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京極氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 京極氏は近江源氏として知られる佐々木氏の一族で、戦国時代、嫡流の佐々木六角氏と並んで近江を二分する勢力があった。 そもそも佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子 扶義を養子とし、扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住して佐々木氏を称したのが始まりといわれる。
 平安末期の秀義は平治の乱に源義朝に属し、以来、源氏とのつながりを密接にした。しかし、平治の乱で源氏が 没落すると、秀義は世を隠れて関東の地に雌伏し、伊豆に流された源頼朝のもとに出仕していたようだ。やがて、 源頼朝が平家打倒の兵を挙げると息子たちとともに参陣、 その後の源平合戦において佐々木一族は大活躍を演じた。鎌倉幕が府成立すると、各地の守護職に補されて一大勢力を 築きあげたのであった。承久三年(1221)、承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは 後鳥羽上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。

京極氏の発展

 仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人の息子に分割された。長男の重綱は 坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。 そして、三男泰綱が宗家を継いで近江守護職に任じ、近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗った。 四男氏信は近江北六郡と京極高辻にあった館を与えられて京極氏を名乗ったのである。 兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、 近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制しようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
 大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の江北六郡を相続した氏信は、北条氏と 三浦氏が対立した宝治合戦(1247)において兄泰綱とともに北条氏に味方して活躍、鎌倉幕府の引付衆・評定衆をつとめ 近江守に補任された。そして、近江守護職に任じられた兄泰綱が京で活躍するのとは対象的に、鎌倉を活動の拠点に していた。氏信のあとは四男の宗綱が継承し、在京御家人として左衛門尉・検非違使・能登守を歴任し、 一方で有力東国御家人として引付衆・評定衆など幕府重職を歴任した。さらに、北条得宗家との関係も強化するなどして、 惣領六角氏から独立した御家人としての地位を築き上げていった。
 宗綱には数人の男子があったが、三男の貞宗が家督を継承した。ところが、貞宗は北条宗方の乱において戦没して しまったため、甥で女婿の佐々木宗氏の子高氏を養子に迎えたのである。高氏は兄の貞氏とともに幕府に重用され、 名乗りの「高」は執権北条高時から一字を貰ったものであった。嘉暦元年(1326)、北条高時が出家すると高氏は兄貞氏と ともに出家、導誉と名乗った。やがて、後醍醐天皇の倒幕活動によって世の中が騒がしくなり元弘の変が起ると、 導誉は兄とともに幕府方として行動、加地・隠岐・大原らの佐々木一族とともに兵を率いて上洛した。そして、 隠岐に流されていた後醍醐天皇が名和氏に迎えられて船上山に兵を挙げると、その追討を命じられて出陣したが、 敗れて天皇方に降伏したのである。
 建武の新政が始まると、導誉兄弟は雑訴決断所に出仕した。しかし、建武の新政は時代錯誤な施策が目立ち 恩賞沙汰も不手際が多く、幕府討伐に活躍した武士の多くは新政に不満と失望を募らせていった。やがて、中先代の乱が起ると、足利尊氏は 天皇の許しをえないまま鎮圧のために出陣、その陣に導誉も従軍して東下した。そして、鎌倉に居座った尊氏の進退を 疑った天皇が討伐軍を派遣すると、上杉憲房・細川和氏とともに逡巡する尊氏の尻を叩いて新政への謀反を 勧めたのであった。かくして、尊氏は討伐軍を箱根に破ると、その勢いで京に駆け登り、時代は南北朝の動乱へと 推移していくことになる。

