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奥州長沼氏
●三つ頭左巴
●秀郷流藤原氏小山氏流
・宮城県在住長沼さんから情報をいただきました。「藤の丸」としている書もある。
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中世の会津には、会津四家とよばれる領主が割拠していた。会津を領する葦名氏を最大の勢力として、大沼郡金山谷および南会津郡伊北只見川流域を領する山内氏、南会津郡伊南を領する河原田氏、そして南会津の東部を領し鴫山城(長沼城)に拠った長沼氏であった。
長沼氏は秀郷流藤原氏小山氏の一族である。治承四年(1180)、頼朝が挙兵すると、小山政光は妻の寒河尼が頼朝の乳母のひとりであったことから挙兵に参加し、その信頼を得て下野守護職に任じられた。小山氏は嫡男朝政が継承し、二男宗政は下野国芳賀郡長沼を領して長沼氏を称し、三男朝光は下総国結城を領して結城氏を称し、それぞれ幕府に出仕した。
宗政は長沼庄のほかにも下野国御厨別当職や都賀郡小薬郷を支配し、新たに陸奥・美濃・美作・武蔵などの諸国に所領を獲得した。承久の乱にも出陣して活躍、乱後の行賞で淡路守護職に任じられている。宗政の所領は時宗・宗泰・宗秀と継承されたが、宗秀は秀行・宗実に所領を分与した。十四世紀中ごろの観応三年(1352)、惣領秀直(秀行の子)が陸奥国会津南山長江庄会津田島に移住し、下野の本領長沼庄の支配は庶子家に委ねられたようだ。
●南北朝期の動向
南北朝の争乱に際して長沼氏は、惣領秀行は足利尊氏の命に従い、建武三年(1336)正月、淡路守護職を安堵された。しかし、長沼一族のすべてが秀行と行動をともにしたわけではなかった。たとえば、長沼一族とみられる皆河孫四郎は陸奥守北畠顕家の下にあって忠節を致し、興国二年(1341)の北畠親房御教書によれば、長沼大輔法眼宗俊が親房の使節を努めていることが知られる。
康永二年(1343)、結城親朝が北朝(武家)方に転じたとき、宗俊をはじめとする長沼一族が行動をともにしている。このことは、長沼氏と結城氏との深い結びつきを示すとともに、長沼氏において惣領制がまったく解体していたことをあらわしている。そして、結城親朝がの転向によって、親房の立て籠った関・大宝の両城は落城した。拠点を失った親房は吉野に逃れ、東国における南北朝の争乱は一つの区切りを付けたのである。
南北朝期における長沼氏の惣領とみなされる秀行は「長沼越前権守」と見え、淡路守護職を安堵されたものの、長沼氏惣領代々が世襲する淡路守に任じられた様子はない。他方、長沼淡路守高秀という人物がみられ、おそらく惣領であったものと思われる。しかし、高秀は南朝方に加担したことから惣領職は秀行に移り、高秀は系図などから抹殺されたのであろう。ここにも、南北朝期における長沼一族の統一性に欠けた行動がうかがわれる。のちに、秀行の子秀直は淡路守への補任を望み、淡路守に任じられたが、淡路守護職そのものは細川氏に移ってしまった。
やがて、尊氏と直義兄弟の不和から「観応の擾乱」が起ると、秀行・秀直父子は尊氏方として活動した。擾乱の影響は陸奥国にまで波及し、息を吹き返した南朝方が宇津峯城に立て籠った。直義を降した尊氏方は宇津峯城を攻撃したが、攻撃軍のなかに長沼惣領秀直・南山の長沼朝実らも加わり、それぞれ城攻めに活躍している。ここに見える南山の朝実とは秀行の弟で、秀直には叔父にあたる人物である。このときの秀直の行動が、長沼氏惣領の会津南山長江庄に移住と伝えられる一因になったのかも知れない
南山への移住、考察
長沼氏が鎌倉期以来、会津南山に所領をもっていたことは、寛喜二年(1230)に長沼宗政が時宗に与えた譲状によって疑いないことである。しかし、惣領家みずからが南山に移住したかどうかについては明確ではない。正安元年(1299)の将軍家政所下文から、南山が宗泰から宗秀に譲られたことが知られるが、移住のことはわからない。ついで、正和元年(1312)の宗秀から宗実への譲状においても、南山への移住に関しては明確ではない。
