最上義光の登場
元亀二年(1571)義守は得度して禅門に入り、栄林と号した。義守は嫡子の義光を嫌い二男の義時を後嗣にしようとしたことから義光と不和になり、家中は騒乱した。このような最上氏の内紛をみて、伊達輝宗は岳父義守援助を口実として出兵し、庄内の大宝寺氏も最上侵入の機会を狙っていた。この最上氏の危機を憂い、和解へと働きかけたのが宿老氏家伊予守で、かれの諌言によって、天正初め義守は義光と和し家督を義光に譲り隠居した。ここに義光は山形城に入り、弟の義時は中野城主となった。
しかし、これで最上氏の家督争いが終結したわけではなかった。中野城主となった義時は最上氏家督を望み、義守も父を父とも思わぬ義光の態度に憤慨し、義守と義光父子の対立が再燃した。義守はその後、当主の義光に反抗する一族が蜂起すると、「反義光」勢の中心となって、娘婿である伊達輝宗に来援を請うなどして領内は争乱が続いた。 このように、義守は義光の治世の間もしぶとく生き抜き、天正十八年(1590)に没した。
最上氏十一代の家督を継いだ義光は、従来の単なる友好関係、あるいは独立の領主権を許した旗下体制を破棄して、強固な主従関係に結ばれた領国の形成に乗り出した。つまり、戦国大名への道を踏み出したのである。しかし、義光の統制強化策は、一族や諸将らが義光に反抗する因ともなった。先の継嗣問題で反義光派であった天童城主頼貞をはじめ谷地・白岩・左沢等の城主たち、ことに義守の娘義姫を娶っていた米沢の伊達輝宗は、義光の強敵であった。
最上氏の内紛に際して、義光は伊達輝宗を中心とする反対勢力に対してよく攻勢をしのぎ、危機的な状況を脱することができたのは、直臣団の存在が大きかった。義光の政治姿勢に対して、一族・国人衆らは反発しほとんどが義守に加担していた。そのようななかで義光方の武将として明らかなのは上山城主の里見民部・寒河江城主某のほかは、氏家尾張守・谷柏相模守等の宿老・重臣たちだけであった。
両軍の戦局は勝敗が決せぬまま膠着状態に入り、やがて和解の空気が出てきた。その中心となって活動したのは谷地城主白鳥長久であった。とはいえ、かれの狙いは最上氏の内紛をまとめることより、村上地方の主導権を握ることにあったようだ。経緯はともかく天正二年ようやく和解が成立したが、最終段階の対面の場で決裂したという、それは、義光が一族・国人衆と対等な和解の気など毛頭なく、和睦を降伏とみなし臣下の礼を取らせようとしたことにあった。以後、義光は残忍ともいえる態度で一族の討滅に走った。義光にとってもっともあてにならないのは親族であり、もっとも憎むべきは一族であって、信頼できるのは家臣だけであるということを身をもって痛感した結果であった。天正三年(1575)継嗣問題で対抗した弟の義時を討伐し、次いで、同五年に下筋八楯の盟主天童頼貞を攻めた。このときは天童氏を攻め滅ぼすには至らず、和を講じている。その後、義光は八楯の同盟を切り崩し天童氏の孤立化をはかった。
その一方で同八年、小国城の細川直元を滅ぼし、翌九年には宿老氏家守棟を派して、真室城の鮭延秀綱を攻めこれを降した。秀綱は武藤氏を頼って一旦庄内に逃れ武藤氏が滅亡したのちに義光に帰参したというが、このとき、義光に帰順したようだ。義光の鮭延侵攻は、庄内の武藤氏を刺激し、鮭延氏が義光に降ったのちも最上氏と武藤氏の抗争は翌年まで続いたようだ。庄内勢の侵攻は最上方の重要拠点である清水城をも襲うにいたり、義光は、先に降った鮭延秀綱に清水城を救援させたが、依然として最上氏が守勢に立たされていた。
・写真=最上義光像(撮影:吉住 裕氏=2007)
武藤氏との抗争