京極導誉の活躍

 以後、導誉は足利尊氏に仕えて足利幕府の創業に尽力、政所執事・評定衆・引付頭人など幕府要職を歴任した。 さらに、建武五年(1338)には嫡流六角氏に代わって近江守護職に補任された。幕府の重鎮となった導誉は政略武略に 長けた人物であっただけに、傲慢な振る舞いが多く婆裟羅大名と呼ばれた。暦応三年(1340)、嫡男秀綱の郎党が 天台宗の門跡寺院である妙法院の紅葉を折ったことから、父子は比叡山と抗争となり、あろうことか妙法院を 焼き討ちにしてしまった。この暴挙に対しては幕府も捨ててはおかず、父子は出羽・陸奥への配流処分となった。 ところが、導誉は若党に「猿皮の腰当」を付けさせて出立、道中に遊女を呼んで宴を開くという物見遊山の体で、 処分そのものもうやむやとなってしまった。婆裟羅大名導誉の面目躍如といったところである。
 足利尊氏の弟直義と執事高師直との対立から観応の擾乱が起ると、南朝は導誉に対して足利尊氏・義詮父子、直義らの討伐を命じた。導誉の力が足利氏に劣らぬものとして、南朝方に認められていたことが分かる。その後、尊氏父子が南朝方に降伏して正平の一統がなり、導誉は尊氏父子と結んで直義らの討伐にあたり、義詮から政所執事に任じられるなどその立場は磐石のものとなった。
 導誉には三人の男子がいたが、嫡男の近江守秀綱は正平七年(1352)の南朝方の戦いにおいて近江堅田で戦死、 二男の秀宗はそれより先の貞和元年(1348)に大和水越で戦死していた。さらに、秀綱の子で孫にあたる秀詮・氏詮の 兄弟が康安二年(1362)に摂津渡辺で討死してしまった。導誉一族の足利将軍家に対する奉公は、他家にぬきんでるもの があった。そして、秀綱らの活躍もあって、導誉は近江守護職のほかに出雲・上総・飛騨の守護職を兼帯し、京極氏の勢力は それらの地域にも浸透していったのである。
 導誉の次女は斯波氏頼に嫁いでいたことから、氏頼が幕府管領に推されたときこれを支持したが、氏頼は管領職就任を 断ったため弟の義将が管領となった。斯波氏よりの導誉であったが、義将の父である高経が専横を振るうようになると、 長女の婿でもある赤松則祐らと結んで高経引き下しに動き高経を幕府内から退去させることに成功している。
 文字通り、乱世を奔放に生きた導誉は応安六年八月、近江国犬上郡甲良庄の勝楽寺で七十八年の生涯を閉じた。導誉が みずからの寿像に記した自賛には「貞心を堅持し、道徳を積むことを心がけ、風雅と兵馬の道にいそしみ云々」とある ように、その実像は意外に真面目で律儀な人物だったようにみえる。それは、足利尊氏・義詮父子を凌ぐ力を 有しながらも、かれらを裏切ることなく幕府の確立に努めたことからもうかがわれる。導誉のあとは三男の高秀が 継いだが、すでに評定衆に列しており、さらに侍所頭人にも任じられた。かくして、京極氏は室町幕府における四職家の一に 数えられる有力守護大名となったのである。
………
・京極導誉肖像(京都国立博物館:勝楽寺所蔵)


