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能勢氏
●切り竹矢筈十字/十二目結*/獅子に牡丹**
●清和源氏頼光流
* 『見聞諸家紋』に収録された能勢氏の家紋。
**多田源氏の代表紋。
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武士が発祥したのは、平安時代後期というのが定説となっている。関東では国司として下向して土着した下級貴族の後裔が、土地を開発し、武力を養い大小の武士団が成立していった。近畿地方でも各地に武士団が起こり、摂津では渡辺党、多田源氏が代表的武士として勢力を持っていた。
渡辺党は嵯峨源氏渡辺綱の後裔を称し、多田源氏は摂津守に任じた源満仲の後裔である。満仲は多田荘を開き、嫡男頼光は摂津源氏、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏の租となり、それぞれ子孫が各地に繁栄した。摂津能勢地方を領した能勢氏は頼光の流れで、多田頼綱の孫国基が摂津国能勢郡を領したのが始まりと伝える。一方、摂津守頼盛の子高頼も能瀬を称しており、国基系は田尻、高頼は倉垣を本拠としていた。
国基は『吾妻鏡』の文治元年(1185)の条に、伊勢の玉垣御厨の領主権を与えられ、頼朝の親密な一族として扱われている。そして、能勢氏は在京御家人として幕府に出仕し、国基の子国能は東大寺再建供養に臨んだ頼朝の隋兵の一人としてみえる。やがて、寛喜三年(1231)、田尻荘の地頭職に任じられ、田尻・野間地方に勢力を伸ばしていった。
承久元年(1331)に承久の乱が起こると、多田源氏の武士たちは後鳥羽上皇に味方して没落したが、幕府に味方した能勢氏は阿波篠原荘の地頭職を与えられるなど勢力を拡大した。
■初期の能勢氏系図
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・清和源氏の祖神として崇められる多田神社。
・境内の各所に「笹竜胆」紋が見られる。・鳥居の向こうに本殿を見る。
・神像の装束に「獅子牡丹」の文様が描かれている。・多田神社本殿。
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動乱の時代を生きる
南北朝期には足利氏に従い、田尻・野間の所領をはじめ阿波篠原荘を安堵されたが、動乱のなかで篠原荘は失われたようである。しかし、能勢郡ではよく基盤を固め、室町時代になると幕府奉公衆の一員に編成された。これは同じ摂津衆である池田氏・伊丹氏・塩川氏らとは異なる能勢氏の特徴であった。おそらく、在京御家人であった歴史が背景にあったものと思われる。
一方、倉垣の能勢頼貞は後醍醐天皇に仕えて、元弘元年(1331)の後醍醐天皇笠置山挙兵に参加、幕府軍と戦っている。その功により建武の中興がなると摂津国能勢郷目代に任じられ、新政が崩壊したのちも宮方として各地を転戦した。興国四年(1343)、備前国綱浜において武家方赤松氏の大軍と戦い、敗れて戦死したと伝えられている。のちに頼貞の勤王心を聞いて感じるところのあった足利尊氏は、嫡男頼仲に備前十七ケ郷を与えたという。戦国時代に至って、頼貞の後裔という本太城主能勢修理大夫頼吉があらわれるが、系譜関係などは不明点が多い。
さて、幕府奉公衆として京都に出仕した田尻の能勢氏は、幕府管領で摂津国守護職を務める細川京兆家の被官としても活躍した。細川氏は足利氏一族として幕閣に重きをなし、なかでも十五世紀中葉に出た細川勝元は全盛時代を築き上げた。当時の政情は足利将軍家をはじめ、三管領の畠山氏、斯波氏において内訌が繰り返され、幕政は混乱を極めていた。
応仁元年(1467)、管領細川勝元を恃む畠山政長と、山名持豊の後援をえる畠山義就の合戦をきっかけとして応仁の乱が勃発した。以後、乱は京都を舞台として十一年間にわたって続き、世の中は戦国動乱へと突入していった。この未曾有の動乱に際して能勢氏は細川勝元に属して出陣、応仁元年七月、油小路の合戦で能勢頼弘・頼満父子は討死した。この報に接した頼満の弟頼勝はただちに上洛すると、合戦に臨み武勇をあらわし、細川勝元から感状を与えられた。