このころ武藤氏は由利郡の帰属をめぐって秋田氏とも激しい攻防戦を展開しており、最上地方にだけかかずらっていられなかったため、武藤義氏は最上侵攻に専念できなかった。結局、最上地方の戦局は義光に有利に進んだようだ。そして、新庄盆地における最上氏の権勢はこのころに、かなり固まっていたようだ。『新庄古老覚書』などにも新庄盆地の国人領主らは最上氏によって統合されつつあって、「清水四十八楯」が形成されていた。義光は清水城主の清水義氏に男子が無かったため二男義親を養子として送り込み、清水城をさらに強固に掌握していった。
武藤氏は大泉庄の地頭であったことから大泉氏とも称し、大宝寺に居城したので大宝寺氏とも称された。鎌倉時代以来の名門武家で、戦国時代には羽黒山別当を兼任し、羽黒山の権威を利用しながら勢力を拡大した。しかし、武藤氏も惣領制の崩壊とともに一族との抗争が激化し、砂越氏の反乱で大宝寺城は亡所となり、尾浦城に拠った。さらに、庄内は地理的に越後と近いことから、越後の紛争に巻き込まれることが多かった。そして、長尾景虎(のちの上杉謙信、以下謙信と表記)が登場してくると、永禄十一年(1568)武藤義増は謙信に従属することを余儀なくされた。とはいえ、謙信との関係を梃子として武藤氏は庄内国人の結集に成功し戦国大名へと飛躍できたのである。ところが、天正六年三月、謙信が死去し、上杉家では景勝と景虎の間に相続争いが起り、上杉氏の庄内に対する圧力が後退すると、武藤氏は自立した戦国大名への道を急ぎ、大名領国化を強行した。
義氏は『湊合戦覚書』でも「コトニ義氏ハ、名将ト云々」とみえるように武将としては傑出していたようだ。そして、最上地方に進出すると同時に由利郡にも進出したのである。とくに、由利郡への進出は強力であった。由利郡には統一勢力がなく由利十二頭と呼ばれる国人らが一揆を結んでいた。武藤氏はこれらを配下にして北進をしたことで、これに脅威を感じた秋田氏も由利郡に南下した。その結果、武藤氏と秋田氏は由利郡を舞台に激しい抗争を展開し、武藤氏が秋田氏を圧していたようだ。
こうして、武藤義氏の野望は大きくふくらんでいたが、この義氏の自信は実力不相応な過信でもあった。武将としては傑出していたが、外交戦や謀略では最上義光の方が一枚上手だったのである。義光は鮭延秀綱をして庄内に謀略の手を伸ばし、義氏に心服していない武将たちを調略していった。また、義氏の相継ぐ出征に対して、庄内の国人たちにも疲労の色が濃くなり、ついには義氏に対する怨嗟の声が高まっていった。そのような天正十一年、尾浦城は謀叛を起こした前森蔵人によって不意に攻撃され、武藤義氏はあっけなく敗れて自刃してしまった。このとき、武藤一族も含めた庄内の国人らが一斉に反義氏方に加担した。武藤義氏の横死後、最上氏の権威は高まり、庄内に強力な地盤を扶植する途が開けていったのである。
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前森蔵人は義光にとって最大の功労者であったが、義光と内通して主人義氏を殺害したうえに家格の点からも、「庄内の主」になれるはずもなく、義氏の弟義興が迎えられて武藤氏の家督を継ぎ尾浦城主となった。その後蔵人は東禅寺城主となり、東禅寺筑前守と改めた。
義光の謀略によって武藤義氏は殺害されたが、庄内が最上氏の領国になったわけではなかった。庄内の国人らもある者は最上氏に、ある者は上杉氏にという風に複雑な様相を呈して紛争が止むことなく続き動揺のなかにあった。このようななかで、武藤義興は上杉氏を頼り、庄内鎮定をはかろうとした。上杉景勝も武藤氏を支援することに決し、本庄繁長に庄内援助を命じた。義興は上杉氏に支援を頼むと同時に最上義光にも援助を申込んでいた。しかし、天正十二年(1584)には、本庄繁長と連携して、上杉氏に完全に従属する態度を示した。そして、越後の威勢を背景として庄内諸将を圧伏せんとし、義興の権威は急速に高まっていった。