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能勢氏─異説



 能勢氏は隣領一蔵城主塩川氏とは代々折り合いが悪く、戦国後期の天正八年九月能勢頼道は塩川長満に殺害された。頼道が謀殺された後は、次弟頼次が家督を継ぎ、兄の仇である塩川家と合戦をしてこれを打ち破った。そして、この合戦後、能勢、塩川両氏の仲は決定的に険悪化していくことになる。
 天正十二年には、能勢・塩川両領地の農民同士の諍いが起こり双方に死傷者が多数でた。農民双方がそれぞれ能勢・塩川氏に訴えたため、地黄城の能勢頼次と西峯城を守備していた塩川国満の養子国良との間で一触即発の状態になった。しかし、塩川国良は総領の国満に指示を仰ぎ、国満は秀吉にこのことを訴えたため、秀吉が乗り出して両者の仲介をして事態は収拾された。
 天正十四年四月、秀吉の九州征伐の軍が起こされ、能勢地方にも軍役の触れが回って来た。塩川氏は、自らが筆頭となっている多田院御家人衆に軍役の督促を行った。しかし、それに従わないものがおり、国満は秀吉にその旨を訴え、秀吉からの返答を以って不服従の武士たちに秀吉の命令である事を強調した。結果、武士たちの過半は国満に従うこととなった。しかしまだ従軍しないものがいた。これは、塩川氏に敵対する能勢氏が背後にあってかれらを扇動していたのであった。
 こうして。塩川氏と能勢氏は合戦におよぶことになる。すなわち、同月塩川氏と能勢氏との間に大規模な戦闘が起こったのである。しかし、この戦いは秀吉の命で停戦となった。六月、能勢頼次は大坂城で秀吉に謁見し、本領を安堵されるとともに九州征伐の先鋒を命じられ九州に出陣した。
 ところが、塩川国満は能勢氏との抗争に決着を着けるべく、主君が不在で手薄となった能勢領に侵攻し主城地黄城、田尻城等を落とした。能勢氏家臣は離散し、不服従だった多田院御家人衆も国満に降伏した。九州にて事件を聞いた頼次は早速帰城を申し出て大坂に戻り、十二月十日秀吉に訴え出た。秀吉は国満の行為を不届きとし片桐且元、池田輝政、堀尾吉晴をして一蔵城の攻略を命じたのである。十二月十四日、塩川征伐軍は一蔵城を包囲し国満に上意による討伐である事を告げた。国満は上意であれば仕方なしとして開城して自刃し、果てた。ここに鎌倉以来の武士塩川氏は没落してしまった。

能勢氏、近世へ

 能勢頼次は天正八年の塩川家との対立後、隣領丹波を治めるようになった明智光秀のとりなしで織田家に臣従するようになり、以後明智の指揮下に置かれたと言う。そのため「本能寺の変」に際しては明智光秀に味方する結果となり、明智敗亡後に逃走、まず丹波、後に備前に隠れ住んでいたともいわれる。
 そして宇喜多家に属し、さらに大和大納言豊臣秀長に仕え、大和大納言家断絶後は徳川家康に従い関ケ原の戦いで軍功があり旧領能勢を与えられたという。この所伝通りであるなら、本能寺以降、関ケ原以前(1582〜1600)は、能勢氏は能勢に居なかったということになる。となれば、天正十四年に起こった塩川・能勢合戦は架空のものであったということになる。
 また天正年代後半、能勢領は島津家の京洛滞在料として当てられていたと思われる史料も残っていて能勢氏の不在を裏付ける傍証になっている。しかし、このことは、九州統一を目指す島津氏が京洛滞在料として能勢を宛行われたとは考え難いといえよう。
 このように、能勢氏の戦国後記における動向は、いささか不祥な部分があるいといえそうだ。とはいえ、戦国時代を生き抜き、大身の徳川旗本として近世に続いたことは間違いのないところだ。

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