上総酒井氏
三つ巴*
(清和源氏土岐氏一族?)
*長倉追罰記に「上総の境はともえ」とみえる。 |
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戦国時代の上総国の強豪として、土気・東金の両城に割拠した酒井氏がいた。上総の酒井氏としては、千葉介胤正の二男常秀が上総国武射郡境村(山武郡成東町境)を領して境を称したことが知られている。『吾妻鏡』にみえる酒井氏はこの千葉氏系境氏のことと思われ、土気・東金城主の「酒井氏」は常秀の子孫だという説もある。しかし、上総酒井氏の出自については、新田氏説(家康の家老・酒井忠次と同じ)、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、そして土岐氏説などがあり一定しない。いずれも一長一短があって、これと断言できるものがないというのが実状である。
千葉介胤正――境常秀――秀胤
(平次) (上総権介)
とはいえ、土気・東金の両酒井氏の祖は清伝入道定隆(貞隆)というのが定説で、『土気古城再興伝来記』には「定隆は智勇兼はれる文武の達人なり。元は遠江国の住人にして、御一門に従い其の時の公方足利義尚公に御奉公なさる。されども御知行少知なる事を無念に思し召され、関八州を心掛け、房総の地に赴いた」とされる。そして、安房の里見氏の援助を得て、下総中野に城を築き、長享二年(1478)土気城へ移ったと伝えられる。一方、旧記の多くは文明十年(1478)の境根原合戦、同十一年の臼井城の合戦に際して千葉孝胤・原胤房に与力し、原氏の勢力を背景として土気城に進出したとしている。
酒井氏の上総入部
酒井定隆が房総に入ったころの関東は、鎌倉公方と上杉=幕府方とが合戦を繰り返していた。すなわち、享徳三年(1454)、鎌倉公方足利成氏が管領上杉憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発し、関東は戦国時代の様相を見せていた。この享徳の乱に際して下総千葉氏の嫡流千葉介胤直は上杉方に加わり、成氏方に加担した一族の馬加康胤と戦い敗れて自害した。以後、下総は古河公方足利成氏と馬加康胤によって実質支配されていた。
古河公方に対する関東管領上杉方は康胤の一族、千葉実胤・自胤を市川城に入れて成氏・馬加勢に対抗させた。この事態に将軍足利義政は、康正元年(1455)千葉実胤・自胤を支援する形で、東下野守常縁を下総国に派遣したが、このとき副将として同行したのが土岐一族の浜式部少輔春利であった。常縁らは下総に入ると千葉(馬加)康胤を討ち取り、浜春利は上総国東金城に入り土気城主も兼ねた。この後、東金を中心に勢力を広げた春利が「治敏」を名乗り、浜を改め酒井を称したと伝わる。そして、治敏の子が定隆で房総酒井氏の祖になったとされる。
ちなみに春利の兄・浜豊後守康慶は上総国浜を所領としていた。さらに、土岐氏と千葉氏の関係を『土岐氏系図』に探れば土岐光定の母が千葉介頼胤の娘とある。しかし、その子に浜氏の祖という「教国」なる人物は見当たらないが、「秀成」なる人物が「信濃・常陸・上総の土岐氏の祖」と紹介されている。さらに『千葉大系図』によれば、千葉介胤綱の娘が「土岐光行の妻で光定の母」と記されており千葉氏と土岐氏は何らかのかたちで血縁関係があったものと推測される。
ところで、上総酒井氏の家紋は「三つ巴」として知られる。上杉謙信が記録させた『関東幕注文』にみえる酒井氏の幕紋は「鐙のかく巴」とあり、『寛政重修諸家譜』に収録された旗本酒井氏の家紋も「三つ巴」である。家紋から見る限り、酒井氏を土岐氏の後裔とする説はうなづけない。すなわち、土岐氏の家紋は「桔梗」として有名で、一族はこぞって桔梗紋を使用した。万喜城主の土岐氏、江戸崎城主の土岐氏も「桔梗」を用い、土岐一族といわれる明智光秀も桔梗紋であった。もし、酒井氏が土岐氏の分かれであったならば「桔梗」を紋に用いたものと考えられるのである。