この情勢に東禅寺筑前守は最上寄りの姿勢を強めていたが、義光は庄内侵攻を強行することはなく、領国を固めることに意を用いていた。すなわち、谷地城主の白鳥長久を山形城に招いて謀殺し、次いで寒河江城主大江堯元を攻め滅ぼし、先に和睦した天童氏の攻略にかかった。天童氏では頼貞の子頼久が義光に臣従することを肯んぜず、反抗していた。しかし、かつての八楯の盟将たちは義光に属しており、孤立無縁の天童城は十月落城し、頼久は国分氏を頼って落ちていった。そして、翌十三年に至って義光は内陸部の平定を成し遂げたのである。
庄内の制圧
義光は内陸部の平定を成し遂げたことで、いよいよ念願の庄内侵攻を強行できるようになった。こうして、武藤義興と最上義光の衝突は避けられない情勢となったのである。戦いは武藤氏の攻撃によって始まり、武藤勢は清水城に来襲した。対する清水義氏は義光の援軍を得て庄内に出撃した。
天正十四年、庄内の最上派の中心である東禅寺らが飽海郡に反乱を起こし、これに呼応して義光も庄内に兵を進めた。最上氏の攻勢にさらされた武藤義興はますます越後への依存を強め、その一方で米沢の伊達政宗にも助けを求めた。政宗も最上氏が強大となることを嫌っており、最上に圧力を加え、最上氏と武藤氏の和解を要求した。義光にしても背後を政宗に衝かれては大事になることは必定で、庄内侵攻の動きもにぶらざるをえなかった。しかし、義光は庄内の領国化をあきらめたわけではなかった。
天正十五年になると、義光はふたたび庄内に進撃して義興を激しく攻めたてた。義光の攻勢に義興はいよいよ苦境に陥り、越後勢に依存せざるをえなかった。ついに、義興は本庄繁長の二男義勝を迎えて養子とし、越後勢との関係を強化して、東禅寺筑前(前森蔵人)等の最上勢と対抗しようとした。ところが、武藤氏が越後から養子を迎えたことは反越後派の一族・国人衆を刺激し、東禅寺氏らが反乱を起こした。義興は東禅寺氏を激しく攻撃し、東禅寺氏は滅亡寸前にまで追い詰められた。義光にとって東禅寺氏を失うことは庄内奪取に大きな蹉跌をもたらすことでもあり、見殺しにはできなかった。
このころ伊達政宗は南奥の葦名氏と葦名氏を支援する常陸の佐竹氏と対立していて、その視線は南方に向けられていた。越後の上杉氏も新発田重家の反乱を抱えていて、庄内のことは本庄繁長に一任していた。上杉・伊達ともに庄内に目を向けることの出来ない状況にあり、それは義光にとって庄内攻略の好機となった。ついに義光は大軍を率いて、六十里越から庄内に出陣し、東禅寺筑前等を援けて武藤義興を攻めた。義興は敗れて自害し、尾浦城は落城して鎌倉以来の名門武藤氏も滅亡した。このとき、義興の養子義勝はわずかに逃れて小国城に入った。ここに、義光は念願の庄内掌握を現実のものとし、腹心中山玄蕃を尾浦に駐在させて庄内諸将に対する目付とした。
仙北への工作
武藤氏を滅ぼした義光は由利地方や仙北地方にも勢力を拡大していった。仙北地方は小野寺氏が勢力を誇っていたが、内部矛盾と内訌から、小野寺義道は反対勢力の鎮圧に明け暮れていた。義光はこれを好機として仙北地方の国人領主らに調略の手を伸ばしていた。
ところが、小野寺氏をとりまく情勢が好転したことで、小野寺氏は先に義光に攻略されていた真室奪回をはかった。小野寺義道は五千の兵を率いて南下したため、義光は長男義康と楯岡満茂に命じて有屋峠で迎撃したが、小野寺軍の巧みな駆け引きによって大敗を喫した。このとき、義光は庄内侵攻中であったため、小野寺氏と決戦する余裕はなかった。小野寺氏も最上氏と深く事をかまえることができない状況にあったため、雌雄を決するまでには至らず、戦いは終熄した。
以後、義光は得意の謀略をもって小野寺氏の切り崩しを密かに進めた。それがあってかどうか、戸沢氏、六郷氏、本堂氏らが小野寺氏と干戈を交えるようになった。おそらく、戸沢氏と最上氏とは連携して小野寺氏に対応していたようだ。
