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奥州長沼氏 ●ダイジェスト
三つ頭左巴
(秀郷流藤原氏小山氏流)
・宮城県在住長沼さんから情報をいただきました。藤の丸としている書もある。


 長沼氏は秀郷流藤原氏小山氏の一族。小山氏は政光の時、政光の妻が八田氏の娘で寒河尼と呼ばれ、源頼朝の乳母のひとりであったことから、頼朝の挙兵に参加した。嫡男朝政は政光の後を継いで小山氏を継承し、二男宗政は下野国芳賀郡長沼を領して長沼氏を称し、三男朝光は下総国結城を領して結城氏を称した。
 宗政は長沼庄のほか、下野国御厨別当職や都賀郡小薬郷を支配し、新たに陸奥・美濃・美作・武蔵などの諸国に所領を獲得、承久の乱にも活躍、乱後には淡路守護に任じられている。その所領は、時宗・宗泰・宗秀と継承されたが、宗秀は秀行・宗実に分与。十四世 紀中ごろ、秀行系の惣領家は陸奥国に移住し、本領の長沼庄は庶子家が支配したらしい。しかし、次第に同族結城氏の支配下に入るようになった。
 長沼氏が南会津に進出したのは、応永年間中頃(1410年代)もしくは永亨の乱(1438-39)以降とされる。長沼義秀が下野国長沼とは別に、陸奥南山に地頭に補せられていることは、応永二十年の義秀譲状で確認できる。実際に義秀が南山にいたかどうかは不明だが、すでに一族が同地にいたようだ。しかし、義秀の系統とは別系であったようだ。
 会津鴨山城に長沼氏があった初見は、古記録によれば長禄三年頃である。すなわち横田城主山内越中と白川直朝勢が長沼氏の拠る鴨山城を落し、葦名盛詮により奪回され、長沼氏に戻されたとあるものだ。
 葦名盛高の時代、葦名氏は盛高と子の盛滋の対立が表面化し、明応四年(1495)長沼盛秀が、盛高に叛した松本備前らを南山で討った。長沼氏は鴨山城で有力国人領主の地位を固めていたのである。
 大永元年(1521)、長沼実国は本郷の桧玉地区に侵攻、葦名盛舜はすぐさま鴨山城を襲ったが、葦名家中の内訌が再発。実国はことなきを得た。盛舜は伊達氏と結んで、北方を固め、会津守護の立場を確立しようとしたが、天文二十二年に死去。その跡を継いだ盛氏は南会津統一のため山内氏についで、実国の鴨山城を攻めた。
 しかし、伊達輝宗との対立が表面化し、結城白川氏が佐竹氏と結ぶに至って、盛氏の眼は東に向けられた。永禄十一年(1568)、盛氏は向羽黒岩崎城に入り、南会津を押さえる山城とした。このころ実国は、戦国大名に成長した盛氏と同盟関係にあったようだ。
 実国のあとを継いだ盛秀は、その名乗りが葦名氏からの偏諱を受けたと考えられるように、南会津最大の勢力として大きな影響力を有していた。葦名氏は盛氏の嫡子盛興が早世、二階堂氏から迎えた盛隆は内訌で殺され、その子亀王丸も夭折して、葦名家中は、伊達派よ佐竹派に分裂。佐竹義重の子白川義広が後継に決まると、盛秀は伊達方に立ったようだ。天正十七年、伊達政宗が義広を追放して黒川城に入ると、盛秀は参上している。
 その後、盛秀は伊達氏の山内・河原田攻めに協力する。これは上杉氏と結び豊臣政権が後押しする山内・河原田勢力が、次第に長沼氏にとって脅威になってきたことも背景にあった。しかし、このようななかで盛秀は天正十八年死去した。同年七月末、秀吉が会津に入部、伊達氏を会津から除くが、盛秀の子らは伊達氏に従って会津を去っていった。

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