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朽木氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族である。佐々木氏は宇多天皇の後裔で、源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれる。佐々木秀義は平治の乱に源義朝に属したが、義朝が敗れたことで秀義は世を隠れて関東の地に雌伏した。その後、源頼朝の旗揚げに際して息子たちとともに馳せ参じ、佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府成立後、各地の守護職に補されて一大勢力を築きあげた。
 秀義の嫡男は定綱で、その子信綱は所領を四子に分割、長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。

朽木氏の発祥

 信綱の次男高信は高島氏を名乗り、泰信・頼綱・胤信らの男子があった。嫡男の泰信は高島氏を継ぎ、その三男師綱は平井村に住して平井氏を称した。高信次男の頼綱の長子頼信は横山に住して横山氏、次男の氏頼は田中に住して田中氏、そして三男の義綱は朽木に住して朽木氏を称したのである。そして、高信の三男胤信は永田城を築いて永田氏を称した。このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。
 朽木氏が起こった朽木庄は承久の乱に功のあった信綱が恩賞として賜った土地で、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれた。安曇川上流の渓谷に沿った谷盆地というところだが、京都に近いこともあって早くから開け、若狭と京都を結ぶ若狭街道が貫通する交通上の要衝としても重視されていた。
 若狭街道は、若狭小浜から近江今津までの九里半越、今津から京都まで合わせて二十五里の道程である。一方、保坂から朽木谷を経て途中、大原八瀬、京都へと通じる道は十八里というもので、北陸の海産物が京へ運ばれた。鯖街道といわれる所以で、京の文化もこの道を通って若狭に運ばれた。いまでこそ「陸の孤島」とよばれるが、かつては日本海の海産物、京都の文化が往来する先進地帯でもあった。
 高信から朽木庄を譲られた頼綱は、朽木谷の中心である市場に居館を構えた。ついで、朽木を譲渡された義綱も市場に住み、以後、市場が朽木氏代々の本拠となった。朽木氏は四方を山に囲まれた天然の要害であり、京文化と日本海の幸が往来する地の利を得た朽木谷を押えて中世を生き抜いたのである。
………
写真:靄に煙る朽木谷

南北朝の動乱

 朽木氏は近江朽木谷の本領のほかに、常陸国本木郷、陸奥国栗原郡板崎郷、越中国岡成名など各地に地頭職を有する典型的な鎌倉御家人でもあった。十四世紀のはじめ、鎌倉幕府に緩みが見えるようになると、後醍醐天皇の倒幕運動が起こされ、元弘三年(1333)、鎌倉幕府は滅亡した。建武元年(1334)、天皇親政による建武政権が成立したが、建武三年に足利尊氏が謀反を起こし新政はあっけなく崩壊した。
 幕府が滅亡したときの当主頼氏(経氏)は、いちはやく幕府を見限り、南北両朝の対立が起こると迷うことなく足利尊氏に属した。そして、京都三条河原で新田義貞率いる宮方と戦い、九州落ちする尊氏に従って兵庫まで出陣した。当時、佐々木氏の嫡流六角氏は旗幟が明確ではなく、尊氏に属した有力庶家の京極道誉が活躍した。
 建武五年、幕府は吉野を攻めるため京極道誉を派遣、道誉は朽木氏を通じて高島七頭の「高島郡軍勢」に出陣を要請した。庶流朽木氏では宗家にあたる高島氏らは動かなかったようで、道誉は朽木出羽四郎兵衛尉宛に脅し文句を連ねた催促状を送っている。とはいえ、尊氏に属した朽木氏の存在が高島七頭のなかで抜きんでたものであったことが知られる。一連の功によって朽木経氏は備前国野日保地頭職を与えられ、また経氏は池大納言頼盛の後裔謙顕盛の猶子になったことから、丹後国倉橋郷・相模国鎌倉甘縄・武蔵国比企郡などを譲られ、朽木氏の所領は日本各地に広がった。
 観応三年(1352)には、将軍足利義詮が佐々木経氏・氏秀父子にそれぞれ出陣を催促する御教書を送っている。御教書は普通宇のものの四分の一という料紙を用いた切紙の御教書といわれるもので、信頼を寄せる者にしか与えられなかったようで、朽木氏と足利氏との深い結びつきがうかがわれる。
 南北朝の動乱期、近江武士の多くは守護六角氏あるいは京極氏の指揮下に入っていたが、朽木氏はこれに属さず、幕府の命によって合戦のたびに指揮者と仰ぐ大将を代えていた。また、朽木氏ら田中・永田・越中・山崎・能登・横山の高島七頭の諸氏は将軍の近侍となり、義満の時代以後、守護六角氏から独立した存在であった。