一方で、由利郡にも勢力を及ぼすようになり、由利十二頭のなかからも最上氏に傘下に入る者で出てきた。そして、義光が武藤義興を滅ぼした天正十五年ごろには、由利十二頭のほとんどは義光の傘下に入ったようだ。こうして、義光は出羽南部のほとんどを掌中におさめ、戦国大名として大きく飛躍を遂げたのである。
政宗との対立
最上氏にとってもっとも恐るべき宿敵は伊達氏であった。義光と義兄弟の関係にあった輝宗は天正十二年に隠居し、輝宗と義光の妹義姫との間に生まれた政宗が伊達氏の家督を継いだ。最上氏の庄内進出に悩まされた武藤義興は政宗と提携をはかり、政宗もそれに応えて伯父義光の庄内侵攻を牽制した。このころ、政宗は葦名氏と対立関係にあり、佐竹氏を盟主とする反伊達連合軍が結成され、それとの対応にも忙殺されていた。義光も反伊達連合との連携を保って伊達氏の脅威に対抗しようとしていた。しかし、義光は伊達氏とは極力修好を装っていたので、政宗が家督を継いだ当初は、最上氏と伊達氏の関係は表面上は穏やかであった。
しかし、義光が庄内侵攻を強行するようになると、政宗の義光に対する不信と、義光の政宗に対する憎悪は抜き難いものとなっていった。政宗は義光に対し武藤氏との和議を求め、義光も表向きはそれに応ずるように見せかけた。そして、政宗は義光の庄内侵攻はないと信じ、庄内の紛争は落着したものと思い込んでいた。ところが、義光は庄内に侵攻し、武藤氏を滅ぼすと庄内を掌中のものとした。この義光の行動に政宗は面目を丸つぶれにされ、その背信行為を非難した。そして、以後、政宗は伯父義光に対して、終世ぬぐい去ることのできない不信感を抱くようになったのである。
しかし、義光の謀略はもっと辛辣であった。義光は庄内侵攻に先立って、伊達領内を攪乱するために伊達氏の麾下の豪族鮎貝宗信を調略し、政宗に反抗させようとした。鮎貝の地は山形より米沢に通じる要衝であり、鮎貝氏の謀叛は伊達氏を驚かせた。かくして、義光は庄内に侵攻し、一時的ながら庄内三郡を掌中にすることができた。しかし、この手のこんだ謀略は伊達政宗との対立を決定的なものとした。
天正十六年正月、大崎合戦が起り、政宗は留守政景と泉田重光を大将として大崎に兵を進めた。大崎氏は最上氏の本家であり、義光の室は大崎氏から嫁いできたものであった。義光は大崎氏を支援すするため、救援に乗り出した。合戦は伊達氏の優勢のままに推移し、大崎氏も潰滅するかと思われたが、結果は伊達軍の散々な敗戦となった。
伊達氏の敗戦をみた義光は、奥州諸将らによびかけて大崎、葦名、二階堂、白河、相馬を連ねる反伊達戦線をたて、常陸の佐竹氏をもひきこんで、政宗包囲体制をつくりあげたのである。義光と伊達政宗とは戦闘状態に入り、伊達軍は中山口から最上領内に襲撃をかけた。政宗は有力武将を南北に派遣して、葦名・佐竹氏、大崎氏らに当たらせた。そして、それらの虚をに乗じて義光が米沢に攻撃をかけてくることを懸念していた。しかし、最上氏と伊達氏の実力差は隔絶していて最上氏のみでは伊達氏と戦うことはできなかった。政宗も最終的な勝利は伊達勢が得るものと固く信じていたようだ。
最上氏と伊達氏の決定的対立は避けられない状況とみられたとき、一女性の力によって決戦は回避されたのである。その女性とは義姫であった。義姫は政宗にとって実母であり、義光にとっては妹にあたっていた。義姫は最上・伊達の両軍が対峙して一触即発の状態にある場所に、みずから駕篭を乗り入れ割込んでしまった。これには両軍、まったく閉口し、それぞれ退去することを要求したが、義姫は断固これを拒否した。この間、義光も政宗もそれぞれ敵がおり、対峙を続けるわけにはいかなかった。とくに、義光は庄内奪回を企図して侵攻を続ける本庄繁長に対処する必要に迫られていた。ついに、義光は政宗との和議を決意した。しかし、義光は反正政宗連合の首謀者であり、大崎・葦名・相馬氏らに対する義理もあり、政宗と講和することは武将としての面目は丸つぶれであった。そして、これにより伊達包囲陣は分散してしまし、伊達政宗の勢力拡大はもう防止しきれなくなったのである。