鎌倉時代、幕府御家人は本領とは別に全国に所領を有したが、地方の所領は代官支配とするのが一般的であった。おそらく長沼氏の場合も惣領は本領の下野長沼荘に拠り、会津南山の支配は庶子を派遣して行ったと考えるのが自然と思われる。
一方、『皆川正中禄』には、「正和三年(1314)奥州岩瀬郡白川の在に城郭を築きて国替をなし、其所を長沼と命名して宗秀嫡子五郎駿河守宗行、嫡子五郎淡路守秀直、其嫡子五郎淡路守義秀、嫡子藤五郎満秀、是を奥州長沼四代と言ふ」とあり、続いて「嫡子淡路守憲秀は、貞治二年(1363)会津郡田島へ所替、その嫡子紀伊守秀光、足利義満公に背きたる廉をもって所領を残らず召し上げられ、やむを得ず田島を退きて野州岩田郷長岡瀧の入に居住す」とある。しかし、『皆川正中禄』の記述を裏付ける史料があるわけではない。
応永二十二年(1415)、鎌倉府の公方足利持氏は長沼淡路入道義秀に対して、奥州探題畠山国詮に協力せよとの軍勢催促状を出している。このことから、当時、長沼氏の嫡流義秀が会津田島にいたことがうかがわれる。翌二十三年にも、持氏は義秀に軍勢催促状を出しており、義秀が公方持氏から信頼をえていたことがうかがえる。間もなく、持氏と対立する前管領職上杉禅秀(氏憲)が乱を起すと、義秀は躊躇することなく公方持氏方となった。
関東の戦乱
乱勃発の三日後、持氏は下野国長沼荘内の上杉氏憲領、大曾郷の氏憲党の木戸駿河守領、武蔵国小机保内の氏憲党の長井次郎入道領を没収して、長沼義秀に与えるとの宛行状を発している。まことに素早い対応で、義秀を自分の味方として確保するためであった。持氏に反抗した氏憲党は下野国をはじめ関東全域にわたっており、下野国を拠点とする義秀は持氏にとって頼もしい味方であった。さらに、義秀は持氏から氏憲党を討伐する旨の軍勢催促状を与えられ、持氏党として活動をした。
禅秀の乱を征圧した公方持氏は、禅秀に加担した関東諸将の徹底討伐を押し進めた。これに対する禅秀党残党の抵抗も激しく、応永二十五年(1418)、長沼義秀は領地である長沼荘内の昆布嶋郷ならびに泉郷・青田郷などにおいて、昆布嶋下総入道が違乱していると義秀は訴えた。これに対して、持氏は狼藉を退けるように結城基光に命じたが、はかばかしい結果とはならなかったようで、その後も昆布嶋下総入道が狼藉を働いている。
一方、禅秀の乱に乗じた宇都宮持綱が、長沼氏の所領である三依郷を押領した。義秀はそのことを公方持氏に訴え、持氏も宇都宮氏に返還を命じているが、三依郷はその後も宇都宮氏が押領したままであったようだ。
話は前後するが、応永二十年(1413)、淡路入道義秀は孫の亀若丸に所領を譲った。これは、嫡子の五郎満秀が急逝したからであった。そのときの譲状には「下野国地頭職、陸奥国南山八郷地頭職、同国安積郡部谷田地頭職」さらに「淡路国守護職」などが記されている。しかし、淡路国の実質的支配はとうに失っていたし、長沼荘内にも昆布嶋下総入道の狼藉があったりして、所領の支配はなかなか思い通りにはいかなかった。
義秀の所領譲状にあらわれる「南山八郷」は、鎌倉期以来、八郷のうち奈良原郷は庶流安芸守系の宗実に伝えられ、針生郷・関本郷の一部が宗実系に伝えられていた。それが、義秀の譲状には楢原郷.針生郷・関本郷など南山八郷を惣領に一括譲渡しており、南山八郷は惣領家の一円支配になったことを示している。
かくして、長沼氏は淡路入道義秀あと憲秀、ついで秀宗と受け継がれた。そして、秀宗の代の永享十年(1438)に「永享の乱」、続いて同十二年に「結城合戦」が起こった。
長沼氏嫡流の動向
先述のように、禅秀の乱後、足利持氏は禅秀党の征伐に狂奔した。結果、持氏の権勢は強化され、次第に幕府との間に波風が立つようになっていった。そのような情勢下の応永三十年(1423)、将軍義持が子の義量に将軍職を譲り出家した。ところが、義量は義持に先立って病死し、正長元年(1428)、義持も後継者を決めないまま死去してしまった。