戦国時代の序奏

 南北朝の争乱のなかで遠隔地の所領は次第に有名無実化していき、室町時代になると本拠の朽木を領するばかりとなっていった。将軍義政に仕えた貞高はその命を奉じて各地に出陣、朽木谷の支配を強化するとともに、その勢力を安曇川下流に広がる高島平野にまで及ぼすようになった。やがて、応仁元年(1467)応仁の乱が起こると、貞高・貞綱の父子は東軍に属して活躍、上洛することも多くなった。
 ところが、応仁の乱最中の文明三年(1471)、貞高が死去、翌年には貞綱も死去してしまった。貞綱の嫡子直親はまだ幼かったため、朽木氏はにわかに危機を迎えたが、貞綱の弟貞清が直親を援けて家政を総覧した。貞清は幕府に出仕し、将軍足利義尚の拝賀に供奉するなど朽木家を代表する人物として行動している。そして、長享元年(1487)、将軍義尚の六角高頼征伐にも出陣した。
 応仁の乱が終わったのち、佐々木六角高頼は寺社本所領を蚕食、さらには将軍直属の奉公衆の所領まで侵略して、勢力を着々と拡大していった。高頼の押妨に困った延暦寺や公卿、奉公衆らは将軍に困窮を訴えた。将軍権力の回復をめざす義尚はただちに出陣、佐々木六角攻めを行った。ところが、義尚は六角氏の撹乱戦術によって戦意を失い、ついには鉤の陣において病没してしまった。
 つぎの将軍義材も六角征伐を行い、朽木氏は本領の朽木庄をはじめ河上庄・針畑の庄などを安堵され義材から大きな期待を寄せられた。義材の攻撃をうけた高頼は甲賀に出奔、近江守護職は高島氏が任じられ、さらに六角氏の一族である山内就綱が任じられた。明応三年(1494)就綱は蠢動をつづける六角高頼を攻めたが、猛反撃にあって敗退、再起した六角高頼は近江における覇権を確立した。かくして、六角氏は戦国大名への道をひた走ることになり、明応五年(1496)には美濃国に出兵、国外への軍事行動を展開するようになった。
 高島七頭と六角氏との関係にも微妙な変化が生じ、朽木材秀(直親)は高頼に美濃出陣を祝って太刀を送り、これまでの対立関係を改める動きを示している。一方、高頼は材秀に出陣要請を行い、それは年を経るごとに度重なるようになり、次第に朽木氏は六角氏の支配下に組み込まれていった。そして、六角氏の高島郡に対する影響力も強化されていった。
………
写真:鉤の陣跡に経つ永正寺(滋賀県栗東市)