庄内の戦い
義光が伊達氏との戦いに忙殺され、庄内経営をなおざりにしている間に、庄内は大変な状況に陥っていた。それは、義勝の実父本庄繁長の庄内侵攻であった。義光は庄内経営を東禅寺氏に任せていた。義光にすれば、みずからの直臣をもって庄内経営を行いたかったであろうが、義光と庄内諸将との間には、強固な主従関係は成立していず、領国体制も確立していなかった。一方で、上杉氏を悩ましていた新発田氏の乱は景勝によって鎮圧され、本庄繁長の背後を脅かしていた脅威は去った。天正十六年、繁長は大軍を率いて本格的に庄内に侵攻したのである。庄内の国人らは武藤氏に心服していたわけではなく、また、東禅寺氏の対しても同様であった。それだけに圧倒的優勢な越後軍が庄内に侵攻してくると、国人らは本庄方に内通する者が続出した。
義光にしても越後勢の反撃があることは予期していたが、伊達氏と対立していたことに加えて、まったく油断をして庄内国人らの動きのも深く意をとめず事態を楽観していた。そして、庄内防衛は中山玄蕃・東禅寺筑前守らに任せきりで援軍も送っていなかった。謀略のかたまりのような義光にしては、まさに油断をしきっていたとしかいいようがないものであった。越後勢を率いた本庄繁長は破竹の勢いで進撃し、迎え撃つ最上軍と十五里ケ原で激突した。この合戦で中山玄蕃・東禅寺筑前守らは大敗、最上方の勢力は庄内から一掃された。この敗戦によって、仙北の小野寺氏を圧迫しつつあった義光の戦略も水泡に帰し、由利十二頭らも義光から離れていき、由利郡における義光の権勢も一挙に瓦解した。
その後、義光は葦名氏や佐竹氏らと謀って、成長著しい伊達政宗を包囲する戦略をとったが、天正十七年(1589)大崎氏は伊達氏と和解し、葦名氏も摺上原の合戦における敗北によって崩れ、義光の企図した政宗包囲網はまったく潰滅した。逆に最上は完全に包囲され、義光は孤立してしまったのである。ここに義光は戦国大名として危殆におちいったが、結局翌十八年の小田原参陣ということによって窮地を脱することができた。義光は父義守の死もあって参陣に遅れたが、徳川家康の執りなしで事なきをえた。
豊臣秀吉の小田原の陣は関東はもとより、東北の諸大名の存亡に大きな影響をもたらした。すなわち小田原参陣に対する政治判断は、諸大名のその後の運命を決するものともなった。小田原落城後、秀吉は黒川城に入り「奥州仕置」を行った。その結果、出羽では最上・戸沢・秋田氏らがそのまま本領を安堵されており、小田原陣に参じなかった陸奥の大崎義隆・葛西晴信・白河義親らの諸大名はいずれも所領を没収され没落の運命となった。その後、奥州仕置で改易された大崎・葛西の旧臣らが、太閤検地に反対して各地に蜂起した。義光はいち早く仙北に出兵して湯沢城を落した。この戦功によって、仙北の上浦郡十三万石を加増された。
天正十九年、九戸政実討伐のため下向した徳川家康を大森に迎え、二男家親を近侍として召し仕えることを家康に依頼。また。九戸征伐の帰途、山形城に立ち寄った豊臣秀次に、娘の駒姫を侍妾とすることを約束している。以後、最上氏は豊臣大名の一員として、文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては手兵を率いて肥前名護屋の陣に赴いた。翌年、豊臣秀次が高野山に追放されて切腹を命じられた。そして秀次の妻妾ら三十余人が処刑された。義光の娘駒子(お今の局)もその一人であった。義光は娘の助命を嘆願したが許されなかったばかりか、義光も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受けた。このときは、徳川家康のとりなしで許され、以後、義光の気持ちは豊臣方から徳川方に傾くことになる。
