期を過ぎるころになると執権北条氏得宗(嫡流)の専制体制が移行し、さらに、北条氏被官(御内人)勢力と旧来の御家人勢力とが対立するようになった。北条氏得宗の専制の動きは、時頼の時代から顕著となり、有力御家人三浦氏を北条氏が討滅した「宝治合戦」はそのもっとも大きな事件であった。この宝治合戦に際して、親広の弟で毛利大江季光は、三浦泰村の妹婿であったことから三浦氏に加担して戦死した。
 この乱ののち、得宗専制体制を推進したのは、外様御家人でありながら北条氏と姻戚関係にある安達泰盛であった。泰盛は得宗を中心とした北条氏一門と、安達氏を代表とする有力御家人による会議にもとづいて政治を運営しようとした。泰盛はこのころ台頭しつつあった北条得宗御内人を面白く思っていない外様御家人の期待を一身に集め、得宗によって政権を握ろうとする御内人勢力の代表平頼綱との対立を深めたのである。
 弘安八年(1285)、平頼綱の讒言をいれた執権北条貞時は安達氏一族を鎌倉の邸に攻めてこれを滅ぼした。「霜月騒動」と呼ばれる争乱で、安達氏とともに滅んだ御家人は、安達一族のほか大江泰広・盛広・泰元、荒木義泰、佐々木宗清ら、上野・武蔵の有力御家人五百余人にのぼったという。大江一族は安達方にあって多大な犠牲を払う結果となった。
 こうして鎌倉は得宗専制体制が進行し、得宗御内人が幅を利かすようになり、鎌倉は旧来の御家人にとって住みにくい所となっていった。このような情勢のなか、元顕をはじめとした大江一族は寒河江への移住を決行した。それも、とるものとりあえずという切迫した状況であったようだ。

南北朝の動乱

 しかし、鎌倉に残った大江一族もいたようで、元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡したとき、大江貞広・親顕兄弟らが北条氏に殉じたことが系図に記されている。兄弟は元顕の甥であり、父の広顕は兄元顕が寒河江に移住したのちも鎌倉に残って幕府に出仕していたものであろう。そして、幕府の滅亡を機会に鎌倉に残っていた大江一族は寒河江大江氏を頼って移住した。
 かれらを迎えた寒河江では、幕府滅亡後の政治情勢、とくに京都の情勢、各地の武士団の動向などについて、一族が集まって検討を繰り返したことであろう。ときの寒河江大江氏の惣領は元政であったと思われ、寒河江一族は後醍醐天皇の新政権を支持することに決したのである。『安中坊縁起』にも、元政について「京都に至り功を立つ」と書かれている。  建武新政権が発足すると、出羽には新政権によって出羽守に任ぜられた葉室光顕が赴任してきた。さらに、陸奥守に補任された北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥に下り、東北地方における南朝側の中心となった。ところが、建武新政は最大の功労者である足利尊氏が「中先代の乱」をきっかけに、天皇に叛旗を翻したことで一気に波乱含みとなった。尊氏は新田義貞を大将とする討伐軍を箱根で破ると、そのまま上洛し新政軍を打ち破って京都を征圧した。
 これに対して顕家が奥州の兵を率いて上洛、尊氏を九州へ敗走させた。この顕家軍のなかには、大江元政が率いる大江一族の姿もあった。その後、体勢を立て直した尊氏は東上の軍を起こし、湊川で楠木正成を討ちふたたび京都を制圧した。尊氏は後醍醐天皇と和睦したが、天皇は神器を擁して京を脱出し吉野に移ったことで南北朝時代が始まった。この争乱のなかで、葉室光顕が足利勢力によって殺害されたが、この事件が出羽国における南北朝動乱の幕開けとなった。
 吉野の後醍醐天皇は足利尊氏を討伐せんとして、奥州の北畠顕家に命じて軍を西上させた。しかし、顕家は和泉国堺石津の戦いで戦死、同年、新田義貞も越前国藤島で戦死し、天皇も延元四年(1339)吉野で波瀾の生涯を終えた。こうして、南朝方は圧倒的に優勢な北朝側の軍事力の前に苦戦を強いられることになる。
 顕家戦死後、弟顕信が陸奥介・鎮守将軍となって奥州に下向、奥州南朝方の中心となり北朝方と対峙した。しかし、足利方に国府を落とされた顕信は出羽に逃れ、さらに、南部氏を頼って北奥に赴いたといわれている。かくして奥羽は北朝=幕府方の優勢となったが、寒河江大江元政と一族は一貫して南朝方として行動した。

