●西岡の戦国時代の終焉
永禄十一年(1568 )、足利義昭を奉じて上洛してきた尾張の織田信長は、圧倒的な武力で畿内を席巻した。当時、西岡には三好三人衆の一人である岩成友通が割拠していたが、信長の攻撃によって没落、新領主として細川藤孝が入部してきた。藤孝は勝龍寺城を拠点に西岡一帯の支配を進め、西岡衆と呼ばれた国衆はそれぞれ生き残りのための対応を迫られた。
川島の革島氏は逸早く信長に通じて細川藤孝の支配に協力したが、物集女忠重(宗入)は藤孝の招きに応ぜず、みずからの自立を貫こうとした。宗入のそのような態度は信長の耳にも達し、ついに天正三年(1575 )の秋、勝龍寺城下において藤孝に謀殺されてしまった。
その後、細川藤孝は丹後に移り、勝龍寺城には城代として松井氏が残った。このとき、藤孝とともに丹後に移住する者、先祖伝来の土地に残る者とに分かれた。そして、丹後に移住した者は細川氏の移封とともに、豊前小倉、ついで肥後熊本へと移住していった。一方、西岡に残った者たちは、武士を捨てて帰農、村の有力者としてつづいた。いずれにしろ、織田信長の登場、細川藤孝の支配のなかで、西岡の中世は終焉を迎えたといえよう。
【参考資料:京都の歴史/長岡京市史/向日市史 ほか】
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