ところで丹波の酒井氏も「巴」を用いたことが知られ、酒井氏出自説の一つである波多野氏は藤原秀郷流で、秀郷流諸氏は「巴」を用いる家が多い。家紋から見るかぎり、上総酒井氏は丹波酒井氏と同族と思われ秀郷流波多野氏の分かれとも想像される。また、徳川幕府が編纂した『寛政重修諸家』譜に記された酒井氏の出自は、波多野氏流松田氏となっている。いずれが真実かは、いまとなっては詮索不可能というしかないようだ。
二流に分かれる
酒井氏の祖である定隆は鎌倉公方成氏に仕え、享徳の乱によって成氏が鎌倉を失って下総古河に移るとこれに従ったが、文明年間(1469〜86)に古河城に去って安房に赴き、里見義実に援助を頼んだ。その一方で、下総小弓城主の原氏にも頼んでその配下となり、中野の砦を守ることになった。
このころ、下総の千葉氏、原氏、上総の武田氏、安房の里見氏らはみな古河公方に仕えており、酒井定隆の中野入城はスムーズであったことと思われる。そして、文明十年(1478)も境根合戦、翌十一年の臼井城攻防戦に原氏を応援して出陣、これらの功によって定隆は土気古城を再興して城主になった。かくして、上総に拠点を築いた定隆は、大永五年(1521)、嫡子の定治に土気城と家督を譲り、みずからは三男の隆敏とともに東金に移った。以後、酒井氏は東金と土気の二流に分かれた。
ところで、酒井氏の祖となった定隆は安房に下向する途次、暴風雨の船中において日奉上人と出会い、その影響を受けて仏門の弟子になったといわれる。日奉上人は日蓮宗妙満寺派の高僧で、土気城主となった定隆は日奉上人を招いて本寿寺を建立し、領内すべての寺院に「改宗令」を発して、日奉上人の指導する「顕本法華宗」に改宗させたという。これが、世に「東上総の七里法華」と称される有名な定隆の宗教政策である。
定隆が入った東金城は東常縁とともに関東に下向してきた浜利が居城としていたが、文明元年に常縁が美濃に帰ってのちも、春利は東国に残ったようだがその後の動向は分からない。先述のように、この春利が治敏を名乗りその子が定隆だとする説もある。それを信じるとすれば、定隆は遠江から関東に下ったという説は虚構となり、さらに東金城主でありながら中野城主となり、ついで、土気城主となり、さらに父春利(治敏)が城主であった東金城主に入ったということになる。
ありえない話ではないが不自然といわざるをえず、ここらへんにも酒井氏の出自に関する謎が顔を出しているといえよう。そして、「東金市史」によれば、本家にあたる土気酒井を長男の定治が庶子ながら継ぎ、本来、嫡子たる三男の隆敏が東金酒井氏を継いだ。そして、この嫡庶の順逆がのちに両家が対立することになる原因になったのだと記している。
関東の戦乱
十六世紀になると、世の中は本格的な戦国時代となり、小田原城を本拠とする後北条氏が勢力を拡大し、それに対抗するかたちで安房の里見氏が上総に勢力を伸ばしていた。このころの上総には土気・東金の両酒井氏、それに真里谷・庁南の両武田氏らが割拠していた。
武田氏は下総小弓城主の原氏と国境紛争がこじれて抗争状態となり、合戦のたびに敗北を喫した武田氏は古河公方政氏の子で奥州を放浪していた義明を大将に迎え、里見氏ら上総勢の応援を得て、永正十四年(1517)小弓城を攻め落とした。翌永正十五年、義明は小弓城に移り、「小弓御所」と称されるようになった。以後、小弓御所義明は古河公方たる兄高基と対峙し、それが古河公方を支援する後北条氏と小弓御所を応援する里見氏ら上総・安房勢との抗争に発展していった。
天文三年(1534)、小弓義明の勘気を蒙って武田信保が憤死したことから武田氏に内訌が生じ、それが原因となって公方義明と里見義堯連合軍と北条氏綱とのの対立が決定的となり、天文七年(1538)十月、第一次国府台合戦へと事態は推移していった。第一次国府台合戦に際して、土気の酒井定治は里見義堯の配下として参陣、小弓御所足利義明に属したが敗北。このとき、東金の酒井敏房は殿をつとめて退却したことが知られている。