戦死した頼弘は惣領下野守之頼の弟で、いわば庶子家の人物で、山城国乙訓郡今里に住していたといわれる。能勢氏の家督は之頼のあと元頼が継承し、元頼は幕府奉公衆として長享元年(1487)足利義尚の六角高頼討伐、明応元年(1492)足利義材の六角高頼討伐に従って近江に出陣した。ついで明応二年、足利義材は管領畠山政長とともに河内に出陣して畠山基家を攻めた。ところが、義材と政長の留守を衝いて、細川政元がクーデターを起こした。このとき、能勢元頼も河内に従軍していたが、政変ののちは新将軍足利義澄に奉公衆として仕えた。
両細川氏の乱
明応の政変で政敵畠山政長を倒し、将軍義澄を傀儡として幕府の実権を掌握した細川政元は、相当な奇人で魔術に凝り四十歳にいたるまで女子を寄せ付けなかった。結果、子供に恵まれず、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎え、それが家中の内紛を牽き起こした。そして、永正四年(1507)、澄之派の家臣薬師寺長忠によって暗殺されてしまった。
澄之は澄元と結んだ高国によって殺害されたが、今度は澄元と高国が対立、以後、両細川氏の乱が繰り返されることになる。能勢氏は高国に属して、永正八年の船岡山合戦において能勢因幡守頼豊が波多野氏や波々伯部氏らとともに奮戦している。因幡守頼豊は摂津芥川城主とあることから、能勢系図に芥川城主になったとある頼勝と同一人物と思われる。また、頼勝は嗣子に恵まれなかった元頼のあとを受けて能勢氏の家督を継承した人物であり、能勢氏は細川氏に属して摂津芥川に進出していたのであった。
高国と澄元の抗争は澄元の死によって終熄、高国政権は一応の安泰をみせた。ところが大永六年(1526)、高国は身内の讒言を信じて、自派の有力者香西元盛を生害させた。これに怒った波多野氏、柳本氏らが、澄元の子晴元に通じて高国から離反した。翌年、上洛した晴元の重臣三好氏と波多野・柳本連合軍と高国との間で桂川合戦が行われ、敗れた高国は将軍義晴を奉じて近江に奔った。
再起を図る高国は、近江から越前へと流浪し、播磨の浦上氏の応援を得ると享禄四年(1531)、摂津中島で晴元方と戦い敗れて自害した。こうして晴元が上洛したが、三好氏の討伐、法華一揆、一向一揆との戦いなど政治的混乱が続いた。この間、能勢氏の動向はようとして分からないが、晴元が芥川城に入っていること、高国のあとを継いだ晴国から能勢頼明に書状が出されていることなどから晴元とは対立関係にあったようだ。
摂津の戦国乱世
細川氏の乱はその後も続き、やがて三好長慶が登場してくる。天文十年(1541)、摂津一蔵城主の塩川政年が反晴元の動きを示した。ただちに晴元は三好政長・長慶、波多野秀忠らを派遣した。十二年、高国の甥氏綱が挙兵、反晴元勢力が形成されると能勢氏も氏綱党に属したようだ。十四年に氏綱党の内藤備前守が丹波関城に兵を挙げると能勢氏もこれに加担したが、関城は三好長慶らに攻め落とされた。翌十五年になると、長慶は氏綱党の遊佐長教に敗れ、池田久宗ら摂津国衆はことごとく遊佐方に味方した。文字通り、情勢は猫の目のように変化を続けた。
泥沼の細川氏の乱がつづくなかで、三好長慶は三好政長と対立するようになり、ついに晴元を離反して氏綱を擁するに至った。十八年、長慶と政長は摂津の各地で合戦、中島江口の戦いで政長が討ち取られると、翌年、追いつめられた晴元は長慶と和睦した。ここに晴元政権は崩壊し、一躍三好長慶が畿内の覇者となったのである。そして、永禄四年(1561)、長慶は将軍足利義輝を京の邸に迎え、晴元は出家して一連の細川氏の乱は終結した。
しかし、新しい波が時代を大きく動かそうとしていた。すなわち織田信長の登場である。信長は永禄三年、桶狭間の合戦で今川義元を討ち取ると、にわかに勢力を伸張、永禄十年には斎藤氏を滅ぼして美濃に進出すると岐阜城を築いた、その間、三好長慶が六年に病死、八年には将軍義輝が松永久秀と三好三人衆によって殺害された。奈良一乗院の門跡の地位にあった義輝の弟覚慶は、奈良を脱出すると義昭と改め流浪のすえに、織田信長を頼った。