持氏は将軍職を望んだが、次期将軍は僧籍にあった義持の弟のなかから、青蓮院義円がくじ引きによって選出された。還俗した義円は義宣(のち義教)と名乗って、室町幕府六代将軍となった。ここに野望をくじかれた持氏は、ことごとく新将軍義教に対して反抗的な態度をとるようになった。
管領上杉憲実は持氏に諌言を行ったが、かえって持氏から攻められ「永享の乱」が起こった。幕府は上杉氏を支援して持氏を攻め、敗れた持氏は永享十一年(1439)自害して滅亡した。翌年、結城氏朝に擁立された持氏の遺児らが、結城城に拠って挙兵した。籠城戦は一年あまりも続いたが、嘉吉元年(1441)、結城城は落城して一連の関東の争乱も一段落した。
長沼秀宗は永享の乱に際して公方持氏に従い、鎌倉で討死したと伝えられている。しかし、永享の乱・結城合戦などにおける長沼氏の動向を示す史料は極端に少ない。秀宗が討死したことで長沼氏の嫡流は逼塞を余儀なくされたようだが、秀宗の子氏秀は結城合戦において上杉氏に従って結城城攻めに加わっていることから、ほどなく復活をとげたようだ。享徳四年(1455)の筑波潤朝の軍忠状によれば、潤朝は結城合戦のとき結城方に属して長沼淡路守の城を攻め、父玄朝らが疵を負ったと記している。このなかにみえる長沼淡路守は氏秀と考えられ、上杉方として攻撃を受けたのである。
ところで、長沼氏は秀宗の時代に奥州田島から下野皆川に移ったという。また、氏秀のとき会津田島から下野皆川荘に入り皆川城を築いて、皆川氏を称するようになったといわれている。いずれにしろ、長沼氏惣領は十五世紀中期に会津田島を去り、一族か庶子を残して田島の支配を委ねたとみられる。そして、その子孫が田島を領して戦国時代に至ったとみててまず間違いないだろう。
近世、伊達氏に仕えた長沼氏は宗実系長沼氏の文書を伝えていることから、会津長沼氏は宗実系の直系とも考えられるが、それを裏付ける史料は存在しはない。結局のところ、長沼惣領家と会津長沼氏との系譜関係は、推定の域を出ることがない状態のままである。
葦名氏の勢力拡大
享徳二年(1453)、会津守護を称する葦名氏に内紛が起った。すなわち典厩・伊賀の乱で、家督を継いだばかりであった葦名盛詮は、たちまち危機に陥った。盛詮は白川直朝の応援を得て、反乱を企てた松本右馬允と芳賀将監を攻撃した。二人は高田城に逃れたが、さらに葦名勢の追撃を受け、二人は南山を通って日光山へ逃れようとした。そこへ、田島城主の長沼出羽守政義が攻めかかり、芳賀将監とその子を討ち取った。出羽守政義はこにの事件にのみ名前が出る人物で、その実在は不詳である。ただ、『塔寺八幡宮長帳*』にも出羽守の名が見えることから、南山長沼氏の惣領は出羽守を称していたのであろう。
ついで長禄三年(1459)、長沼氏の所領であった三依郷を押領していた宇都宮氏が、白川結城氏に三依郷を割譲しようとした。それは長沼氏にとって黙過できることではなく、葦名氏に支援を求めたことで「長禄の変」となった。長沼氏は三依郷の奪回に成功したが、葦名氏に大きな借りを受ける結果にもなった。
明応四年(1495)、葦名盛高と子の盛滋の対立が表面化し、盛高に叛した松本備前と伊藤民部は南山を通って下野宇都宮氏のもとへ逃れようとした。このとき、長沼盛秀は松本・伊藤を糸沢まで追撃し、三十三人を討ち取った。このように長沼氏は葦名氏寄りの行動をとったが、それは配下に属すというものではなく、友好的な関係を保つというものであったようだ。
葦名氏は盛高の時代に南奥の戦国大名に成長し、文亀三年(1503)、長沼氏は葦名氏と衝突したという、しかし、そのようなことはなく、おそらく宇都宮氏と長沼氏の戦いに葦名氏が長沼氏を支援した合戦がそのように伝えられたものであろう。長沼氏が葦名氏と対立するようになるのは、盛高のあとを継いだ盛滋が早世し、盛舜が葦名氏の家督となったころからである。
盛舜が葦名氏の家督となった大永元年(1521=永正十八年)、盛舜の相続に反対する勢力が一斉に動いたといわれ、長沼豊後守実国も反対勢力加担して盛舜と対立した。長沼勢は桧玉村に出撃したが、たちまち葦名勢によって一騎残らず討ち取られる敗北を喫した。葦名盛舜は大内峠を越えて南山に侵入してきたが、葦名家中の内訌が再発したため、実国はことなきを得た。