国府台の合戦は後北条氏が勝利したとはいえ、滅亡した小弓御所以外の里見氏ら房総勢は無傷とはいえないが、打撃は最小限のものであったようだ。逆にいえば、目の上のたんこぶとでもいうべき小弓御所が排除されたことで、里見氏は勢力拡大の機会を掴みえたのである。酒井氏も決定的打撃を被るまでにはいたらなかったが、小弓城主として復活した原氏と直接まみえる状態となった。
国府台の合戦に敗れたものの、里見義堯は着々と勢力を回復し、上総・下総への侵攻体制を整えると後北条氏と小競り合いを繰り返した。そのような天文十四年、北条氏康は両上杉氏・古河公方連合軍が後北条方の河越城を攻撃したが、北条氏康の奇襲によって壊滅的敗北を喫し、関東の政治地図はまったく塗り替えられてしまった。天文十六年、東金酒井敏房は千葉氏と結んで里見氏を攻撃していることから、東金酒井氏が後北条方に属していたようだ。ついで天文二十二年、東金酒井敏房は千葉親胤に従って、上杉謙信(このころは長尾景虎であったが謙信で統一)の軍と武蔵村岡河原で戦って敗れたことが伝えられている。
翌二十三年、北条氏康は義弟の北条綱成とともに大軍を率いて、里見氏の本拠である久留里城を急襲した。これに対して里見義堯・義弘父子は応戦につとめ、激戦のすえに後北条軍を撃退した。この勝利によって里見氏は後北条「何する者ぞ」との気概を四隣に見せつけたのである。一敗地にまみれた北条氏康は、翌弘治元年(1555)にも久留里城を攻めたが、戦果を得ることは出来なかった。
さらに、里見氏は後北条氏と対抗するため、関東管領上杉憲政を庇護する長尾景虎に近づき天文二十三年(1554)四月に「房越同盟」を結んだ。そして、この房越同盟によって、景虎は関東に出陣してくることになる。しかし、甲斐の武田信玄との抗争もあって、景虎が関東に出陣してきたのは永禄三年(1560)の秋のことであった。
第二次国府台の合戦
このように里見氏の威勢が上がってくると、それは酒井氏にも影響を及ぼさざるを得なかった。すなわち、酒井氏は里見氏に対する敵対関係を改めざるをえず、天文二十三年の久留里城の戦いには里見勢に味方して戦っている。このころの土気城主酒井玄治は後北条氏に属していたが、里見氏とも手を切ることは出来ず代将を送っている。そして、東金城主酒井敏房は里見勢に味方して出陣したのである。おそらく、里見氏・後北条氏という強豪にはさまれた両酒井氏は、打ち合わせをして里見・後北条両方に顔が立つようにお茶を濁したのであろう。第一次国府台の合戦後、下総・上総は後北条氏に支配されたとされるが、それは両地域の諸将を完全に屈服させるまでには至っていなかったようだ。とくに上総の場合は里見氏と近いところでもあり、後北条領国化はもとより、それぞれの同盟関係も不安定な状態にあった。
永禄三年、関東に出陣してきた上杉謙信は北関東を席巻すると、厩橋城で越年し、翌年春には十一万の軍勢を率いて小田原城を包囲、攻撃した。その後、囲みを解いて鎌倉に入ると、関東管領職の就任式を行い、上杉政虎と名乗った。以後、関東は上杉謙信と後北条氏との対立を軸に戦いが展開されるのである。
永禄六年、上杉謙信の要請で上総・安房勢を率いて出陣した里見義堯・義弘父子は岩付城主太田資正と結んで後北条氏との決戦を行おうと作戦を練った。そして、後北条方の太田資康を味方に引き入れて、下総国府台に後北条軍を迎えて一気に叩き潰そうと目論んだ。ところがこの作戦は後北条方に漏れ、松山城にいた北条氏康は、小田城攻撃中の謙信が動けないうちに短期決戦をもって里見・太田連合軍を撃破せんと国府台に進出してきた。こうして、永禄七年正月、両軍は国府台で激突したのである。