斯波氏のとの抗争

 やがて、奥州管領大崎家兼は出羽の南朝方の勢力を駆逐するため、延文元年(1356)、次男兼頼を出羽按察使として山形に入部させた。兼頼は山形入部に先立って、成生荘に勢力を扶植しつつある里見義景に、弟の義宗を養子に入れるなど、事前工作を行ったのちに山形に入部した。山形に入部した兼頼は、山寺根本中堂の再建事業に着手するなどして民心掌握につとめ、翌延文二年には山形城を築いたという。そして、山形盆地における南朝方の最大勢力である寒河江大江氏と対峙したのである。
 さきの『安中坊縁起』によれば、大江元政は兼頼と戦い討死したと記されている。おそらく、寒河江大江氏は斯波氏と何度か衝突し、ついに元政は弟柴橋懐広・高松顕広らとともに戦死したものであろう。元政の戦死の時期は、一本に正平十四年(1359)のことであったという。
 ところが、戦いに関する詳細はまったく不明で、その場所も明確ではなく、正平十四年と伝えるもののその時期も確定はできていないのである。この時期、出羽の各地では南北両方の衝突があり、寒河江大江氏も必死にこの時代を生き延びようとしていたのである。元政が戦死した後は時茂が寒河江大江氏の惣領となり、父の遺志を継ぎ南朝方として行動した。
 正平二十三年(貞治六年=1367)四月、鎌倉府の鎌倉公方足利基氏が死去し、そのあとを九歳の氏満が継いだ。さらに、同年十二月には京都の幕府将軍足利義詮も卒した。この幕府の混乱に乗じて、越後に潜んでいた南朝方の新田義宗と脇屋義治が越後・上野両国の国境に挙兵した。この新田一族の蜂起に呼応して奥州の南朝方も各地に蜂起した。斯波方は鎌倉公方氏満を総帥とし、奥州管領である直持、そして出羽の兼頼が将となり数万の兵を率いて奥州の南朝方を攻めた。
 この陣容が一丸となって寒河江大江氏を攻撃したとは思えないが、斯波氏が圧倒的優勢をもって寒河江大江氏を攻撃したことは疑いない。