関ヶ原の合戦
慶長三年(1598)、一世の英雄豊臣秀吉が死去した。秀吉の死後、豊臣政権の五大老一の実力者である徳川家康と五奉行一の実力者石田三成の対立が次第に深まっていった。しかし、五大老の一人で家康と実力が伯仲していた前田利家が存命だった間は、対立は顕在化することはなかった。ところが、慶長四年に前田利家が死去すると事態は大きく展開した。
豊臣政権下では文治派と武断派が対立していて、輛はの対立を煽っていたのが、すなわち徳川家康であった。武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政らは三成の襲撃を企て、それを事前に察知した三成は家康の屋敷に逃げ込んだ。家康はこれを好機として、三成をその居城である佐和山城に謹慎させた。そして、伏見城に入り、他の五大老が国元に帰っていることをいいことに思うまま権勢をふるうようになった。
この事態に石田三成は、家康排斥の計画をめぐらした。このとき、上杉景勝の執政直江兼続がその謀議に加担したといわれている。一方、家康は国元に帰っている五大老の面々に秀頼へ拝謁のために上洛するように命じた。しかし、これを上杉景勝は拒否し続けたばかりか、領内の整備に努めたのである。このとき、家康の詰問に対して直江兼続が認めた返書は「直江状」として有名なものである。この上杉氏の態度をみた家康は、慶長五年(1600)五月、上杉景勝を討伐する決意を固め、最上義光を山形に急ぎ帰らせ上杉氏に備えさせた。この上杉征伐は、大坂を留守にした間に石田三成が反家康の挙兵をすることを企図したもので、家康は本気で上杉氏を征伐するつもりであったのかは疑問である。
そして七月、小山まで進出した家康は石田三成挙兵の報を受け、急ぎ軍を返して西上した。これをみた上杉家の執政直江兼続は、景勝に家康軍追撃を進言したというが、受け入れられなかったという。そして、西の石田三成と連動して軍を起こし、最上氏を征討するため村山郡に侵攻したのである。
長谷堂城の戦い
直江兼続の指揮する上杉軍の第一軍約二万余は狐越街道から一気に山形を突こうとし、第二軍約四千余は中山口から上山城に向かった。この直江軍の侵攻に対して最上義光は、上山城主里見民部に死守を命じ、援軍として草刈志摩守を派遣した。その一方で、長男義康を伊達政宗のもとに遣わして援兵を請わせ、政宗はこれに応えて留守政景を将として千二百の援兵を山形に派遣した。この援軍は実戦には参加しなかったが、最上軍の士気を鼓舞するには充分であった。
直江兼続の率いる第一軍は江口五兵衛の守る畑谷城を攻め落とし、山形城−長谷堂城−上山城の連絡を遮断した。ついで山麓の長谷堂城を包囲した。長谷堂城は、山形城の重要な防衛拠点であり、これさえ抜けば一挙に山形城を攻略することができる。長谷堂城の守将は、志村伊豆守則俊で決死の覚悟で防戦につとめた。義光は、楯岡光直や清水義親、鮭延秀綱に数千の兵を与えて救援に向かわせた。各地で凄惨な戦いが展開されたが、志村は直江軍を巧みに駆け引きして、上杉軍を悩ました。
なかでも、鮭延秀綱の活躍はめざましく、のちのちの語り草となったほどであった。『永慶軍記』の「長谷堂合戦 付鮭延働く事」の一節には「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」の一文がみえる。当時、直江は天下の名将とうたわれた人物である。他方、上杉軍の酒田城将志田義秀の庄内軍は最上川を遡って村山郡に進出、尾浦城主下吉忠も六十里越街道から進撃して山形城に迫ろうとした。