戦国時代の到来

 当時、幕府管領は畠山政長で、一族畠山義就と家督争いを起こして応仁の乱を引き起こした人物の一人であった。また、義尚死後に起こった将軍後継者問題のとき義材を推して将軍職に就けたのも政長であった。明応二年(1493)、政長は対立する畠山基家を討つため、将軍足利義材を伴って河内に出陣した。これを好機としたが細川政元で、先に将軍職に押して敗れた義澄を擁してクーデタを起こした。
 この明応の政変によって、戦国時代は幕を開けたとする説もあり、以後、幕府体制と将軍権力は衰退の一途をたどることになる。朽木材親は将軍義材に近い存在であったが、細川政元にも通じてみずからの保全につとめ、京を脱出した義材が越中、越前を流浪する情報を幕府に注進している。材親は京都近郊という難しいところにありながら、どちらに転んでも有利に対処できるように対処を怠りない世間巧者であった。
 永正三年(1506)、細川政元が家臣に暗殺されるという一大事件が起こった。政元の後継をめぐって家中が二分された結果で、以後、細川氏は家督をめぐる内訌が続き、畿内一円は戦乱の坩堝に叩き込まれていった。中国の大名大内義興のもとにあった前将軍義稙(義材)は政元の死を知ると、ただちに上洛の兵を起こした。このとき、細川氏は澄元が将軍義澄を擁して幕府を支えていたが、同族の高国が義稙に通じたため京を捨て近江に奔る結果となった。近江守護六角定頼は義澄を応援し、その後に起こる将軍足利氏・管領細川氏を軸とする戦乱のなかで、六角氏は一貫して将軍庇護の立場をとった。
 幕府が内訌で揺れている頃、近江では浅井亮政が台頭、京極氏に代わって湖北を押える一大勢力となっていた。大永五年(1525)、定頼は亮政を打つため江北に出陣、朽木稙綱がその先陣をつとめた。六角氏の大軍を前にした亮政は小谷城を捨てて美濃に遁走した。かくして、六角氏の武威はおおいにあがり、朽木氏ら高島七頭諸氏も定頼の旗下として行動した。
 大永七年、京都桂川の戦いで細川高国が敗戦、細川晴元が新たな権力者として登場した。高国は将軍義晴をかついで近江に走り、朽木谷の稙綱を頼り、さらに六角定頼の応援をたのんだ。将軍を迎え入れた稙綱は屋形を建て、高国と共同で庭園を作り、二年半にわたって義晴に庇護を与えた。そして、これまでの一連の功により将軍の御供衆に加えられ、これまで失っていた所領の多くを回復、近江国衆のなかで押しも押されもせぬ存在となった。
………
写真:数々の抗争の舞台となった如意ヶ嶽城(京都市岡崎から)

室町幕府の衰退

 享禄四年(1531)、摂津の戦いで細川高国が敗死、これを機に将軍義晴と晴元が接近するようになり、天文五年(1536)、義晴は京に迎えられ晴元が管領職に就いた。稙綱も在京奉公するようになり、義晴の申次衆・内談衆に加えられ、幕府と六角氏の取次ぎ役もつとめた。幕府は安泰を取り戻したかに見えたが、晴元の家臣三好長慶の登場で情勢は波乱含みとなった。天文八年、長慶が挙兵すると稙綱はただちに京に出兵、将軍義晴の警護につとめた。事態は六角定頼の調停で収まったが、前途は多難であった。
 そのようななかの天文十五年、義晴の嫡子義藤の元服の儀が日吉大社で行われ、稙綱は「打ち乱れハコ」の役を勤めた。のちに義藤が将軍職に就くと御供衆として活躍、同二十年、長慶との争いに敗れた義藤を朽木に迎えいれ庇護の手を加えた。稙綱の子供たちも側近として義藤に仕え、藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆をつとめ、朽木氏は一族をあげて流浪の将軍を支え続けたのである。近江守護六角定頼は六角氏中興の祖といわれるが、かれと行動をともにした稙綱もまた朽木氏中興の祖といわれる所以である。やがて、義藤と長慶の間に和議が成立して義藤は京に戻ったが、ほどなく両者は対立、天文二十二年、義藤はふたたび朽木谷へ逃れた。以後、義藤は永禄元年(1558)までの五年間にわたって朽木谷に滞在した。
 稙綱の嫡男晴綱は天文十九年(1549)、高島郡河上庄俵山において同族の高島越中守と戦い討死したようで、幼い晴綱の子元綱が家督となった。六角氏では定頼が死去して、嫡子の義賢が家督を継承していた。永禄元年、将軍義輝(義藤改め)は六角義賢の援けを受けて朽木を出陣、三好勢と対戦、和議が整い十一月の末に義輝は京に戻ることができた。翌年、二月に尾張から織田信長が上洛、四月には越後から長尾景と羅が上洛して、それぞれ義輝に拝謁している。義輝は反三好勢力を利用しながら将軍権力の回復に努め、その成果もあらわれつつあった永禄七年の夏、三好長慶が病死した。翌年、義輝の存在を嫌った松永久秀、三好三人衆らは二条城を襲い、義輝を殺害するという暴挙を起こした。ここに、幕府の復権は大きく頓挫してしまったのである。
 そのころ、近江では野良田表の合戦で六角氏を破り、織田信長の妹を娶って同名を結んだ浅井長政の台頭が著しかった。永禄十一年、足利義昭を奉じた織田信長のが上洛軍を起こすと、六角氏はその攻撃を受けてあっけなく没落してしまった。勢いをえた長政は高島郡への侵攻を開始、高島七頭の多くが浅井氏の支配下に入ったが一人朽木氏だけは独立を守った。翌年、三好三人衆が将軍義昭を襲撃すると、朽木元綱は兵を出して義昭のもとに駆けつけた。朽木氏の将軍に対する忠勤は変わることはなかったのである。

