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岡見氏
洲 浜
(宇都宮氏流小田氏支流/
桓武平氏相馬氏流)


 永享十二年(1440)に起こった結城合戦に際して、討手の上杉清方に従う武士のなかに岡見大炊助という武士がいた。この人物は、のちに、牛久城・足高城を中心に、その名を常陸南部に轟かせた岡見氏の先祖の一人であったと思われる。
 岡見氏の系図をみると、岡見氏は本来下総相馬氏の一族で、鎌倉末期から南北朝初期の人である師長が、小田治久(高知)の次男邦知(知宗)を娘婿に迎えて岡見の家名を継がせ、この流れが足高岡見氏に成長していったという。
 ところが、十五世紀末から十六世紀前半に、小田成治の弟義治が、ついで政治の弟治資が、それぞれ岡見氏を名乗って一家をなしたとも伝わる。小田氏の一族に連なる岡見氏には三つの系統が存在したことになる。岡見氏が小田氏の一族であったことは確実であり、『関東幕注文』にみられる岡見氏の家紋は「すわま」で、この点からも小田氏一族とみて間違いないだろう。

歴史への登場

 戦国末期、岡見治部大輔治広が牛久城主としてあらわれ、同じ頃足高城主として岡見中務大輔宗治の活動も活発になる。永禄三年(1560)上杉謙信が関東へ出陣してくると、北条氏と対立する多くの大名・領主たちが、ぞくぞくと謙信のもとへ参陣した。そのなかに、常陸国小田氏系列の領主の一人として、岡見山城守の名が挙げられている。山城守は岡見氏系図にみえる小田治孝の弟、岡見右衛門大夫義治の子義綱と孫義知がそれぞれ山城守を名乗っていることから、かれらのいずれかに比定されよう。
 治資は、元亀元年(1570)太田三楽斎と戦い、敗れて討死したという。三楽斎は武蔵国岩槻の城主であったが、後北条氏に属した息子の氏資のために城を逐われ、佐竹氏を頼って常陸に入り、その客将として柿岡城を守っていた。かれは、小田氏に対する先鋒の役目を与えられ、佐竹氏が小田氏と手這坂で激突したときも出陣しており、小田方の治資は三楽斎の手に討ちとられたのであろう。
 治資が討死したとき、その子の治広はまだ幼かったことから、一族の岡見伝喜入道(頼勝)に養育された。その結果、伝喜入道の子宗治と兄弟のように位置づけられることになったという。伝喜入道は江戸崎城主土岐治英の弟で、足高城主岡見左衛門佐某のあとを継いだとされている。ところが、頼勝の子宗治が土岐治英の弟で頼勝の養嗣子となったともいわれる。また、宗治の実父は左衛門佐治親で、治親が死去したとき、頼勝が幼い宗治に代わって家政を代行したとする説もある。
 このように、岡見氏の系譜関係は曖昧であるが、天正半ばすぎにおける岡見氏の中心は牛久城主の治広であり、そして、足高城を守っていたのが宗治であった。

後北条氏の勢力拡大

 十六世紀半ばは、東国における戦国の大きな転換期であった。すなわち、小田原北条氏の勢力が一段と拡大し、古河公方や山内上杉氏に代わって東国の中心勢力となったのである。さらに、一族の内訌を克服して低迷の時代を脱した佐竹氏が常陸中南部への進出を開始し、小田氏との対立を引き起こし始めていた。
 牛久城主の岡見治広が、小田原北条氏といつから関係をもつようになったのかは定かではない。天正八年(1580)江戸崎の土岐治英と相談して多賀谷氏の手に落ちていた谷田部城を奪還しようとしたとき、北条氏照が支援の手を延ばしているので、この頃、北条氏の影響力が及びはじめていたのではないかと思われる。そして、天正十一年ごろから、治広は明確に後北条氏配下の武将の一人として位置付けられるようになる。同十四年になると、治広は後北条氏の求めに応じて下野足利まで参陣したばかりか、人質の提出まで求められている。さらには、北条氏から居城である牛久城の共同利用を申しいれられるのである。
 このような、後北条氏の対応に岡見氏は不満の色を見せながらも「証人(人質)」を差し出している。この背景には、一段と激しさを加えた多賀谷氏の攻勢にあった。岡見氏と多賀谷氏との抗争は、天正八年の谷田部城をめぐる攻防で多賀谷氏が同城を奪取して以来、互いに一歩も譲らぬものとなり、天正十一年、牛久の治広軍が谷田部城の奪回を目指して攻撃をかけた。

近隣諸豪との攻防

 天正十四年、多賀谷氏は岡見領へ激しい攻撃を加え、岡見氏の勢力下にある小張城を取り、宗治の拠る足高城に迫った。足高城は多賀谷氏の攻撃に耐え、牛久の治広や若紫の伝喜入道らの一族、布川の豊島氏や小金の高城氏らの援軍を得て、多賀谷軍の撃退に成功した。しかし、その後も多賀谷氏の攻勢は止むことがなく、天正十五年牛久を臨む要害の地に新たな砦を構えた。
 多賀谷氏が築いた砦は「取手」とも「寄居」とも呼ばれた。多賀谷氏はこの砦を拠点として、足高を攻めたが、足高側はこれを見事に撃退し、多賀谷信濃守以下数十人を討ち取った。とはいえ、宗治の側にも少なからぬ犠牲が出た。この敗戦にもめげない多賀谷重経は、岡見氏配下の月岡玄蕃を下して板橋城を取り、ついで岩崎城を攻めて落とし、その余勢をかって足高城に攻め寄せた。そして、宗治の祖父岡見入道が多賀谷方に内応したことから、ついに宗治らは牛久城へ逃走した。こうして足高城は落ち、多賀谷氏の攻勢は一段と厳しさを加え、攻撃目標も牛久城に絞られたため、岡見氏は窮地に立たされることになった。
 岡見氏は多賀谷・佐竹氏らの攻勢に対して、後北条氏の力を借りて領地と家名を保全しようとしたが、後北条氏への依存度が高まれば高まるほど、その強い影響下におかれることになった。後北条氏も佐竹氏を中心とする反対勢力に対抗していくためには、「境目の地」に当たる牛久を自らの傘下に押さえておくことは必須であった。そして、岡見氏の弱みに付け込んで、その支配の手綱をしだいに引き締めていったのである。
 はじめ、岡見氏と後北条氏との関係は、軍事的な支援をされる者とする者という関係にあった。しかし、間もなく後北条氏は配下の領主たちを岡見氏の援軍に派遣し、多賀谷氏や佐竹氏の襲来にそなえて、牛久城に駐留させるようになった。それを裏付けるものとして、下総国分城主の国分胤通が北条氏からの指示を受けて、牛久城まで出張して警備に当たっていたことが知られる。

岡見氏の終焉

 その後、天下はさらに大きく動いた。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始され、後北条方の牛久城は豊臣方の軍勢によって攻め落とされた。落城後、岡見治広はしばらく江戸崎に潜居していたと伝えられる。それから間もなく、治広は結城秀康に仕えて、越前国へ移住した。かれは余生を越前で送り、元和三年(1617)に同地で没したという。
 一方、足高城主であった宗治は、天正十六年(1588)、多賀谷氏の攻勢にあって戦死したともいわれるが、しばらく牛久城の治広を頼り、牛久城が落城すると、土浦周辺に潜居したという。そして、慶長六年(1601)に下総布川の松平信一が土浦城主になると、これに仕えたといわれる。

参考資料:牛久市史  ほか】

●小田氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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