しかし、関ヶ原合戦における西軍の敗報を受けた直江兼続は、十月一日、撤退を開始した。ここで攻守は一変し、志村伊豆守は長谷堂城の手勢を率いて、義光の子義康や援軍の留守政景らと追撃戦を展開した。対する兼続は自ら殿軍となり、山間に伏兵を配し最上軍に反撃を加えながら、見事に兵を引き上げさせた。直江兼続の見事なまでの撤退戦を『最上記』は「直江山城、古今無双の兵なり」と記している。その後、義光は庄内に進撃して尾浦城を陥れ、さらに狩川・余目・藤島らを押さえて酒田城に迫ったが、積雪のために兵をひいた。翌年六月、再び庄内に出兵して酒田城を陥れ、さらに横手城まで攻め落とすなど抜け目なく戦果を拡大した。
近世大名、最上氏
関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)八月、義光は戦功を賞されて、田川・櫛引・飽海・由利の四郡を加増され、念願の庄内全域を入手し、五十七万石の大大名となった。『最上義光分限帳』によれば、惣高七十五万四千石、ほかに新田二万七千石とある。そして、領内の二十五城地に城将を配した。本堂豊前守の四万五千石を筆頭に、志村九郎兵衛三万石、大山内膳正二万七千石、寒河江肥前守二万七千石、清水大蔵大夫二万七三百石など、小大名に等しい知行を有する家臣が領内に配備されたことになる。
慶長八年(1603)、義光は長男義康に高野山に上ることを命じ、途中庄内において義康を討ちとらせた。これは、義光が家督を譲るのが遅いことに義康が不満を抱き、日頃父子の間が悪化していたためだという。しかし、徳川家への人質として家康に近侍し「一字」を賜った二男家親に家督を譲る方が最上氏にとって有利になると判断した結果、長男義康の存在が邪魔になったものであろうと思われる。かくして義光は家親を後嗣と定めたのである。
慶長十六年、義光は左近衛権少将に任じられた。翌年、病をおして叙任の礼と今生の暇乞いのため家康に会うため、駿府に赴いた。また江戸城に参上して、将軍秀忠に謁して山形に返った。そして、慶長十九年正月二十四日、六十九歳をもって卒去したのである。
義光のあとは家親が襲封したが元和三年(1617)急死した。家親の遺領は無事に子の義俊が継承したが十二歳の年少であったため、幕府は最上家臣に対して重要政務の取計らいについて指令していることが注目される。これは、家親の死に暗殺や毒殺などの噂があり、家臣等の対立抗争が危ぶまれていたためである。
最上氏の没落
最上家当主となった義俊は若年のため家中の統轄ができず、しかも酒色にふけり家臣らの諌めにも耳をかさなかった。そのため、家臣の多くは義俊を廃して叔父にあたる山辺義忠を立てようとする動きが強まった。これに対して、重臣の一人松根光広は義俊が正統であることを主張し、家中は二派に分かれて激しく対立、結局、これが最上氏の命取りとなった。
重臣らはいずれも万石前後の知行を有するものが多く、抗争が武力をもっての闘争になれば、最上領内は収拾のつかない内乱となることは必至であった。そして、ついに元和八年(1622)義俊は家中争乱を理由に所領を没収され、近江に移されて一万石を改めて宛行われた。その後、さらに五千石に削られ高家に列なり家名だけは残った。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
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丹波
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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