太田氏
太田桔梗(清和源氏頼光流)
・一つ引違い鷹の羽/違い矢

 太田氏は清和源氏の末流といわれている。すなわち、以仁王の挙兵で討死した源三位頼政・仲綱父子の後裔である。頼政の子広綱兄仲綱の養子で、頼朝は彼を鎌倉御家人に取り立てた。その子隆綱は、皇室領丹波五箇庄の預所となる。そして、資国が丹波国太田郷に住し、太田氏を名乗るようになった。
 資国は同国上杉郷の地頭上杉重房につかえ鎌倉に下向、その執政となる。丹波太田氏は、関東移住後、武蔵太田庄の一部地頭職に補せられてから、太田氏を称したのではないかという説もある。いずれにせよ太田氏は、丹波以来の主従関係をもって、扇谷上杉氏に仕え、家老として代々続いた。
 太田氏の名字の地、丹波太田郷は鎌倉期以来の足利氏領。その足利領、同国八田郷を伝領した上杉朝定の養子顕定は鎌倉扇ケ谷に住み、その子氏定は鎌倉府の評定衆。太田氏はその若党であった。
 資清は扇谷上杉持朝の執事として、山内上杉氏の執事長尾景仲と永亨の乱のころから活躍している。乱後、持朝は相模守護となり、資清・資長(道灌)父子は守護代として在地支配を行う。亨徳の大乱にさいし、道灌は江戸・河越・岩槻城を築いて南武蔵を固め、古河公方成氏に備えた。
 太田氏で著名なのは、やはりこの太田資長(道灌)であろう。道灌は永亨三年(1432)、関東争乱の前夜ともいえる時期に生まれた。のちに徳川家康の居城となる江戸城を築いたのも道灌であった。
 文明年間、道灌は、武蔵・相模などで成氏方との合戦に終始し、主君扇谷上杉定正をよく補佐して各地に戦功をあげた。そして、関東管領山内上杉氏を圧倒するに至った。しかし、扇谷上杉野勢力が伸びるのを警戒した山内上杉顕定の謀略により、文明十八年(1486)定正の手によって、相模糟屋館で謀殺されてしまった。
 これを契機に、山内、扇谷両上杉氏は争い(長亨の乱)、道灌の嫡子資康は顕定に属した。のち資康は定正に復帰し、永正十年(1513)姉婿三浦道寸を応援して討死した。あとを継いだ資高は大永四年(1524)、子康資とともに北条氏綱に内応し、江戸城は後北条氏の手に落ちた。
 永禄六年(1563)、康資は「小田原衆所領役帳」の江戸衆の筆頭に位置付けられ、後北条氏の重臣となっていたが、岩槻城主太田資正に通じ、翌七年資正・里見義弘と下総国国府台で北条氏康と戦ったが敗戦。義弘を頼って安房国へ移り、その地で没した。その子重正は佐竹義重に招かれ、常陸に移った。
 その後、重正が名家の子孫ということで家康に召し出され、その妹勝が家康の側室となったことにより、累進しついには遠江掛川五万石の大名になった。

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■略系図