漆川の戦い

 攻める斯波方と、迎え撃つ寒河江大江方は漆川で激突した。漆川は月布川(つきぬのがわ)の古名で、合戦が行われたのは本郷の諏訪神社を中心とする地域あったようだ。斯波軍は防備の厳しい寒河江の正面攻撃を避け、五百川方面から進軍し、主力を富沢・猿田の塁に向けて、この方面に大江勢を牽制した。そして、別働隊を手薄な月布川上流で渡し、背面から諏訪原を攻める形を取ったのだろうといわれている。
 このような斯波勢の動きに大江勢は急ぎ対応したが、左沢城への退路が絶たれ、文字通り袋のネズミとなった。かくして、一族をあげて合戦にのぞんだ大江方は、斯波氏の圧倒的な軍勢と周到な戦略体制の前に壊滅的敗北を喫したのである。一族をあげて合戦にのぞんだ大江方は、総大将の溝延茂信をはじめ、その弟左沢元時、元政の弟柴橋懐広、その子直于ら、この戦いで自害した大江一族は六十三人であったと記録されている。
 合戦当日、惣領の大江時茂は寒河江本城にあり、時茂の子で寒河江氏を継ぐべき立場の時氏は病のため吉川に保養中で合戦には出ていなかった。のちの寒河江城は時氏の時代に構築されたもので、このころの大江氏の本城は吉川であったと思われる。漆川の合戦に勝利した斯波方は大江氏の本城まで攻めることはなく、漆川の戦勝で目的を達したものとして引き揚げたようだ。南北朝時代の戦いは、のちの戦国時代のような領土拡張を求めたものではなく、いわゆる大義名分によって戦われることが多かった。それもあって、戦後処理も大義名分によって処理されたようで、一族の多くを失ったものの寒河江大江氏は滅亡を逃れることができた。
 漆川の合戦から五年後の文中二年(1373)、死に臨んだ時茂は時氏に対して武家方に和を請い降ることを遺言し、苦難に満ちた人生を閉じた。時氏は父の遺命によって北朝方に和を請い、嫡子元時を鎌倉公方足利氏満に人質として差し出した。その結果、鎌倉幕府から「本領安堵一家正嫡」の安堵御教書を受けることができた。このとき、時氏は大江姓を寒河江姓に改めたという。寒河江氏に改称したのは、歴代宮方として南朝方に奉仕してきた大江氏の歴史に決別してものであったのだろうか。大江氏系図では、寒河江氏の始祖を時氏にするものが多いのはここに由来するのであろう。
 元時が北朝方に降り寒河江氏を称したことで、出羽地方からは南北両朝を名分にした戦乱は終熄し、寒河江荘にもしばらくの平和が訪れた。以後、寒河江氏は代々寒河江城に拠り、一族を柴橋・君田・左沢・溝延・荻袋・高屋・白岩などに分封し、また落裳・貫見などにも館主を配置して村山郡の西部一帯を掌握し、山形斯波氏に対抗する勢力圏を形成するのである。

戦国乱世の序曲

 明徳三年(1392)南北朝の合一がなると、幕府は奥羽地方の支配を鎌倉府に委ね、鎌倉公方足利氏満がその管轄にあたった。公方氏満は出羽国に多くの代官を派遣する一方、羽州探題最上(斯波改め)氏や寒河江元時、中条氏などを通じてその支配を強化しようとした。応永六年(1399)、氏満のあとを継いだ満兼は稲村と篠川に御所を設け、それらを中心に奥羽両国の諸士を掌握しようとした。そして、御所の経済基盤を支えるため、伊達氏に対して置賜郡を差し出すように要求した。しかし、伊達氏はそれに応じなかったため、鎌倉公方は謀叛とみなして武力弾圧にのりだした。伊達氏はこれを不当として幕府に訴え、幕府は伊達氏支持を表明した。
 伊達氏をめぐる鎌倉府と幕府の対立はいやおうなしに出羽もその渦中に巻き込み、出羽の諸氏はいずれに属して行動すべきかの選択を迫られたのである。『余目氏旧記』などには、大崎・伊達・葦名・登米以外の「奥州諸将は皆鎌倉を助く」とあり、最上氏や白鳥、寒河江、左沢氏らは鎌倉府と奥州両御所の指揮下で行動していたようだ。こうして、寒河江氏は幕府や伊達氏と敵対することになり、のちに伊達氏が寒河江荘に侵攻する遠因ともなった。
 ところで、置賜郡長井荘は大江一族の長井氏が地頭職にあった。長井氏は鎌倉に住んで、関東評定衆の一人として活躍し、長井荘の統治は代官にまかせていた。その間隙をついて天授六年(1380)伊達宗遠が突如として侵入し、長井荘を奪取してしまった。長井氏が伊達氏によって滅ぼされたことは、寒河江氏にとっても最上氏にとっても由々しき事態であった。
 置賜郡を攻略した伊達氏は周囲に領土を拡張しはじめ、成宗のころになると奥羽最大の豪族に成長し、さらに北進する気配を見せはじめた。文明十一年(1479)、伊達成宗は桑折播磨守を大将として寒河江城を攻撃してきた。原因は伊達・寒河江両氏間に遺恨があって、それが抗争に発展したという。おそらく、さきに述べたような鎌倉方と幕府方に分かれての対立や、伊達氏による長井荘攻略などが遠因になったと思われるが、直接的には伊達氏が遺恨を理由に寒河江荘に食指を伸ばしてきたものであろう。