幕府重職の地位を堅守

 高秀は侍所頭人をつとめ、飛騨・出雲の守護職にも任じられた。また、長男の高経は六角氏頼の養子となって 近江守護職に任じられ、二男の満秀が京極氏の後継者となって、高経・満秀ともに幕府に出仕をしていた。まさに 京極氏は順風満帆であった。ところが、出雲守護職をめぐって山名氏との対立が表面化、さらに管領職をめぐる細川家と 斯波家の対立から生じた康暦の政変(1379)に巻き込まれた。高秀と満秀は失脚、出雲・飛騨守護職も失ってしまった。 さらに、長男の高詮も六角氏から追放となり近江守護職を解任されていた。翌年、細川頼之が失脚したことで、 高秀は赦されて幕閣に復活し、飛騨守護にも返り咲いている。
 高秀が没したのち、家督を継いだのは長男の高詮であった。高詮は山名氏が起こした明徳の乱に活躍し、 その功により出雲と隠岐の守護職に補任され、ついで侍所頭人に任じられて山城守護も兼帯した。そして、応永六年の 応永の乱にも奮戦、戦後、石見守護職を与えられた。しかし、応永の乱においては、弟で先に高秀の後継の立場にあった 満秀が大内義弘に味方して滅亡した。満秀にすれば自分が京極氏の家督になるところを、 兄高詮にさらわれた不満があったのであろう。ともあれ、高詮は失っていた諸職を回復、出雲・隠岐・飛騨の守護職は 京極氏が世襲するところとなった。
 高詮のあとは嫡男の高光が継いだが生来の病弱であったため、弟の高数が兄の代役を務めることが多かった。 応永十八年(1411)、飛騨国司姉小路氏が兵を挙げると、高光に代わって高数が出陣して鎮圧に功があった。 高光が病死すると持高が家督を継いだが、若年であったため高数が後見をつとめ、侍所頭人、山城守護職にも任じられた。 持高が子をなさないまま早世すると、ときの将軍足利義教は高数を京極氏の家督とした。高数はひとかどの人物で、 先の将軍足利義持にも重用されたが、義教も高数を寵遇したのであった。ところが、嘉吉元年(1441)、赤松満祐の招待を 受けた義教が赤松邸において殺害されるという事件が起こった。
 いわゆる嘉吉の乱であり、将軍義教に供奉していた高数は とばっちりをくらって闘死してしまった。高数には土岐氏から入った養子教久があったが、家臣らは教久を退けて 持高の弟持清を家督に迎えた。もっとも、すでに持清は永享のころより(1430ごろ)幕府奉公衆として出仕しており、 周囲からは高数の後継者と目されていたようだ。そして、事件ののち侍所頭人・山城守護職に任じられて 幕府に重きをなした。

乱世の予兆

 侍所頭人に就任してすぐ、「代初めの徳政」を求めて嘉吉の土一揆が起った。一揆には管領家畠山氏の被官が加わって いたり、管領の細川持之が土倉から賄賂をもらってその保護に動くなどしたため事態は混乱をきわめた。侍所頭人である 持清は京都に攻め込んできた一揆勢と清水坂で合戦、その鎮圧に活躍した。やがて幕府が徳政令を出したことで一揆は 終息したが、この一揆は土民と侮られていた土豪・農民の力を示し、幕府権力の弱体化をさらす結果となった。
 嘉吉の土一揆の蜂起は、佐々木氏惣領で近江守護職を務める六角満綱の「山門領」などの荘園への違乱、濫妨が きっかけであったことから満綱は守護職を解任され失脚した。六角氏の家督を継いだ持綱は荘園侵略を停止したため、 不満を募らせた被官たちは満綱の二男時綱をかついで持綱排斥に動いた。かくして、六角氏は満綱・持綱父子派と 時綱派に分裂して対立、文安三年(1445)満綱・持綱父子は自殺に追い込まれてしまった。
 六角氏の内訌に対して幕府は傍観の立場であったが、細川勝元が管領に就任すると事態は急変、勝元は時綱らを 謀反人とみなして、相国寺の僧であった弟を還俗させると六角氏の家督を継承させた。六角久頼であり、 勝元は京極持清に久頼を支援させ、時綱の討伐を命じたのである。時綱の自殺によって六角氏の内紛は収束したが、 六角氏の支配体制は大きく動揺した。一方、事態の収拾に活躍した持清は、六角氏と並ぶ守護施行権を与えられ、 惣領家をしのぐ勢力を持つにいたった。一方の久頼にしてみれば庶子家である京極氏の干渉を受けることは、 大きな屈辱であり、ついにその憤懣が高じたものか自害してしまったのである。
 久頼には幼子の亀寿丸(のち高頼)がいたが、家督は従兄弟で時綱の子政堯が継ぎ近江守護職となった。しかし、 政堯は守護代伊庭氏と対立するなど家中の統制に失敗、六角氏は動揺を続けたのである。そのようななかの 応仁元年(1467)、京で応仁の乱が勃発した。京極持清は細川勝元に味方して東軍の中心勢力となり、六角氏は亀寿丸を 立てて西軍方に属して、六角氏と京極氏の対立はさらに深刻化していった。
 京極持清は嫡男の勝秀とともに飛騨・出雲・隠岐の国人を動員して活躍、六角高頼を諸処の戦いに破り、近江における 覇権を確立していった。ところが、応仁二年(1468)、観音寺城に高頼を攻めていた勝秀が三十三歳の若さで陣没すると いう不幸に見舞われた。持清は勝秀の子孫童子丸を家督に決めると三男政経をその後見に定め、みずからは京極氏の 惣領として活躍、文明元年(1469)、六角政堯に代わって近江守護職に任じられた。実に、京極導誉以来の守護職就任であったが、その翌年、六十四歳を一期として持清は世を去った。
 ところで、応仁の乱末期のころに成立したという『見聞諸家紋』を見ると、佐々木大膳大夫入道生観がみえ 「隅立四つ目結」の紋が収録されている。入道生観は 持清その人で、佐々木氏惣領の紋を用いていたことが知られる。

