ヘッダイメージ



藤沢氏
●梶の葉
●諏訪神氏流  
・高遠市内の寺院でみかけた高遠氏の墓石に刻まれた家紋を参考とした。  


 戦国時代、信州伊那谷の福与城に拠って、武田氏に抵抗した藤沢氏の出自については二説がある。一つは、諏訪神氏の支流で、神氏から出て藤沢谷の地頭となって、その後勢力を伸ばして上伊那北部一帯を治めるに至ったとする説。もう一つは相模国藤沢の住人藤沢義親の一族藤沢行親が、建武の功によって足利尊氏から箕輪六郷を賜り、福与に城を構えたとする説とである。この二説がどのように関連しているかは詳らかではない。
 さて、『諏訪縁起絵詞』によれば、神氏は諏訪明神に奉仕して直系の当主は諏訪を出ることはほとんどなく、諸国の戦乱に際しては庶子あるいは一族の者を将として兵を出した。保元・平治の乱には祢津貞直・千野光弘・藤沢清親を遣わしたとあり、概ね源氏方であった。藤沢氏はのちに木曽義仲の挙兵に加勢したが、義仲が滅んだのち源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれてからは頼朝の御家人となって忠勤を励み重用されたという。
 藤沢氏の出自が神氏の支流というところに落ち着くのは、明治になって世に出た千野氏史料の系図によってである。同系図によれば、藤沢氏は諏訪社大祝有員を祖とする千野太夫光親の系統ということになる。すなわち、光親の子親貞(清貞)が藤沢神次を称し、その子が清親で伯父の光弘とともに保元・平治の乱に大祝の代官として出陣し、武功があったと記されている。

弓の名人、藤沢一族

 清親は弓の名人として名が高く、幕府の弓矢始めの行事の射手として幾度か命を受けていることが『吾妻鏡』に記載されている。そして、文治より仁治元年(1240)まで五十余年の間将軍家に仕え、初めは次郎清親と呼ばれ、のちには四郎清親と呼ばれたりとある。また、文治三年(1187)八月、「土佐国弓百張を献上す、二十張は営中に納蔵し、八十張は壮士に分給す。うち射手たる輩は三張を賜う。清親はその七人の一人なり」とみえ、ついで、建久四年(1196)四月の条に、「将軍が下野国那須野、信濃国三原等に狩倉、弓馬に達した狩猟の輩二十二人が選ばれた」とあり、そのなかに望月太郎重義、藤沢次郎清親の二人も選ばれ、武蔵国入間野における狩で「藤沢は百発百中、まれにみる弓の名人であると将軍より賞言を賜った」と記されている。
 一方、清親は文治五年の奥州征伐に頼朝のお供として出陣、陸奥国阿津賀志山の合戦に先陣を競った。このとき、清親は工藤小次郎行光の合力を得て、敵を誅滅することができた。建仁元年(1201)五月、越後国の城資盛が幕府に叛したとき、幕府は佐々木盛綱を大将に命じて越後・佐渡・信濃の兵を率いさせこれを討たせた。資盛の叔母の板額御前は女の身ながら弓の名手で、その腕前は百発百中、そのために多くの兵が傷を負いあるいは討たれた。このとき、清親は板額御前の左右の股を射て彼女を倒し虜とし、同年六月相具して参上し褒賞を得た。
 やがて、鎌倉幕府の草創期における最大の危機ともいえる「承久の乱(1221)」が起こると、幕府は軍議を重ねその対策を協議した。そして、北条政子の決断で西上が決定され、幕府軍の総大将となった北条泰時が御家人を従えて鎌倉を発つことになった。泰時はその夜清親の館に止宿して翌日に出発したといい、藤沢清親が北条氏の厚い信頼を得ていたことが知られる。このとき清親はかなりの老齢であったようで、自身はこの一戦に参加していないが一族は挙って参陣したようだ。  その後、清親の名は吾妻鏡に見えなくなることから、承久の乱ごほどなく死去したものであろう。ちなみに『藤沢村史』では、仁治元年(1240)ごろ死去したらしいとしている。いずれにしろ、五十年の長きにわたっての勤仕は、清親が幕府から厚い信頼を受けていたことを物語っている。
 その後の吾妻鏡には、光清、忠清、時親、光朝などの藤沢一族の名が、弓始めの射手などとして散見できるが、それぞれの系譜上における関係は明らかではない。

