美作菅家党
星梅鉢/梅鉢*
(菅原氏後裔)
*「岡山の家紋」の小林さんから御教示いただきました。
|
|
菅原氏は天照大神の第二子天穂日命を祖とし、野見宿禰は垂仁天皇の御代に土師連の姓を賜っている。
宇庭は阿波守、安人は和泉国秋篠に住んで、丹波・備前・備中の守などを歴任した。桓武天皇の侍講をつとめた古人は、
遠江守従五位下に任じられた。古人は大和国菅原里に住んでいたことから菅原朝臣を賜り菅原氏の祖となった。
その子清公は遣唐使となって三度も入唐して嵯峨・仁明両天皇の侍講をつとめ、文章院を建て従二位にまで昇進した。
是善は文徳・清和天皇の侍講をつとめた文章博士で、従二位に叙せられ、文徳実録の勅撰、貞観格式の撰などに関わった。
このように菅原氏は古代の学者の家系であり、学問の神様、天神様として有名な菅原道真は、こういう環境に生まれた。
かれは遣唐使として大陸に渡り、学問はもとより政治感覚も持ち合わせていたことで、権大納言右大将、従二位と
朝廷内の地位もどんどん上っていった。これが藤原氏の不安をよび、五十七歳の時に讒言によって太宰府に流罪となり、
無念のまま配所で世を去った。しかし、道真の死後、都では様々な事件が多発し、それらは道真の祟りと畏れられ、
道真は左大臣正一位、太政大臣と位階を上げられて復権した。
美作菅家党の誕生
道真の復権をうけて、子孫は文章博士、侍講となり学者一門として続くことになった。のちに高辻・東防城・
西防城・唐橋などの諸家が分出している。菅原氏が美作と関係をもったのは、道真の曾孫資忠の次男良正が正暦年中に
遁世して美作国勝田郡香爐寺に移り住んだことによるという。良正から数代を経た知頼は美作守となり、在職中に作州勝田郡で死去。その子真兼は都に帰らないまま押領使となって作州に住み着き、美作菅党の祖となった。
知頼から四代、満祐は三穂太郎と号した。かれには多くの男子があり、それぞれ有元(在本)・広戸・福光・
植月・原田・鷹取・江見という諸氏が分かれた。これを併せて菅家七流と称されて、有元氏を嫡流とする
作州の名門となった。とはいえ、七流の分かれ出た代に関しては異論もある。先の説では七人を兄弟とするが、
四代の間に分出したとする説もある。さらには、満祐を知頼から六代とする系図もある。
いずれにしても、美作菅家党各家の出自に関しては、菅公の後裔とはしながらも、確実な系譜はないというのが
実状といえようか。ちなみに、有元の名字の起こりは、名木山の麓(元)に有るところから付けられたと伝えている。
美作菅家党が世に出たのは、元弘三年(1333)、有元佐弘は弟佐光・佐吉をはじめ菅家一族三百余騎と共に
伯耆国船上山で後醍醐天皇に拝し、都に上って北条軍と戦ったときである。兄弟三人と一族の多くが京都猪熊の合戦で
討死したことは、太平記にも記されている。佐弘の子佐延は久米郡垪和村に住んで芳賀(はが)氏を名乗り、
孫の佐常は下神目村に住んで菅納左近と称し、菅(かん)氏をの祖となった。室町期には国衙代官に補任されるなど、
赤松氏に属しながら、美作国の有力国人の一家として美作東部に勢力を持った。
・右図:
美作−武将・城址分布
美作菅家党、諸流
菅家七流のうち、広戸氏は勝田郡広戸を苗字の地とし、佐友の子頼氏は京都四条で討死し、その子佐家は足利尊氏に従い、奈義仙城を築いたという。子孫は赤松氏に属して、郡内の所々に城を構えながら、延文年間には広戸美作守・同左近将監らが勝賀茂郷・稲岡南荘などに進出していったことが知られる。因幡守弘家は奈義仙城で討死した。その子弘吉は岡本新三郎といい、豊臣秀吉に従った。文禄元年(1592)筑後耳山において陣没したと伝える。
植月氏は勝田郡植月村に住み、宮山に城砦を築いたことに始まる。公興の孫重佐は、宗家有元氏に従って四条で討死した。その子重長以降赤松氏に属し、のち左馬助佐可のときに尼子経久に仕え、孫重秋は宇喜多直家に仕えた。重教のとき関ヶ原の合戦とが起こり、戦後宇喜多氏は没落、重教は浪人となり、その孫の代に森氏の家臣となったという。
江見氏は江見荘を苗字の地とし、美作の有力国人となった。平氏の有力家人として、室山・屋島の合戦で活躍。南北朝の内乱では、はじめ宗家とともに後醍醐天皇方についたが、のち尊氏方に翻意し、赤松氏の被官として台頭した。室町期には、吉野保・林野保などに違乱をするなど美作東部に勢力を振るった。一族には、室町幕府奉公衆などになるものもいた。戦国期には毛利氏の傘下に入った。
原田氏は勝田郡原田郷を苗字の地とした。長亨ころ、原田彦四郎が弓削荘末国名代官職に関与していたことが知られている。また、元弘三年の京都四条猪隈の合戦には、佐秀が参加している。
美作菅家党は後醍醐天皇の挙兵に応じて、宗家有元兄弟をはじめとして一族の多くが戦死、建武の新政の樹立に尽くしたことで名を顕わした。その後は、武家方に属し、やがて一族の多くは赤松氏に仕え、それぞれの家がそれぞれの道を歩んだ。
●有元氏
●広戸氏
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
|