惣領制の崩壊

 伊達軍の攻撃に対して、寒河江一族の間には足並みの乱れがあり、一致団結して伊達勢にあたることができなかったという。ときの寒河江城主式部大夫には四人の男子があり、長男四郎と三男左沢摂津守とが対立して寒河江軍に加わらなかったというのである。事態を重くみた次男の溝延備前守が動き、事態を収拾して兄弟一同が誓紙を交わし宝前に納め、一族の結束を固めた。
 翌十二年、結束した寒河江軍はふたたび侵攻してきた桑折播磨守に率いられた伊達軍を迎え撃ち、勇戦する播磨守を討ち取る勝利をえた。この合戦は天神原から菖蒲沼にかけての一帯で行われたことから、「菖蒲沼の戦い」と呼ばれている。
 このときの寒河江氏の動きは、鎌倉時代から続いてきた惣領制の崩壊を示したものといえよう。つまり、惣領を中心として一族がそれぞれの領地で勢力を蓄えていた血縁中心の社会から、それぞれが独自な動きをとるようになる地縁社会へと時代が変化してきたことを語るものである。このような動きは寒河江氏に限らず、最上氏や伊達氏の内部にも見られる時代の趨勢であった。
 南北朝期以来、最上氏や伊達氏はいわば大名として勢力を伸ばした。それに対して、寒河江・左沢・溝延らの大江一族や村山の白鳥氏らはそれぞれの所領に土着し、国人領主として自立の構えを見せていた。そして、最上氏や伊達氏といった大勢力に対抗し自らの所領と権益を守るため、一揆を結ぶようになったのである。さきの、寒河江兄弟の盟約は、寒河江荘内において一揆が成立したことを物語るものでもあった。
 戦国時代は、こうした国人一揆の盟主となるのは誰か、あるいは自立しようとする国人衆を被官として従え、強力な領国体制を作り上げるかという形で展開するのである。そして、寒河江氏も一族の左沢氏や溝延氏らも、ともにその渦中に身を置いていたのである。

戦国時代と寒河江氏

 応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が勃発、以後、日本全国は戦国時代へと推移した。十六世紀初頭の永正年間(1504〜21)になると、寒河江地方も戦乱に翻弄されることになる。
 永正元年(1504)、山形城主の最上義定が再三にわたり寒河江領に侵攻してきた。その最中に寒河江宗広が死去し、跡をついだのは宗広の六男でわずか三歳の孝広であった。幼年の孝広が寒河江氏を継いだことを知るや、義定は三度にわたって寒河江を攻撃してきた。これに対して、孝広の叔父広直をはじめ、吉川・左沢・白岩氏らが活躍して最上勢を退けることができた。
 最上氏が寒河江氏を執拗に攻撃した背景には、寒河江氏内部で家督争いが起こっていたことがあったようだ。宗広には家督を継いだ孝広を含めて六人の男子があり、広直のほかに宗綱という弟があったことが系図から知られる。おそらく、広直が推す孝広派と宗綱の推す孝広の兄派とが両派に分かれて対立、宗綱方が最上氏に救援を要請したものと想像される。加えて、寒河江氏が伊達氏との結びつきを強めつつあったことに対する、最上氏による牽制の意味もあったのかも知れない。あるいは、さきの菖蒲沼の合戦後、伊達氏の寒河江氏に対する支配がおよぶようになり、最上義定はそれを排除しようとして寒河江領に侵攻したとも考えられる。
 いずれにしろ、最上氏の侵攻によって寒河江領は多大な損害を被った。そして、最上氏の強力な軍事力を知った寒河江氏は伊達氏への傾斜を改めて、最上氏へ接近する途を選んだようだ。

