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河野氏
折敷に三文字
(越智氏流)


 河野氏は、ニギハヤヒ命の後裔越智氏から出ている。すなわち、文武天皇の時代に越智玉興が伊予大領となり、その弟玉澄が伊予国温泉郡(風早郡?)河野郷に住んで河野氏の祖になったという。その真偽は詳らかではないが、かなり古くから河野郷に根差した土着の氏族であったことは間違いない。
 天慶四年、藤原純友の乱に当たり、好方が純友を九州の博多に滅ぼして名を現わしている。以来、伊予水軍の将として知られるようになったという。
 河野氏が史上よくその名を現わすようになるのは、平安末期から鎌倉期である。治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵するや、それに呼応して、河野通清・通信父子が風早郡高縄山に兵を挙げた。そして、通信は源義経に従って平氏討滅の戦で各地に戦功をあげ、河野氏はその恩賞として所領を安堵され、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職を与えられた。義経の死後は頼朝に従い、大きな勢力基盤を形成するにいたった。
 しかし、承久の乱に際して、後鳥羽上皇に与した通政と幕府方に属した通久との二家に分かれて争っている。通政は、伊予高縄城で幕府軍を迎えたが攻め破られ、通久を除き、一族全ての所領を失った。
 その後、蒙古襲来の時、弘安四年(1281)弘安の役で、水軍を率いて活躍した通久の孫通有は河野氏の旧領を回復し、ふたたび河野氏は伊予での勢力を取り戻した。このころには、河野氏から分かれた得能氏・土居氏など一族が伊予国内に蟠居し、村上・来島氏らと瀬戸内水軍の覇を競うようになった。
 元弘・建武の争乱には、宗家通朝は足利尊氏に属したが、一族の得能氏・土居氏は新田義貞と行動を共にし、一族が二派に分かれることになったのである。そして、尊氏に従った通盛は伊予守護に補人されるまでに河野氏の勢力を拡大した。この通盛のときに、本城は温泉郷の湯築城に移され、以後、戦国末期まで続く河野氏の本拠となった。

争乱の時代と河野氏

 伊予国には最大勢力である河野氏のほかに、細川氏・宇都宮氏・西園寺氏、さらに大内氏や大友氏、戦国末期には長宗我部氏や毛利氏などの他国大名の介入などがあり、河野氏の安定した一国支配の時期はなかった。  たとえば、南北朝期には岩松氏、室町時代には細川氏らに、若干の時期とって代わられることもあった。このような、多少の興亡と紆余曲折を経ながらも守護職を世襲している。その間、文和三年(1354)には周防の守護職も得たこともあったが、すぐに大内氏にとって代わられている。とはいえ、河野氏が伊予を領国とする守護大名に成長していったことが知られる。
 しかし、東伊予には細川氏の支配が入り、つねに細川氏と対立関係におかれた河野氏は東伊予で不安定な状況を作り出した。さらに、細川・河野両家の対立のなか、宇摩・新居二郡の支配権を細川氏代官であった石川氏が独自に確立したりした。しかし、石川氏はその被官の金子氏に取って替わられ、金子氏は河野氏下の村上城に援助を求めるといった状況も呈した。
 応仁の乱では、伊予国内でもその勢力は二分され、河野宗家は細川氏との対立から河野氏は山名方の西軍に属し、一族で新居郡高外木城主の河野通春などは細川方に属し、河野家内でも内紛が生じた。応仁・文明の乱の鎮静化により、国人諸氏の対立も静まると、今度は細川氏の内訌が始まった。そんな時期、伊予国内は比較的安定をみせ、大内義興の上洛時には、伊予・讃岐の大方の国人は大内氏に従い、争いもおさまった。
 しかし、天文のころから、大内氏に対抗する豊後大友氏の台頭、大内氏滅亡後の毛利氏の勢力拡大などによって、比較的平穏であった、伊予国内の河野氏・宇都宮氏・西園寺氏三者の関係も微妙に変化していった。
 三者の対立、同盟関係は、その後楯勢力の影響によって、二転三転した。すなわち、大友氏が大内氏との対立で、河野・宇都宮が同盟を組むと、宇都宮氏と西園寺氏の対立に河野・大友氏は積極的に介入し、河野氏は宇都宮氏を後方支援し、大友氏は土佐一条氏との関係から西園寺氏を挟撃した。大内氏滅亡後毛利氏が台頭してくると、河野氏は毛利氏を後楯に宇都宮・大友氏と対立、西園寺氏と与して宇都宮氏に攻撃を加えた。
 その後、これらの対立は土佐国内を統一した長宗我部元親の進出によって、一本化されていった。当初、一条氏を後押しして伊予への介入をはかっていた元親であったが、天正二年(1574)元親は一条氏を豊後に追放した。翌年、大友宗隣の支援で帰国した一条軍と長宗我部軍が戦ったが、一条軍は壊滅的敗北をおった。
・写真:湯築城址


長宗我部元親の侵攻

 その後、元親は土佐の軍兵をもって、阿波・伊予に侵攻し、四国平定を目指した。本格的な長宗我部軍の侵攻は次第に伊予国人を臣従させていった。すなわち、天正九年(1581)七月、新居郡に権勢を誇った金子元宅が元親に款を通じ、同年高外木城主石川通清らの諸豪族も長宗我部氏に従うようになった。
 これに対して河野氏は毛利氏に支援を要請し、西園寺氏ら伊予国人と結集して長宗我部軍に対した。このため、一時長宗我部軍も撤兵を余儀なくされたが、ふたたび長宗我部軍の勢力は伊予に浸透し、天正十二年、西園寺氏をはじめ南伊予の諸将は降伏した。さらに、毛利氏が豊臣秀吉に接近したことで、河野毛利の親善関係もくずれ、結果、孤立した河野氏は遂に長宗我部氏の軍門に降り、四国全土はほぼ長宗我部氏の支配下に入った。以後、伊予国は長宗我部氏と秀吉・毛利との争奪地点になった。
 翌天正十三年、秀吉の四国征伐が行われ、これに対し河野通直も湯築城に籠った。六月、小早川隆景・吉川元長らは征討軍を率いて新居郡および越智郡に上陸した。毛利勢は、まず長宗我部氏の勢力圏である新居・宇摩両郡を攻撃し、ついで河野氏を征討することになった。隆景は新居郡における石川・金子両氏を破って西進し、越智郡に入った。
 小早川隆景の軍は風早郡の堅城を抜き、通直の拠る温泉郡湯築城を包囲した。隆景は城中の通直に書を送って降伏をすすめた。これに対して通直は湯築城を開城、恭順を示し、秀吉に降った。その後、通直は安芸竹原に移ったが、そこで病没し、河野氏は断絶した。一方、四国征伐の功によって、伊予国の新居・周敷・桑村・越智・風早などの十四郡は小早川隆景に与えられた。

●河野氏の家紋─考察

●城の写真は湯築城さまから転載させていただきました。深謝!


■参考略系図
 


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