泥沼化する内訌

 持清のあとは孫の孫童子丸が家督を継ぎ、所領・所職を安堵され、出雲・隠岐・飛騨・近江の守護職に任じられた。 しかし、京極氏家中では孫童子丸を後見する政経と多賀高忠派と、それに反対して弟の乙童子(持清末子ともいう、 のち高清を名乗る)を擁立しようとする京極政光と多賀清直派に分裂、対立するようになった。ところが、文明三年、 孫童子丸が早世、幕府は政経を京極氏家督にした。対して乙童子・政光派は西軍に走って内訌は泥沼化し、六角氏と 結んだ政光が政経を圧迫していった。文明四年、政光が病没したのちは、高清と政経の間で抗争が繰り返された。 文明十三年に至って政経と高清と講和がなり、政経は分国出雲に下っていった。
 かくして高清体制が確立したかにみえたが、幕府は政経の子材宗を侍所頭人に任じ、多賀高忠を所司代にすえ、 旧西軍勢力でもある京極高清の排斥に動いた。政経・材宗父子は足利義尚の六角征伐にも従軍、近江守護職にも 返り咲いた。しかし、国人勢力の統制に失敗すると、幕府は高清を京極氏家督にして政経らを圧迫した。ところが、 将軍義稙が明応の政変で失脚すると、政経は六角氏の支援をえて近江に復帰、対する高清は美濃守護代斎藤利国と結んで これに対抗した。なんとも目まぐるしい事態の転変であり、あさましくも不毛な権力抗争であった。
 結局、抗争に疲れた政経はふたたび出雲に下り、近江に残った材宗が高清と抗争を続けたが、永正二年(1505)に 高清と和睦、半世紀にわたった京極氏の内訌は終息した。それから三年後の永正五年、材宗は高清によって自殺に 追い込まれて滅亡した。ここに京極氏は永年の内訌から解放されたかにみえたが、今度は高清の子高広(高延)と 高慶(高佳、一説に材宗の二男ともいう)の間で家督をめぐる争いが表面化してきた。その背景には、台頭著しい 国人領主らの思惑が絡んでいた。京極氏の内訌は、配下の国人領主たちの自立をうながし、みずからの足元を揺さぶる 下剋上を醸成していたのであった。
 京極高清を支えていたのは上坂家信で、よく家政を総攬していた。大永二年(1522)、家信が没して信光が上坂氏の 当主になると、京極氏の家督争いと相俟って、国人領主らが一揆を結んで信光排斥に出た。そして、翌大永三年、 京極高清の後継者を決める会議が行われた。高清と上坂信光は二男の高慶を推し、浅井亮政・今井越前らは長男の高広を 推した。その結果、高慶が家督に決まったが、おさまらない浅井亮政・三田村忠政・堀元積ら有力国人領主らは 浅見貞則を盟主として尾上城に集結、対する上坂信光はただちに兵を出して安養寺に陣を布いた。 一揆勢は安養寺を攻め、敗れた上坂軍は今浜城に退いて激戦を展開、 そこでも敗れた上坂勢は上平寺城に奔り、ついに信光は高清・高慶父子とともに尾張に落去していった。この一件は、 すでに京極氏がみずからの裁量で家督を決めることができない状況にあることを露呈した。
 この京極氏の内訌は、京極氏の系図を分かりにくいものとし、とくに持清から高清に至る間は諸系図によって 混乱がある。つまり、高清を勝秀の子とするか、持清の子として政経・政光の弟とするかという二説に整理される。 「寛政諸家譜」には「勝秀嫡男」という注記があり、そこらあたりが妥当なところかもしれない。ところが、 高清の二男高慶を材宗の二男を迎えたとする説もあり、戦国期における京極氏の系図はまことに複雑なものとなっている。