伊達氏の出羽侵攻

 永正十一年(1514)、最上領に侵攻した伊達稙宗は長谷堂で最上軍と戦い大勝した。この戦いで最上勢の楯岡・長瀞・山辺・吉川兵部以下一千余人が戦死し、長谷堂城は落城した。吉川兵部は寒河江一族の吉川兵部政周であり、吉川の館主であった。吉川兵部は最上氏を救援するため寒河江一族を率いて長谷堂合戦に出陣し、討死したものであろう。
 敗戦の理由は最上義定が遅れたためとされるが、稙宗軍の前に最上勢は足並みが揃っていなかったようだ。このころの最上氏は惣領制が崩壊しており、宗家は有力な一族に左右されるという状況にあって、伊達氏の攻勢の前にその脆弱さを露呈したのであろう。稙宗は家臣の小梁川親朝を長谷堂に留めて睨みを利かしたため、義定は山形城を出て中野城に難を逃れた。
 その後、白岩満教の奔走で義定と稙宗の妹の縁組みが整い、最上氏と伊達氏との間に和睦が成立した。この講和によって稙宗は最上領から軍を引きあげ、義定は山形城に帰ることができた。ところが、永正十七年(1520)義定は嗣子にないまま死去し、山形城には未亡人伊達氏が残され、最上氏は伊達氏の支配下に甘んじる存在となった。この事態を不満とした最上の諸将は、伊達氏に対して一斉に反旗を翻した。寒河江氏もこれに加担したため、翌年、稙宗が寒河江に軍を進めてきた。稙宗の軍勢は壮々たるもので、戦意を失った寒河江氏は稙宗に謝罪し伊達の軍門に降った。
 やがて、十五歳に成長した孝広は熊野詣に出かけている。これは心身を鍛えるとともに経験と知識を深めることを目的としたようだが、寒河江氏の配下に多くの熊野修験者がいたからでもあったようだ。そうして二十四歳になった孝広は館岡氏の娘と結婚したが、その翌年、病のために死去してしまった。これからという時の孝広の死は、寒河江氏にとって大打撃であった。孝広には嗣子がなかったため、僧籍にあった兄が還俗して広種を名乗って家督を相続した。

最上氏の内紛

 最上義定の死後、最上領を支配していた伊達稙宗であったが、最上諸将の抵抗に手を焼き、最上一族の中野氏からわずか二歳の義守を家督に迎えて山形城主とした。とはいえ、依然実権は稙宗が掌握していた。伊達稙宗は奥州守護職に補任されるなど、その勢いは隆々たるものがあった。ところが、天文十一年(1542)稙宗と嫡子晴宗との対立から「伊達氏天文の大乱」が起こり、以後、伊達氏は内紛に揺れることになり、最上氏はやっと伊達氏の支配から脱することができた。
 最上氏の実質的な家督となった義守は、稙宗を援けて置賜に出兵して上長井・下長井の全域を制圧するなど、活発な動きを示して最上氏の勢力拡大につとめた。義守には嫡男義光がいたが、義光の傲岸不遜な性格を嫌って次男の義時に家督を譲ろうとし、一族・国人領主らも義守に加担して義光と対立した。さらに、この最上氏の家督争いに天文の内乱を収拾した伊達晴宗が介入しようとした。
 この事態を憂慮した最上氏宿老の氏家守棟は、病床の身を押して出仕し、最上氏の危機と義光が家督を継ぐべきことを義守に諌言した。守棟の必死の説得に義守もついに家督を義光に譲ることに決め、義時を連れて中野城に隠居した。
 家督を継いだ義光は、自分に反抗した一族・国人衆らを呵責ない態度で討滅していった。中野城主の弟義時を殺害し、一族の重鎮である天童氏を降した。こうして、一族・家中の統制を果たした義光は、領国拡大に突き進むようになり、天正九年(1581)真室城主鮭延秀綱を降した。同年から翌十年にかけては、庄内の武藤義氏と戦火を交え、新庄・最上地方の領国化に成功した。