この戦いが長沼氏と葦名氏の抗争の始まりで、以後、両者の間で小競り合いが続けられた。天文元年(1532)、盛舜が南山に出撃、合戦は年を越えて続いた。結局、実国は盛舜に降服したが、まったく服属したわけでもなったようだ。永禄四年(1561)「葦名盛氏田島長沼実国を攻む。実国降る」とあるように、永禄四年、ついに長沼氏は葦名氏の軍門に降った。それでも客分的地位を保ち、一定の自立性をもった領主として、葦名氏とはゆるやかな同盟関係にあったようだ。
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塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)
南北朝の貞和六年(1350)から江戸時代初期の寛永十二年(1635)まで、二百八十六年間にわたる心清水八幡神社の年日記。中世の会津や東北地方の歴史を知るうえで、大変貴重な資料となっている。
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二人の盛秀
実国のあとは盛秀が継ぎ、会津南山の戦国領主長沼氏における最後の当主となった。
ところで、長沼氏において盛秀と名乗る人物は二人いたことが知られる。盛秀のもっとも初期の史料は大永六年(1526)で、盛秀が死去したとされる天正十八年(1590)まで六十四年間の長きにわたっている。長命の人物であったといえばそれまでのことだが、その間に豊後守実国が存在し、二人の盛秀は同名異人であったことは紛れもないことであろう。
先の盛秀の書状は、大永六年、天文二年(1533)、ついで年号欠ながら天文十四〜十八年ごろのものと思われるものが残されている。この間、南山を支配していたのが盛秀とすれば、永正十七年(1520)に実国が桧玉村に出撃したのは、あるいは盛秀の起こしたことであったものとも思われる。
一方、実国は先述のように大永元年、天文元年、永禄四年に葦名氏と戦ったことが会津の古記録に残され、『会南事蹟集』には、永禄十二年に隠居し天正十八年正月に死去したということが記されている。ところが、長沼系図では永禄三年のころ死去したとあり、江戸末期の元治元年(1864)に長沼実国三百年忌追善供養が行われ、この三百年が正確に年数を数えたものであれば、実国は永禄八年に没した計算となる。
いずれにしろ、盛秀─実国─盛秀が会津長沼氏の戦国時代における三代であったとみて間違いないだろう。
葦名氏の興亡
葦名氏は盛氏の代に南奥最大の戦国大名となり、伊北の山内氏、ついで実国の拠る鴨山城を攻めて会津を統一した。やがて、米沢城主伊達輝宗との対立が表面化し、結城白川氏が佐竹氏と結ぶに至って、盛氏の眼は東に向けられるようになった。永禄十一年(1568)、盛氏は向羽黒山(岩崎)城を完成させ南会津を押さえる山城とした。実国は強大化した盛氏との同盟関係を保ち、実国のあとを継いだ盛秀の名乗りは、盛氏からの一字拝領と思われる。そして、盛秀の代になると葦名氏との関係をさらに強化し、長沼氏は南会津最大の勢力として大きな影響力を発揮した。
会津を統一した盛氏は領国拡大を企図して外征を起こし、麾下の将士はもとより領内の民は大きな負担を強いられた。盛氏の晩年に至ると、連年の戦役による綻びが表面化し、領内には反乱が起るようになっていた。やがて、盛氏隠居を受けて嫡子盛興が継いだが早世、盛氏も天正八年(1580)に死去すると、二階堂氏から迎えられた盛隆が家督を継承した。
ところが、天正十二年(1584)、盛隆は家臣に殺害され、そのあとを継いだ亀若丸も二年足らずで死去してしまった。この相継ぐ当主の死に葦名氏の家中は動揺し、葦名氏の家督をめぐって伊達政宗の弟竺丸を推す派と、佐竹義重の次男義広(当時白河氏の養子となっていた)を推す派に分かれて相続争いが起こった。
