熊谷直実の子直家が文治五年の奥州合戦に参加し、その功により本良庄の地頭職に補任された。その子直宗は、赤岩館を中心に気仙沼地方に勢力を伸張し、やがて本吉郡北方に支配権を拡大した。 以後、直宗の子石見守重鎮、その子左衛門尉直光、その子佐渡守直時と続いた。この間に、直光は「霜月の乱」に出陣している。また直光は、弟直遠を高良木、直則を八瀬、直忠を磐井に分立させ、次ぎの直時は弟の直能を寺崎、直景を松崎、直久を磐井中里に分立させている。このように熊谷氏の勢力は直光・直時の時代に着実に広がっていったことがうかがわれる。 建武三年(1336)、葛西陸奥守高清と千葉周防守行胤が本郡馬篭村で合戦に及んだとき、直時は千葉行胤を支援した。この戦で行胤軍は大敗し、熊谷直時及び一族六人が戦死し、熊谷氏の勢力は大きく後退することになった。直時の子弾正忠直明は、敗戦のあとも赤岩城を守り、葛西家の大軍と度々戦いてその勢に屈しなかった。貞治二年にいたり力尽き、ついに葛西家に降り、その支配下に入った。 その後、備中守直宗の代には、宇都宮氏討伐にも参陣し、戦功を重ねながら旧来の勢力圏を回復していったようだ。この時期、唐桑や横山、中館や岩月への庶子家分立が伝えられていることでもそれが推察される。続いて石見守信直、次いで弾正直茂と着実に勢力をのばし、次ぎの主計直定も、葛西氏に従って勢力を強固にしていった。 しかし、直定の子直景は葛西氏に背反し、弟の直光を先鋒とする葛西軍に討伐され、直光・直元・正勝らとともに直景は戦死した。こうして熊谷氏の棟梁権は直光に移った。さてこの戦はどうして起こったのかは謎が多く伝承にも矛盾が多い。この頃葛西氏は晴重から伊達系晴胤に移っていた、晴胤は旧勢力を払拭して、新家臣団編成をほぼ完了したばかりであった。従って、鎌倉以来の地頭であった熊谷氏の繁栄は好ましくなく、それを揺さぶるべく内訌を起こさせたと考えるのが一番自然なようだ。 以後、それぞれの時代にあって熊谷氏は葛西氏に属して活動している。そして元亀三年八月東山の黄海氏と嵯峨立氏が合戦におよんだ。熊谷氏は黄海氏と交流が深く、赤岩城主直秋の子直益や月館城主直澄の子直慶は黄海氏の娘を妻といしていた。その誼で熊谷氏は黄海氏を応援したが、黄海氏は大敗して熊谷父子は非業の死を遂げた。 幼い直春は叔父の直久に庇護されて成長したが、間もなく奥州仕置となり、葛西氏の没落とともに南部に逃れ、熊谷死は没落した。一族の多くは帰農したが、一族のなかには伊達氏に仕えたものもいる。 ・熊谷氏に戻る |