最上義光の勢力拡大

 出羽統一をめざす義光の前にたちはだかったのが庄内の武藤義氏で、義氏もまた出羽統一を目指して最上領への侵攻を繰り返していた。義光は謀略をもって義氏の家臣前森蔵人に謀叛を唆し、十一年、前森蔵人は義氏に対する謀叛を起した。この庄内武藤氏の危機は、縁戚関係にあった寒河江大江氏にも逸早く知らされ、寒河江高基は義氏救援のために庄内へ急いだ。
 寒河江高基は寒河江一族の吉川基綱の長男で、男子がなかった宗家寒河江兼広の娘婿となって寒河江を継いだものであった。ところが、兼広と最上義光の間にはすでに「義光の長男義康を兼広の婿にする」との約束が交されていて、それを反故にされた義光は高基に対して穏やかならざる気持ちも抱いていたのである。そのような背景があって、高基は最上氏と対立関係にあり、武藤氏の救援を図ったのであった。しかし、高基の救援軍が到着する前に義氏が自害したことから、高基はむなしく兵を引返すしかなかった。
 かくして、庄内を掌握して強大な戦国大名となった最上義光は、その鉾先を寒河江氏に向けてきた。これまでも両者の間には幾度かの小競り合いはあったが、情勢はいままでとは違う様相を呈してきた。つまり、義光は寒河江氏や谷地白鳥氏など、戦国大名への道を歩もうとする国人の望みを断ち切り、最上川西一帯も最上領国に組み込むことを狙いとしていたのである。
 義光は、まず白鳥長久の攻略を進めた。長久はなかなかの名将であり、一計を案じた義光は、婚姻策によって十郎長久を懐柔し機会をみて謀殺しようと図ったのである。白鳥の娘を嫡男義康の妻に迎えた義光は、長久を山形城に招いたが、義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。そこで、さらに計略をめぐらした義光は、大病を装い、義光なきあとの後事を託したいと誘ったのであった。この計略は成功し、山形城に駆けつけた白鳥長久は義光によって討ちとられた。
 長久を討った義光は、自ら三千の軍勢を率いて谷地城を攻略した。義光は時を移さず、寒河江城攻撃の態勢を整えた。義光の寒河江城攻撃に関しては、根本史料はなく『軍記物語』に頼らざるを得ない。
 『最上記』にみえる寒河江攻撃の段によれば、「寒河江の領主羽柴(橋間)勘十郎と申す大力無双の若者、山形にて討ちもらされたる十郎(白鳥長久)殿家来のものをあつめ大勢を率いて打ち出し働ければ、云々」とあり、最上勢がてこずったことがうかがわれる。羽柴勘十郎は寒河江高基の実弟であり、かれの奮戦に対して、押され気味となった義光は作戦をめぐらした。羽柴の血気を逆手にとって、陣の真っ先を駆けてくる勘十郎をわざと退き陣に取り込み、伏せておいた鉄砲隊で討ちとるというもので、その作戦は見事に成功して勘十郎は討たれてしまった。
 羽柴を討ちとったあと、義光は諸勢を段々に備え、寒河江に討ちいった。総大将を失った寒河江・谷地の連合軍は足並みが乱れ、態勢を立て直す余裕もなく義光軍に降った。

寒河江氏の滅亡

 最上氏との決戦において、寒河江勢の領主または大将は勘十郎で、真の領主である寒河江高基は登場しない。おそらく寒河江城にあって、弟勘十郎らに対して作戦を指示していたものと思われる。高基は勘十郎が敗死したことを知ると、貫見の館に落ち延びた。このとき、寒河江大江一族は各個が散り散りとなり、高基に付き従ったものはわずかな近臣のみであったようだ。
 貫見館に辿り着いた高基は、覚悟を決めていたようで、御館山に登り、三名の忠臣とともに自害して果てた。ここに鎌倉以来、四百年にわたって寒河江荘を統治してきた寒河江大江氏は滅亡した。時に天正十二年(1584)六月二十八日であった。
 嫡流は滅亡したが、天童頼久の娘を母とする良光は、会津の葦名氏を頼って落ちていった。その後、最上氏に降った旧臣らの嘆願により、義光は寒河江氏の宗廟を再建し、その別当として良光を招いた。
 また、高基の実家である吉川家に対しても、寛大な態度をとり保護さえも加えている。これは、寒河江大江氏一族を丁重に扱うことで、川西支配を有利に展開しようと考えてのことであっただろう。とはいえ、結果的に寒河江一族は、家名を伝えることができたのであった。・2004年10月28日

参考資料:寒河江市史/山形県史 など】

●毛利氏の家紋─考察


■参考略系図

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