長沼盛秀は竺丸擁立派に加担したが、葦名氏の家督は義広が継ぐことに決定した。しかし、葦名氏家中には家督争いの後遺症が拭いがたく残った。義広は少年といってもよい年頃であり、しかも他家から入って家督を継いだため、家中の統制をはかることができず実家の佐竹氏を頼ることが多かった。そして、実家から義広に付けられた者たちを重用したため、相続争いにおいて竺丸擁立派だった者たちはもとより、一族・譜代の武士のなかにも面白くない感情を抱く者が出てきた。
そのような葦名氏家中の内部分裂をみた伊達政宗は、葦名家中に調略の手を伸ばし、猪苗代盛国を誘って葦名領に兵を進めた。そして、天正十七年六月、葦名軍と伊達軍は猪苗代湖北に広がる摺上原で激突した。敗れた義広は黒川城に逃げ帰ったが、さらに実家の佐竹氏のもとに奔り葦名氏は滅亡した。
伊達政宗の会津制圧戦
葦名氏を破った政宗は会津黒川城に入り、会津制圧戦を開始した。その対象となったのは山内氏・河原田氏・長沼氏らであったが、もともと伊達派であった長沼盛秀だけはいち早く政宗に帰順した。
しかし、山内氏勝と河原田盛次は伊達政宗に対して徹底抗戦の道を選んだのである。
山内一族は伊達政宗の降伏勧告に応じて、黒川城の政宗のもとに参じたが、一族の惣領の氏勝は黒川城を逃れて居城に立て籠った。河原田盛次に対しては長沼盛秀が書状をもって伊達軍に帰順することを誘ったが、盛次からは武士として二弓を引くことはできぬと手厳しい回答が返された。かくして、山内氏勝・河原田盛次は政宗への抵抗姿勢を明確にした。盛秀は伊北の簗取および泉田を攻めることを政宗に願い、許され先陣として出陣した。
盛秀はまず簗取城に攻めかかったが苦戦となった。しかし、山内一族の加勢もあって簗取城を落すと、川向いにある河原田方の泉田城(河原崎城)を攻撃した。泉田城を守る五十嵐和泉守は剛将として知られた人物で、長沼勢の攻撃をよく防ぎ双方激戦となった。盛秀は伊達勢の加勢を頼んで、どうにか和泉田城を落すことができた。落城の様子は『伊達家治家記録』に「城中の者共残り無く撫斬せしうむ」と記され、凄惨な状況であったことが伝えられている。
泉田城を落した伊達・長沼勢は伊南にも軍を進めようとしたが、伊南を攻略するには泉田城攻撃の十倍の人数が必要と判断してひとまず兵を引き揚げた。伊達政宗にとって、奥会津の制圧は会津の領国化を完成することであり、さらには奥会津の地が関東・越後に近い要地であったことから、奥会津の制圧が急がれたのである。
盛秀の活躍は簗取・泉田の合戦以前から政宗のもとにが伝えられていたようで、「今般弥七郎方、無二の奉公の忠節に依り」とあり、さらに政宗は「盛秀は手延なき人に候条」すなわち物事をてきぱきと処理する人と評価したことが知られる。盛秀は政宗に属して、高い評価を得ていたのである。
南山長沼氏の終焉
天正十八年(1590)三月、河原田氏の将河原田大膳盛勝が駒止峠を越えて攻めてきた。長沼側はこれを迎え撃ち、大豆渡村で合戦となり大膳をはじめ河原田方の多くを討ち取った。しかし、長沼勢も多くの死傷者を出し、双方兵を引き揚げた。盛秀はこのときの合戦で負傷し、その傷がもとで間もなく死去したという。
盛秀の死に関して、長沼氏系図は「天正中中卒す」とだけあり、戦死とは書かれていない。戦死ではなかったとしても、盛秀の死は急死であったようで、長男の福国・次男盛重・三男九郎左衛門が鴫山城に残された。同年七月、豊臣秀吉の「奥州仕置」によって政宗が会津から除かれたとき、福国・盛重・九郎左衛門の三兄弟は伊達氏に従って米沢に移住していった。こうして、鎌倉時代以来の南山における長沼氏の歴史は幕を閉じた。
伊達氏に仕えた三兄弟のうち長男福国は召出家に昇進して七百石を賜り、二男盛重は手水番となり孫致貞の代の永代着座に列し千五百石の家老級に昇進、三男九郎左衛門も召出家に列し仙台藩の中堅官僚として続いた。そして、鎌倉期末に分かれた安芸権守宗実以来の古文書は二男盛重の家が伝えた。・2006年3月29日
【参考資料:福島県史/南郷村史/田島町史 ほか】
→長沼氏ダイジェスト
・お奨めサイト…●下野長沼氏についての情報
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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