永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の兵を起こした。近江を席巻して京に入った信長は、三好三人衆らと戦い、摂津芥川城へと入った。高槻城の入江氏、茨木城の茨木氏らが服属、池田城の池田勝正は抵抗したがのちに降伏、山下城の塩川国満も降伏した。こうして、摂津を平定した信長は池田勝正、伊丹親興・和田惟政を守護に任じて、岐阜へと引き上げていった。
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・戦国時代、能勢氏が本拠とした丸山城址─出丸に佇む崩れかけた丸山神社、本丸を取巻く土盛り。城址は木々が雑駁に繁茂しているが、下刈りが施されていて城構えを感じることはできる。
・丸山城址近くに建立された能勢氏の菩提寺─日蓮宗清普寺、境内には能勢氏歴代の墓碑が林立し、古い瓦には苔むした能勢氏の「切り竹十字」紋が見られる。
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・能勢頼次が再建した野間神社の本殿。
・能勢に復帰した頼次が築いた地黄(じおう)城、江戸時代、能勢氏の陣屋として機能した。
立派な石垣は「印南積み」で築かれている。
・寂照院日乾上人に深く帰依し、法華経を信仰した頼次が建立した眞如寺。
・眞如寺の境内に刻まれた能勢氏の「切竹十字」紋。
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織田信長の登場
信長が上洛したとき、能勢城主は能勢頼幸であったが、頼幸が信長に降ったかどうかは不明である。しかし、奉公衆として幕府に仕えた能勢氏であれば、信長が奉じる足利義昭に従ったものとみられる。『能勢物語』によれば、この頼幸の代に能勢氏は内訌に揺れたとある。
頼幸には嫡男の頼道がいたが、晩年に側室との間に頼貫と頼季をもうけた。頼幸は頼貫を溺愛し、これに家督を譲ろうとした。頼幸の意を察した家臣の大西入道は頼道を亡き者にして、頼貫を立てようと企んだ。これを知った能勢氏一門は先手をうって、元亀二年(1572)、頼貫と頼季を討ち取った。能勢城は騒然となったが、頼幸はみずからの不徳が事件の原因であるとして頼道を後継者とした。
天正元年(元亀四年=1573)、足利義昭は槙島城に拠って信長打倒の兵を挙げたが、たちまち信長に打ち破られて降伏、室町幕府は事実上滅亡した。義昭を降した信長は続いて、越前の朝倉義景を滅ぼし、ついで近江小谷城主の浅井長政を滅ぼした。翌二年には長島一揆を根絶やしにすると、翌三年五月、武田騎馬軍団を長篠において撃破した。かくして、信長の敵対勢力は次々と崩壊していった。
天正三年、信長は義昭に加担した丹波勢を攻略するため、明智光秀に命じて丹波攻めを開始した。光秀は丹波に隣接する能勢頼道を塩川氏を通じて味方に誘ったが、頼道は代々室町将軍家に仕えてきたことから、将軍家を滅ぼした信長に味方することはできないと招きを退けたようだ。とはいえ、信長に敵対するということはなかったようで、弟の頼郡は光秀軍に属して、天正六年の播磨神吉城の戦いで討死している。
能勢氏の没落
天正六年十月、荒木村重が突如信長に反旗を翻した。このとき、高山右近、中川清秀らが村重に味方し、能勢頼道も消極的ではあるが反信長の立場にあった。その後、高山・中川らが信長方に転じ、態度の曖昧な能勢衆は織田軍の攻撃を受け、鷹取城・山口城・止々呂美城が陥落した。翌年九月、織田軍の攻撃によって村重の叛乱は鎮圧された。攻撃軍には高山・中川、塩川国満らが参加していたが、能勢頼道がどのように行動したかは分からない。
このような能勢頼道の不明瞭な存在は、天下統一を進める信長にとって目障りに過ぎないものであった。天正八年九月、頼道は塩川国満(長満とも)の招きに応じて山下城を訪ねた。頼道を迎えた山下城では宴会が催され、宴たけなわとなったとき、塩川勢が頼道らに打ちかかった。頼道らは必死に応戦したがかなわず、ついに主従ともに討ち取られてしまった。この謀略の背景には、信長の意志が働いていたとみてまず間違いないだろう。