藤沢氏の箕輪進出

 藤沢氏が箕輪に進出したのはいつ頃の事であったかは詳らかではないが、承久の乱の功により、いわゆる「新補地頭」として箕輪を賜ったと思われる。そして、藤沢と箕輪とに藤沢一族が分かれた。おそらく、藤沢氏の箕輪進出は承久三年(1221)の後であったと推測される。
 箕輪に藤沢氏が地頭として在ったことを論証する文書として、元享三年(1323)の「諏訪大社下社文書」がある。それは、鎌倉幕府の下知状である。元享三年七月、諏訪大社大祝金刺時澄は、塩尻郷東条地頭東条重光が神役用途を抑留したため、幕府に上訴した。幕府は重光に召還状を送ったが、重光はこれに応じなかった。そこで幕府は、近隣の地頭である藤沢左衛門尉信政に命じて催促せしめた、とういものである。この一件から、箕輪に藤沢氏が在ったことはまず間違いないだろう。この信政については、「千野姓古系図」に信政という名が見え、清親の六代の孫となっている。
 下って、南北朝時代の正平十年(1355)八月、宗良親王は諏訪上下社大祝、仁科氏以下の合力を得て、信濃の武家方の頭領である府中の小笠原氏と宮方勢力の挽回をかけて桔梗ケ原において合戦に及んだ。この合戦の宮方に諏訪勢とともに藤沢氏の名がみえる。ついで、室町時代の永享十二年(1440)四月、「結城合戦」に際して幕府は歴戦の武将である信濃守護小笠原政康を陣中奉行に命じて軍兵の指揮をとらせた。政康は信州一国の武士を動員し、これを一番から三十番に分けてそれぞれの陣中の勤番をせしめた。その氏名次第が「結城陣番帳」にみえるが、そのなかの十一番に藤沢氏の名が見えている。
 さらに下って、長禄元年(1457)の『諏訪御符礼之古書』によると「箕輪 藤沢遠江守 御符礼一貫八百文」とある。これは、藤沢氏が諏訪社の花会の御頭役を勤めたことを示すもので、箕輪に藤沢氏のあったことを実証するものである。また、同文書には文明四年(1472)大井出の藤沢有兼が花会の御頭役を勤めたことが見え、大井出にも藤沢一族がいたことが知られる。