この戦いに土気の胤治は後北条方として出陣したが、戦後「不忠之仁」と疑われたので、後北条氏と別れて里見氏と結んだという。国府台合戦における酒井氏の動向を「東金市史」では、両酒井氏は里見勢に加担したが、戦場に遅れて到着し合戦には間に合わなかった。両酒井氏は里見・後北条のいずれにつくかの決心が容易につかず、出陣が遅れてしまった結果、戦場に赴く途中で里見・太田連合軍の敗北を知り、敗走する連合軍を救うことに決し追撃する後北条勢を阻止する挙に出た。
東金酒井氏は台地に拠り、土気酒井氏は海浜にわたって後北条勢を待ち受けた。それを見た後北条勢は酒井勢を侮って強硬突破に出たが、酒井勢は頑強に抵抗し乱戦となった。この戦いで土気酒井氏の重臣若菜豊前が戦死し胤治も戦傷を負ったが、陣を堅守して後北条勢の進攻を阻止することに成功したとしている。この記述の通りとすれば、酒井氏は「不忠之仁」と決めつけらてもいたしかたのないことといえよう。以後、当然のことながら酒井氏は後北条氏から睨まれることになる。
一方、敗走する里見氏を追った後北条軍は椎津城、池和田城、小糸城を落して上総高根郷まで進み、里見氏の本城である久留里城近くまで進出した。しかし、背後に上杉謙信軍があったことから、占領した諸城に守兵を入れて軍を引き上げた。
後北条氏の土気城攻撃
後北条氏は里見氏に味方した土気酒井氏に降服を勧告したが、酒井胤治はこれに従わなかったため、永禄八年二月、北条氏康は氏政を大将に臼井城主原胤貞と臼井衆、東金城主の酒井胤房・政辰父子を差し向け土気城攻撃を開始した。
後北条軍の攻撃に対して、胤治は籠城策を採り「臼井衆原弥太郎以下、五十余人討捕候」の攻防戦を展開した。さらに、後北条方となった東金の酒井政辰が攻め寄せ「宗徒百余人討捕候」の勝利をおさめるなど有利に戦局を展開した。しかし、里見氏からの援兵はなく、書状をもって越後の上杉謙信の老臣河田長親に救援を求めている。そのなかで、胤治は後北条氏と戦うに至った心情を吐露している。それによれば、「いままで後北条氏に忠節を尽してきたが、国府台の合戦に不忠だといわれ、無理難題をいいかけれらたので里見氏に味方して、里見義堯父子を相守る。」といっている。あえて巨人ともいうべき後北条勢と対決しようというのである。
悲壮な決意のなか、胤治と康治の父子は果敢に対抗した。この戦いには後北条氏の軍勢は参加していず、いわば両酒井氏の同士討ちという側面もあり、また、援軍を頼めない土気酒井氏は必死の覚悟で頑強に抵抗を続けたため、長陣を嫌った氏政は囲みを解いて兵を引き上げた。この土気城の戦いのことは酒井氏関係の諸記録には伝えられていず、河田文書の胤治書状から世に知られるようになった。おそらく、両酒井氏が戦ったことをはばかって記録から抹消したものであろう。とはいえ、土気酒井氏は後北条氏の攻撃を退けたことで、意気は揚がり、胤治の名声はおおいに上がったことと想像される。
こうして、土気の酒井氏は里見氏の配下に属して、上杉謙信方となり後北条氏と対決した。これに対する後北条氏の軍事的報復は熾烈を極め、天正二年(1574)九月、同三年八月と立て続けに酒井氏への攻撃が続いた。そして、同四年八月、後北条氏の大軍が両総の地に侵攻、土気・東金の両城も包囲されて、頼みの里見氏からの援軍も来ず、ついに酒井氏は後北条氏へ降伏するにいたった。ここに、後北条氏による東上総の支配が確立した。以後、両酒井氏は後北条氏に属して、対里見作戦の先鋒として行動することになる。
戦国時代の終焉
その後も上杉謙信の関東出陣は続き、各地で後北条氏との戦いが繰り広げられた。しかし、永禄九年ごろになると由良氏の上杉陣営からの離反などもあって、次第に後北条方の優勢となり天正二年(1574)の関東出陣を最後に上杉謙信の越山は絶えた。
