伊東氏
庵に木瓜
(藤原南家為憲流)
伊東氏の家紋「庵に木瓜」は、草や木を結んで作った庵の中に木瓜を 組み合わせた意匠で伊東氏の専用紋といっていいものである。
伊東氏は藤原南家武智麿の後裔藤原維幾の後裔で、維幾は常陸介として東国に下向し平将門の追討(天慶の乱)に功があった。維幾の為憲は木工助に任じられたことから、官途の「工」と藤原氏の一字を合わせて工藤大夫と称した。為憲の孫維景は伊豆国狩野に住して狩野氏の祖となり、 その子維職が伊豆国田方郡伊東住し伊東氏の祖となったのである。
為憲が任じられた木工助は家屋建造修理を担当する役職であり、工藤氏・伊東氏らは職をイメージさせる庵と「木工」に音が通じる木瓜を組み合わせて家紋としたのである。先祖をシンボライズした家の印らしい由来を持った家紋といえよう。 工藤氏からは伊東氏をはじめ曽我・河津・安積らの諸氏が分出したが、いずれも「庵に木瓜」を用いた。
建久四年五月(1193)、源頼朝が行った富士の巻狩りにおいて父の仇を討った曾我十郎祐成・曾我五郎時致の兄弟も工藤一族で、家紋は「庵に木瓜」であったという。兄弟が父祐親の仇祐経の宿所を探すとき、みずからと同じ「庵に木瓜」の幕紋を目印にしたと伝えられている。「富士の仇討ち」で知られる事件だが、背後には幕府内の権力闘争があり、 どうも曽我兄弟は何者かにうまく踊らされたようで、祐経は気の毒な被害者のように思われる。
建武の新政をきっかけとして、伊東祐時は日向国都於郡の所領に移住し、先に日向に下っていた田島・門川・木脇氏らの庶子家、都於郡の四天衆と称される山田・荒武・津留・大脇氏らを従えて日向の一大勢力に成長した。田島氏らの庶子家もはじめは「庵に木瓜」紋を用いていたと思われるが、 のちに宗家をはばかって庵を外した木瓜紋を用いるようになったようだ。
伊東氏は「庵に木瓜」紋のほかに、「十曜」「九曜」「一文字」紋なども用いた。
「十曜」「九曜」紋は、中世に流行した妙見信仰からきたもので、千葉氏の代表紋として知られたものだ。伊東氏の家伝によれば、伊東祐時の母は千葉介常胤の娘であったことから、源頼朝の声がかりで「九曜」をもらったという。のちに、真ん中に月、周りに九曜を配した「十曜」紋も用いるようになった。「一文字」紋は、「戦陣一番乗り」意を込めた縁起のいい文字で、カツ(勝つ)とも読まれ、多くの武家で用いられた。なかでも、山内首藤氏、那須一族の代表紋として知られる。 伊東氏も文字の持つ意義を尊重して家紋に加えたのであろう。
【掲載家紋:十曜/九曜/一文字】
[毛利一族家伝]
■日向伊東氏
■伊豆伊東氏
■陸奥伊東氏
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