・武田軍を迎え撃った福与城祉


戦乱のなかの藤沢氏

 文明十四年(1482)当時、高遠城とその付近は高遠継宗が支配し、その代官として保科氏が在った。この年、保科氏は領主継宗への勤めを緩怠し継宗の怒りをかった。この高遠氏と保科氏とのいさかいは合戦に発展し、同年七月、千野・保科・藤沢の連合軍と高遠継宗の軍とが笠原において合戦し、継宗は一敗地にまみれた。 ところが、この戦いはさらに拡大し、八月、保科・藤沢方は松本の小笠原長朝の支援を得て、継宗の属城である山田城を攻めた。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢十一騎討死せられ候、藤沢殿三男死し惣じて六騎討死す」とある。戦いは保科・藤沢・小笠原方の敗戦であったことが知られる。この戦の結末がどのようになったかは詳らかではないが、以後も箕輪福与に藤沢氏があり、活動していたことは当時の諸記録からうかがうことができる。
 戦国時代に入ると、甲斐国の武田晴信(信玄)は西上して天下に号令をしようとし、その目的を達するために隣国である信濃に侵攻を開始した。信濃攻略は晴信の父信虎のころから試みられ、信虎は幾度か諏訪に侵入したが決定的な勝利は得ていなかった。信虎は天文四年(1535)ごろ、侵略から和睦へと政策転換をはかり、諏訪氏と武田氏との間には平和な時が過ぎた。天文九年、信虎は娘祢々を諏訪頼重に嫁がせ諏訪氏との関係を深めた。
 信虎は勇猛な武将で甲斐一国の統一を果たしたが、内政的には粗暴な面が目立ち、さらに嫡子の晴信をないがしろにするなどしたことで次第に人心が離れつつあった。そして、信虎の横暴を嫌った重臣と長男晴信らがクーデタ企て、信虎は駿河の今川氏のもとへ逐われた。これにより、いままで平和を維持していた諏訪氏と武田氏との関係は一変した。一方諏訪氏では、一族で高遠城主の高遠頼継が諏訪の惣領職を狙って諏訪頼重と対立していた。諏訪攻略を目指していた武田晴信は、高遠頼継の野望を利用して一挙に諏訪を攻め落とそうと策をめぐらした。
 天文十一年(1542)七月、晴信は高遠頼継と図って諏訪頼重を上原城に攻めてこれを落とし、さらに桑原城に逃れたた頼重を攻めて降した。晴信は頼重を甲斐に連れ帰り幽閉し、ついには自刃せしめた。ここに、諏訪氏の嫡流は滅亡し、その後の諏訪は高遠氏と武田氏が二分した。しかし、高遠頼継はこれが不満で、兵を起こし武田軍を追い払い諏訪全土を領有するに至った。これに対して晴信は高遠頼継およびこれに加担する矢島晴満の軍を諏訪宮川に攻めて破り、諏訪はまったく武田氏の掌中に帰した。

武田氏との抗争

 諏訪を領有した晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文十一年(1542)九月、晴信の部将駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢口に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信形に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。
 天文十三年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、十一月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、荒神山を攻め破った。このとき、晴信は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に軍を帰している。
 翌年、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、伊那攻略に向かった。まず高遠頼継を攻め、これを落とした。ついで箕輪に軍を進め、藤沢頼親の居城箕輪城を攻めた。これに対し、箕輪城には藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の諸豪族が籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。
 これより先、松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎に陣を布いた。また長時の弟信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部に着陣した。このように藤沢方は優勢で、城の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。
 箕輪城落城後、頼親は小笠原長時に随って京都に上り、三好長慶のもとに身を寄せていたが、三好氏が滅びるにおよび伊那に帰り田中城を築いてこれに拠った。

藤沢氏の滅亡

 その後、天正元年(1573)に武田信玄が病死し、そして天正十年、武田氏は織田信長の前に滅亡した。その信長も天正十年六月、本能寺の変に横死するなど、戦国時代は大きく様相を変えていった。信長の死後、信州の旧諸将は旧領に帰還し本領の回復を図った。このとき、藤沢頼親も福与城を再興したと『赤羽記』にみえる。
 七月には、小笠原貞慶が松本を回復せんと三河国より伊那郡に入った。これに藤沢氏の人数も加わり、十六日に貞慶は松本城に入った。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、九月、酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。 ・2006年2月13日

参考資料:箕輪町誌/藤沢村史/信濃史源考ほか(長野県立図書館蔵書)】  →ダイジェスト版
*写真は「ぶんの備忘録(現在閉鎖中)」さんの城跡巡り備忘録よりご提供いただきました。

■諏訪氏と梶の葉紋



■参考略系図
・戦国時代、伊那谷福与城主であった藤沢氏の系図は不明な部分が多く、下記系図は『信濃史源考』に収録された系図を底本として作成した。  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏

日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
家紋を探る
………
系譜から探る姓氏から探る家紋の分布から探る家紋探索は先祖探しから源平藤橘の家紋から探る

日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。 それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
神紋と社家

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com