このころになると時代は急展開を見せ、天正元年に武田信玄が死去し、三年には織田信長・徳川家康連合軍が三河長篠で武田騎馬軍団に潰滅的打撃を与え、天正六年三月には、謙信が関東出陣を諸将に陣ぶれした直後に急病となり帰らぬ人となった。その後、越後は家督争いが起り上杉氏も大きく勢力を後退させた。そして、天正十年、織田軍が甲斐に侵攻し、敗れた武田勝頼は自害して武田氏は滅亡した。ところが同年六月、織田信長が本能寺の変で横死してしまった。まさに、時代は激変を続けていた。
信長後の中央政界では柴田勝家を賎ヶ岳で倒した羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、信長の事業を継承して天下統一事業を急ピッチで押し進めた。天正十五年、九州の島津氏を降して西国を平定した豊臣秀吉は小田原北条氏に上洛を進めたが、北条氏はそれを無視した。天正十七年にも、秀吉は上洛を命じたがそれにも応じなかったため、ついに小田原征伐の陣ぶれを行った。それを知った後北条氏は領国の諸城を整備し、配下の諸将に小田原への動員令を下した。土気酒井康治と東金酒井政辰はこれに応じて小田原城へ参陣した。土気酒井は三百騎、東金酒井は百五十騎で併せて四百五十騎であった。
両酒井氏の出兵数は意外に少ないものに感じられるが、土気・東金の両酒井氏とも留守城に守兵を置き、さらに里見氏の北上に備える兵も配備したことから、小田原に送る兵にもおのずと限界があったというところだろう。そして、小田原に入った酒井勢は、千葉重胤とともに北条氏邦軍に属して早川口を守備したという。しかし、合戦がはじまったのちの酒井勢の働きについては不明である。
小田原に籠城した後北条氏に対して、秀吉軍は北条方の支城をしらみつぶしに落していき、下総・上総方面の後北条方諸城には秀吉の部将浅野長政に徳川家康の部将本多忠勝らが加わった一万数千の軍勢が向かった。後北条氏は豊臣軍に対して籠城戦を展開したが、七月に至って質量的に圧倒的な豊臣軍の前に降伏し小田原城は開城となった。これによって、土気・東金城以下、東上総の諸城は浅野弾正少弼らによって接収された。
酒井氏の没落
かくして、後北条氏に与した土気・東金の両酒井氏は居城・所領を収公され、没落の憂き目となった。土気の伯耆守康治は土気領に帰り旧臣であった若菜氏の屋敷に入居、のち山辺郡中次村に草庵を結び、慶長十三年に病没した。東金の左衛門佐政辰は、帰国して東金城に入ったが、追われて北野幸谷の妙徳寺に蟄居、慶長八年、不遇のまま世を去った。
その後、土気・東金の両酒井氏の子息は、徳川氏に召し出され、旗本として知行地を与えられている。『寛政重修諸家譜』によれば、文禄元年(1591)土気の重治・直治兄弟が家康に拝謁、東金の政成・政次も召し出され、それぞれ旗本に列したとある。重治は、のちに大番となり、元和元年(1615)大坂の役に際し、阿部正次の組下に属して「首二級を得たり」の軍功をあげ、寛永七年に没した。以後、両酒井氏は徳川家旗本として存続したのである。
『千葉氏の一族』
を管理されている柴田聡司樣より下記のような御教示をいただきました。
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酒井氏の出自については、酒井氏の菩提寺・土気善勝寺の位牌・墓石には、「藤原」「藤原朝臣」と記されていて、酒井氏の遺臣の家に伝わる過去帳の中でも、「酒井越中守藤原定隆」と記されていて、酒井家では、出自は藤原氏とされていたようです。家紋は、秀郷流藤原氏ということで、「三ツ巴紋」とされ、土気酒井家は「左三ツ巴」、東金酒井家は「右三ツ巴」を用いていたそうです。実際のところは、酒井氏の出自は不明です。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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