頼道を討ち取った塩川勢は、一気に北上して能勢へ攻め寄せた。能勢氏は頼道の弟頼次を家督に立てて防戦したが、本城である丸山城は陥落、翌九年、頼次は為楽山(のちの妙見山)に移って抵抗を続けた。
天正十年六月二日、亀山城主明智光秀が本能寺に織田信長を攻め、討ち取るという一大事変が起こった。ほどなく、豊臣秀吉と明智光秀との間で山崎の合戦が行われ、結果は秀吉方の勝利となった。確かな記録はないが、能勢氏は織田氏とのこともあって光秀に加担したようだ。その代償として能勢一帯は秀吉軍の侵攻を受け、神社仏閣はことごとく焼き払われた。頼次は死を決して打って出ようとしたが、老臣たちから短気を諭され、数名の家来を連れて備前国岡山城下へ落ち延びていった。おそらく、南北朝期に備前に領地を得た一族を頼ったものであろう。以後、頼次は備前の日蓮宗妙勝寺で「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えながら、能勢氏再興のときを待つ身となったのである。
【能勢氏の没落─異説(『多田雪霜談』による)】
能勢氏の復活
能勢氏が退去したあとの能勢は、塩川氏が領することになったようが、天正十四年、塩川氏が改易処分を受けたのちは秀吉の直轄地となったようだ。そして天正十六年、九州征伐で秀吉に降った島津義久の在京賄料として与えられた一万石のうちに能勢五千百石余石が含まれており、能勢は島津氏の領有するところとなった。天正十九年、頼次は天正年間の兵火によって焼亡していた能勢の野間神社(当時布留社)の再興を島津氏に願い、これを入れた島津氏は頼次を本願人として社殿が復興された。
不遇のときを過ごしながらも能勢に心を留めつる能勢頼次は、豊臣政権にも接近して本領の回復を図ったようだが思うような結果は得られなかった。やがて、秀吉が死去したのち徳川家康が五大老の筆頭として権勢を拡大していった。
慶長四年(1599)、上洛した家康は東寺に休息したが、そのとき同寺の僧金剛院に生地を訪ねた。金剛院は能勢氏の出身で、能勢頼次の弟にあたる人物で、家康に兄頼次のことを話した。これがきっかけとなって、頼次は家康に召し出され、ささやかながら能勢氏を再興することができた。翌慶長五年、関ヶ原の合戦が起こると頼次は家康の旗本に参じて奮戦、戦後、能勢村の旧領を安堵され、念願の故地を回復できたのであった。
能勢氏を再興した頼次は、感謝の念から法華経の信仰を深め、日乾上人の説法を聞くことになった。その法話に感激した頼次はただちに上人に帰依すると広大な山屋敷を寄進したのである。かくして、能勢に住した日乾上人は眞如寺を興し、能勢地方一帯に日蓮宗=能勢法華が成立していった。さらに上人は、能勢氏が信仰する妙見大菩薩を法華宗の守護神とし、上人自ら彫刻した妙見大菩薩像を能勢領が一望できる為楽山の山頂に祀った。ときに慶長八年(1603)のことで、これが能勢妙見山の始まりである。
能勢氏の家紋
能勢氏の家紋は「切り竹矢筈十字」が知られ、能勢頼次の位牌や野間神社の本殿に同紋が刻まれており、眞如寺の境内にも日蓮宗の「井桁に橘」とともに散見できる。また、多田源氏の代表紋である「獅子に牡丹」紋も使用していたことが知られる。一方、室町時代に記録された『見聞諸家紋』には、能勢氏の紋として「丸に十二目結」が収録されているが、十二目結は
山城西岡今里城主であった能勢氏のものであろう。
戦国期の摂津の大名和田氏・高山氏らはキリシタンとして知られ、能勢氏もキリシタン宗徒であったという。「切り竹矢筈十字」とは、おそらく、クルス=十字架を象ったものであり、のちキリシタンが禁教されると「切り竹矢筈十字」と称するようになったと思われる。・2007年01月06日
■掲載家紋:獅子に牡丹・十二目結紋。
【参考資料:能勢町史/かさい市史/長岡京市市/尊卑分脉 ほか】
■参考略系図
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