浅井氏の勃興と京極氏の没落

 一揆勢は高広を尾上城に迎えて新守護とし、国人一揆は成功したかにみえたが、今度は高広をみずからの居城に迎えた 浅見貞則が専横を振るうようになった。この事態に対して浅井亮政は小谷城を修築し、浅見に不満をもつ国人たちを 糾合し、着々と浅見打倒の計画を練った。そして、大永五年、軍事行動を起こすと浅見貞則を倒して国人一揆の盟主に おさまった。この江北の動きに対して六角定頼は敏感に反応、浅井亮政の勢力が大きくなるまえに叩き潰そうとした。 さしもの亮政も六角氏の攻撃にはひとたまりもなく敗れ、江北からいずこへともなく没落していった。
   翌年、江北に復帰した亮政は国人領主たちをふたたび糾合、六角氏の再三にわたる攻撃をしのぎながら、着実に地歩を 固め、大名権力を確立していった。一方、京極高広は否応なく傀儡と化し、不満を募らせた高広は六角氏に 通じて浅井亮政の打倒を計った。しかし、天文三年(1534)に高広と亮政は和睦し、浅井氏の居城小谷城において高広・ 高延父子と一族は盛大な饗応を受けた。以後、京極高広は小谷城の一角に築かれた京極丸を居所として、浅井氏の庇護の もとに歳月を送ったのである。
   浅井氏は亮政のあと久政、長政と続き、長政のとき六角氏との戦いを制して江北の戦国大名となった。 浅井長政は織田信長の妹を娶って同盟を結び、永禄十二年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の陣を起こすと、 兵を率いて従軍した。このとき、浅井氏のライバルであった佐々木六角氏は信長の上洛に抵抗、敗れて没落した。 長政は押しも押されもせぬ近江の戦国大名となったが、元亀元年(1570)、信長が越前朝倉氏を攻めると朝倉氏に味方して 信長から離反、同年六月、長政は朝倉氏と連合して織田・徳川連合軍と姉川で戦ったが敗戦を被った。 その後、朝倉氏、甲斐武田氏、本願寺らと結んで織田信長との戦いを続けたが、天正元年(1573)、 小谷城は織田軍の総攻撃を受けて落城、長政は自刃して浅井氏は滅亡した。その間、京極高広の動向は 詳らかではないが、長政が信長と袂を分かった元亀元年に隠居し、天正九年に没したと伝えられている。 そして、長政は高広を守護としては遇していなかったようだ。


小谷城址界隈

横山城址から小谷城址を遠望 ・浅井氏の城下町清水谷 ・小谷城址の京極丸


一方、京極氏が先祖代々の本拠であった江北を浅井氏に乗っ取られた頃、出雲国では一族で守護代をつとめていた 尼子氏が戦国大名化し、最盛期には中国を併呑する勢いをしめした。また、飛騨国では三木氏が勢力を拡大、 ついには江馬氏、姉小路氏らを倒して戦国大名となった。 しかし、尼子氏は毛利氏に敗れ去り、三木氏は秀吉に抗して滅亡した。まさに、驕れる者は久しからず、 世の栄枯盛衰を感じさせるところである。
  浅井亮政に追われた京極高慶は、結局、高広らと同様に小谷城に迎えられた。しかし、六角氏と結んで江北の回復を画策したがならず、将軍義輝が暗殺されたのち足利義昭の将軍擁立に働いたという。永禄十二年、織田信長が義昭を上洛すると、信長に仕えるようになったようだ。将軍義昭と信長とが対立するようになると、みずからは近江に隠居し子の高次を信長のもとに送っている。

