有元氏
星梅鉢/梅鉢*
菅原氏後裔
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美作国(岡山県北部)の中世武家に菅原道真を祖とする美作菅家党と呼ばれる武士団があった。
菅原氏は天穂日命より出た古代豪族土師氏の一族で、相撲の元祖とされる野見宿禰の子孫と伝えている。
同じ土師氏の流れをくむ大江氏と並ぶ古代の学者の家系であり、大江氏は「江家」、菅原氏は「菅家」と称された。
平安時代のはじめを生きた菅原清公は、桓武天皇以下五代の朝廷に仕え、その子是善は当代一の文人として称された。
是善の三男に生まれたのが道真で、遣唐使として大陸に渡り新知識を招来、
宇多天皇の信任を得て出世階段を昇り続けた。そして、醍醐天皇を藤原時平とともに補佐して右大臣へと登りつめた。
しかし、道真の出頭ぶりに危惧をいだいた時平らの讒言によって失脚、
太宰府に流された道真は都に帰ることなく異郷の地で客死したのであった。
道真の死後、都では様々な異変が頻発し、讒言をなした時平ら藤原一門の人々が次々と病死した。
それらは道真の祟りと畏れられ、道真は左大臣正一位、太政大臣と位階を上げられて復権した。
道真の復権をうけて、子孫も官途に復し文章博士、侍講など学者一門として存続した。のちに、高辻、東防城、西防城、唐橋などの公家諸氏が分出し、高辻氏から分かれた五条氏は相撲の司家となったことは有名である。
菅原氏が美作と関係をもったのは、道真の曾孫資忠の次男良正が正暦年中(990〜995)に遁世して美作国勝田郡
香爐寺に移り住んだことに始まるという。良正から数代を経た知頼は美作守となり、在職中に作州勝田郡で死去した。
その子真兼は都に帰らないまま押領使となって作州に住み着き、美作菅党の祖になったのだという。
知頼から四代満祐(満佐・満資)は三穂太郎と号し、蛇女房の母から生まれたという出生譚を持つ伝説的人物である。
満祐には多くの男子があり、それぞれ有元(在本)、広戸、福光、植月、原田、鷹取、江見という名字を名乗り菅家七流と称された。さらに、皆木・豊田・粟井・福元・梶並・前原・菅納などの名字が分出し、有元氏を嫡流とする美作菅家党と称される武士団となった。とはいうものの、菅家党諸氏の出自に関しては異論もあり、おそらく異姓の武士たちが姻戚などを通じて同族化したものと考えられる。
通説によれば菅家七流の祖は兄弟であったとするが、数代のあいだに分出したとする説もある。さらには、
系図によって満祐(満資とも)を知頼四代の孫仲頼の子とするもの、曾孫とするものなどがある。いずれにしても、
美作家菅党各家の出自に関しては、菅公の後裔とはしながらも、確実な系譜はないというのが実状といえようか。
ちなみに、有元の名字の起こりは、名木(奈岐・那岐)山の麓(元)に有るところから付けられたと伝えている。
有元氏の興亡
有元氏と美作菅家党が史上にあらわれるのは、鎌倉時代末期の元弘の争乱においてである。『太平記』には、
元弘三年(1333)有元佐弘は弟佐光・佐吉をはじめとした菅家一族、近藤・江見・平田・垪和・渋谷ら美作の武士と共に伯耆国船上山で後醍醐天皇に拝し、総勢一千五百余人、うち騎馬武者三百余騎が都に上って北条軍と戦ったと記されている。そして、四月三日の京都猪熊の合戦で有元兄弟三人と菅家一族、郎党の多くが奮戦のすえに討死した。
鎌倉幕府が滅亡したのち建武の新政が開始されたが、新政権に不満をもった武士達の輿望を集めた足利尊氏の謀反によって新政は崩壊、南北朝の動乱時代を迎えた。佐弘の死後、吉野郡小房城、大見丈城にあった嫡男の佐顕は赤松氏の麾下に属し尊氏方として行動した。そして、尊氏が九州落ちをしたとき、播磨では白旗城に拠った赤松一族、美作では佐顕ら菅家一族が 奈義能仙、菩提寺城に拠って官軍と対峙した。『太平記』には美作に進攻した新田軍の江田兵部大輔らが奈義能仙、菩提寺城を攻撃、敗れた菅家一族は城から逃れ去ったとある。
その後、尊氏が京を制圧すると佐顕らは菩提寺城に復帰したが、南朝に通じた山名時氏の美作侵攻にさらされることになる。正平十六年(1361=延文六年)、美作に兵を進めた山名氏によって、菩提寺城をはじめ大見丈城、名木仙ら菅家一族の諸城は陥落、有元佐久は佐用美濃守とともに倉懸城に立て籠もって抵抗した。しかし、倉懸城も落城して有元氏ら菅家一族は山名氏に降り、以後、美作では山名氏と赤松氏の抗争が繰り返され、美作の武士たちは山名と赤松の間を揺れ動いた。