戦国時代の終焉

 元亀元年(1570)、朝倉攻めを開始した織田信長は破竹の勢いで越前に攻め込んだ。ところが友軍であるはずの浅井氏がにわかに朝倉氏に味方したため、織田軍は散々な敗北となった。信長は朽木谷を通って京に逃げ帰ったが、当時、朽木氏は必ずしも織田信長に心服していたわけではなかった。元綱は松永久秀の工作を入れて信長に味方したというが、将軍義昭を奉じる気持が信長に加担させた要因ではなかったか。いずれにしろ、以後、元綱は信長に属することに決めたようで、その後も続く乱世のなかでよく朽木谷を保った。

 
朽木氏、盛衰の跡を訪ねる


朽木稙綱が将軍足利義晴のために建てた館跡、宣綱のとき秀隣寺となった。秀隣寺が野尻に移転したあと興聖寺となり現在に至ったが、本殿、鐘楼などに朽木氏の「目結紋」が据えられている。境内には戦国時代に築かれたという庭園跡が遺され、遠く対岸の山々を借景とする佇まいが往時もかくやと思わせる。


●興聖寺を道路側から見上げる(左端)●江戸時代、朽木氏が所領支配の拠点とした朽木陣屋跡、唯一残った土塁の一部が歴史を物語っている。陣屋後方の西山山上には、戦国時代の詰めの城であった西山城址がある。

→ 西山城址に登る


 ところで、元亀以後、天正十一年ころまで朽木氏の動向は知られなくなるが、織田氏に属して行動していたのだろう。天正十年六月、本能寺の変で信長が殺害されると、山崎の合戦、賤ケ岳の合戦に勝利した豊臣秀吉が天下人になった。天正十二年、元綱は秀吉に仕えて朽木谷を安堵され、翌十二年の小田原攻めに出陣して、従五位下河内守に叙された。そして、伊勢国安濃郡の代官を命じられて安濃郡内に二千石の知行を与えられ、本領朽木と併せて一万石を領した。
 豊臣秀吉が死去したのち、豊臣政権は徳川家康と石田三成が対立、諸将も両派に分かれて情勢は険悪の一途をたどった。そして、慶長五年(1600)、関が原の合戦が起こると朽木元綱は西軍に属して出陣した。しかし、元綱は東軍の藤堂高虎、京極高知を介して内通を申し入れていた。合戦は西軍の敗北に終わり、元綱はなんとか旧領朽木を保つことができたのであった。慶長十九年(1614)、大坂の陣が起こると、元綱は老体に鞭打って嫡男の宣綱とともに出陣、翌年の夏の陣にも出陣、このとき宣綱は家康の本陣に入ったという。
 こうして、朽木氏は小さいながらも先祖累代の所領を守り、徳川政権下に生き残ることがきたのであった。江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名となった。この稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。

 
朽木氏の紋
福知山城の城跡に建つ、福知山朽木氏初代稙昌の父朽木稙綱を祀る朝暉(あさひ)神社。本殿前の門には、神紋として朽木家の定紋「隅立四つ目結」が据えられている。

・右:隅立四つ目結
・左:朝暉(あさひ)神社


【主な参考資料:今津町史・新旭町誌・福知山市史・西島太郎氏論文 など】



■参考略系図
・『尊卑分脈』をベースに各自治体史に紹介された朽木氏系図、「日本歴史」に発表された西島太郎氏の論文などを併せて作成。


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