戦国乱世を生き抜く

 信長に仕えた高次は、近江奥島五千石を与えられ小さいながらも京極氏の再興を果たした。天正十年六月、本能寺の変が起ると、妹婿の武田元明とともに明智光秀に味方して山アの合戦には長浜城を攻撃した。しかし、光秀が敗れたため没落の身となり諸国を流浪した。
   その後、武田元明に嫁いでいた妹が秀吉の側室となったことから、赦されて秀吉に仕えるようになり、近江高島郡に五千石を与えられた。以後、順調に出世を重ね、文禄四年(1595)には大津六万石を領する大名となった。しかし、その出世は秀吉側室であった妹と秀吉の寵愛を集めた淀殿の妹を正室に迎えていたことがあったとして、陰では蛍大名と揶揄されたという。
   慶長五年(1600)、徳川家康による会津攻めの陣がおこると、弟の高知をその陣に参加させた。ほどなく、 家康排斥の兵を挙げた石田三成からの誘いを受けた高次はおおいに動揺したようだが、最期は家康に味方して 大津城に籠城した。大津城は立花宗茂らを将とする四万ともいう大軍の攻撃を受け、果敢に抗戦したが、衆寡敵せず 降伏して園城寺で髪をおろした。しかし、高次の奮闘で立花宗茂らは関が原の合戦に参加することができず、結果として 東軍の勝利に大きく貢献したのであった。戦後、家康から若狭一国八万五千石と江高島郡の内に七千余石を与えられ、 京極氏は大名として近世に生き残ることができたのである。
 京極氏の見事な復活に比べて、本来、佐々木氏の嫡流であった六角氏はどうなったか。京極氏には およばないまでも、徳川旗本として生き残ったが嗣子なくして嫡流は途絶えた。両家の歴史をみたとき、 六角氏は佐々木氏嫡流の誇りがなしたのであろう自立の風(男性的な)があり、京極氏は体制に沿った 生き方(女性的な)であったように感じられる。 戦国時代における六角氏と京極氏の進退にはそれぞれの家の個性がよく出ており、 京極氏が家名をつないだ背景にはそのような家の個性も少なからず関係したように思われるがいかがだろうか。 ・2010年08月25日

参考資料:滋賀県各自治体史・室町幕府守護職家事典 [上]・日本の名族 [近畿編]・田中政三氏著「近江源氏」など】


江戸大名京極氏と一族の家紋
佐々木氏の場合、戦国末期に没落した六角氏が本来は嫡流で、 京極氏はもっとも嫡流に近い庶子家という家格であった。 そして、嫡流六角氏は「隅立四つ目結」紋を用い、庶子家の京極家は 「平四つ目結」を用いて嫡庶の区別は厳格になされていた。ところが、江戸時代になると 京極氏が佐々木氏の嫡流の扱いを受けるようになり、京極家の分家(庶子家)は 宗家をはばかって本来は嫡流の家紋であった「隅立目結」を用い、さらに嫡流から遠い 存在は「繋ぎ四つ目結」を用いるという風に、京極氏を中心とした家格付けで家紋の 区別がなされた。京極氏の目結紋は、家紋が変化する歴史をよく示したものといえよう。

・嫡流:若狭→松江→龍野→丸亀藩 ・高知流:宮津→田辺→豊岡藩
・丸亀藩支流:多度津藩
・宮津藩支流:峰山藩

六角氏の情報

■参考略系図




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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
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奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
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浅井氏の歴史を探る…
浅井氏

日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨備前/備中/美作鎮西常陸

篠山の山城に登る
安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、 鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が 全国に広まった時代でもあった。
もののふの時代 笹竜胆

2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
幕末志士の家紋
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篠山五十三次

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
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わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
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約12万あるといわれる日本の名字、 その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。 それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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