菩提寺城を本拠として動乱の時代を生き抜き室町時代を迎えた有元氏は、小吉野庄への進出を図るようになった。
遠江守佐氏は河内山城に拠り、さらに中嶋の西ヶ坪城へと移住したが、福本和泉守との合戦で討死した。
孫の佐綱(佐則)の代には、大別当城を本拠として近郷十二ヶ村を領有する勢力であった。
戦国時代を迎えると山名氏・赤松氏らは勢力を後退させ、代わって出雲の尼子氏の勢力が美作に及んでくるように
なった。これに対して、美作菅家党の矢櫃城主広戸因幡守は抗戦して討死、有元氏らは尼子氏に帰服したようだ。その尼子氏も安芸から勃興した毛利氏に滅ぼされ、毛利氏の勢力が備中から美作へと伸びてきた。有元氏系図を見ると佐則は「天正六年、毛利氏の為に亡ぼされる」と記されている。おそらく、佐則は尼子家再興を目論む尼子党に属し、尼子勝久と共に播州上月城に籠もって戦死したようだ。佐則の戦死後、子の佐明は乳母に懐かれて備前児島に逃れ、宇喜多家老臣岡越前守、安東徳兵衛等の援助をうけ、後には戸川肥後守の取り次ぎで宇喜多秀家に仕えた。こういう生い立ちがあることから、佐明は安東徳兵衛の子であると書いたものもあるようだ。佐明の弟佐有は高円村に分家して、東と称して続いたといわれる。
・右図:
美作−武将・城址分布
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【大別当城】
美作と因幡の境目に聳える那岐山から派生した大別当山に築かれた城で大見丈城とも呼ばれ、
有元氏代々の本城であった。『美作古城史』などでは大別当城と大見丈城とは別城としているが、最近では能仙城、
大見丈城、那岐(奈木)城、そして大別当城は一つの城郭とみなされているようだ。山城が拠点として定着するのは、
戦国時代のことであり、それ以前は状況(戦況)に応じて城砦を構えており、有元氏の場合、大別当城も含んだ
那岐山城郭群に拠ったという表現が的確かと思われる。
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落穂拾い
佐明の子佐政は宇喜多秀家に従って関ヶ原の戦に出陣したが、敗れた宇喜多氏は没落し、尼子氏に次いで
敗戦組に属する結果となった。戦国時代における運不運は、その後の江戸時代における封建的身分に大きく影響した。
有元氏は武士を捨てて野に下り、慶長八年(1603)、森忠政が津山に入封したとき国中に不穏な動きがあるのを
察知してこれを押さえ森家の入国を助けた。この功により寛永二年(1625)に国中の大庄屋を取りまとめる大庄屋頭に任命され、
以後その職を世襲して有元家は存続した。
余談ながら、有元佐弘とともに京都猪熊で討死した弟佐光の子孫は赤松氏に仕え、久春に至って豊臣秀吉に仕えた。
その曾孫久英は丹後宮津藩の中老となった。また、佐弘の子佐延は久米郡垪和村に住んで芳賀(はが)氏を名乗り、
孫の佐常は下神目村に住んで菅納左近と称し、菅(かん)氏をの祖となった。室町期には国衙代官に補任されるなど、
赤松氏に属しながら美作における有力国人の一として美作東部に勢力を張った。 加えて、
現内閣総理大臣(2011年3月現在)菅直人氏も美作菅家党の後裔だという。
・2011年3月14日
【参考資料:美作古城史・系図研究の基礎知識・岡山県史・日本城郭体系 など】
●美作菅家党
■広戸氏
■参考略系図
・美作古城史・尊卑分脈・古代氏族系譜集成・
ごさんべーさんのHP などから作成。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城に登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生き様を体感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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