ヘッダイメージ



藤沢氏 ●ダイジェスト
梶の葉*
(諏訪神氏流)
*諏訪神氏流の代表的な梶葉紋を掲載


 戦国時代、信州伊那谷の福与城に拠って、武田氏に抵抗した藤沢氏の出自については二説がある。一つは、諏訪神氏の支流で、神氏から出て藤沢谷の地頭となって、その後勢力を伸ばして上伊那北部一帯を治めるに至ったとする説と、相模国藤沢の住人藤沢義親の一族藤沢行親が建武の功によって足利尊氏から箕輪六郷を賜り、福与に城を構えたとする説とである。この二節がどのように関連しているかは詳らかではない。

戦乱のなかの藤沢氏

 藤沢氏が箕輪に進出したのはいつ頃の事であったかは詳らかではない。承久の乱の功により、いわゆる「新補地頭」として、箕輪を賜ったものと思われる。そして、藤沢と箕輪とに藤沢一族が分かれたものであろう。これによれば、藤沢氏の箕輪進出は承久三年(1221)の後であったろう。
 文明十四年(1482)当時、高遠城主とその付近は高遠継宗が支配し、その代官である保科氏が領主継宗への勤めを緩怠し、継宗の怒りをかった。そして、この高遠氏と保科氏との間は合戦に発展し、同年七月、千野・保科・藤沢の連合軍と、高遠継宗の軍とが笠原において合戦し、継宗は一敗地にまみれた。


・写真:武田信玄の軍を迎え撃った福与城祉

 戦国時代に入ると、甲斐国の武田晴信(信玄)は西上して天下に号令をしようとし、その目的を達するために、隣国である信濃に侵攻を開始した。この信濃攻略は晴信の父信虎のころから試みられ、信虎は幾度か諏訪に侵入したが決定的な勝利は得ていなかった。そして、天文四年(1535)信虎は侵略から和睦へと政策転換をはかり、諏訪氏と武田氏との間には平和な時が過ぎた。そして、天文九年には、信虎は娘祢々を諏訪頼重に嫁がせ、諏訪と縁戚関係になった。
 ところが信虎と長男晴信との間に不和が生じ、信虎は晴信によって駿河の今川氏のもとへ逐われた。これにより、いままで平和を維持していた諏訪氏と武田氏との間に不和確執が起こった。このころ、諏訪氏の一族で、高遠に居城していた高遠頼継が諏訪の惣領職を狙って、諏訪頼重と対立した。これに際し、かねてより諏訪攻略を目指していた武田晴信は、高遠頼継の野望を利用して一挙に諏訪を攻め落とそうと策を弄した。
 かくして、天文十一年(1542)七月、晴信は高遠頼継と図り、諏訪頼重を上原城に攻めてこれを落とし、さらに桑原城に拠った頼重を攻めて降した。そして、頼重を甲斐に送って幽閉し、ついにはかれを自刃せしめた。ここに、諏訪氏の嫡流は滅亡した。

武田氏との抗争、そして滅亡

 諏訪を領有した晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の略取に着手した。天文十一年(1542)九月、晴信の部将駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢口に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信形に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。
 ぞして、天文十三年、晴信は伊那の攻略に着手、十一月甲斐府中を出陣した。一方、これに対し藤沢頼親の軍は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り、武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入り、荒神山を攻めこれを破った。このとき、晴信は下諏訪に陣していたが、甲府に軍を帰している。
 翌十三年、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、伊那攻略に向かった。これに対し、箕輪城には藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の諸豪族が篭城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。
 晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり、藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。お、同時に箕輪城へ火を放った。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいえ、箕輪城を焼かれ実質上には敗北を喫し、頼親は晴信に降った。
 その後、天正十年に武田氏は織田信長の前に滅亡し、その信長も同年六月、本能寺の変に横死するなどしたことで、信州の旧諸将は旧領に帰還し本領の回復を図った。このとき、藤沢頼親も福与城を再興したと『赤羽記』にみえる。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、九月、酒井忠次を取次として、家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。

参考資料:箕輪町誌/藤沢村史/信濃史源考ほか(長野県立図書館蔵書)】
・写真は「ぶんの備忘録」さんの城跡巡り備忘録よりご提供いただきました。


■参考略系図
*戦国時代、伊那谷福与城主であった藤沢氏の系図は、不明な部分が多いとされる。下記系図は、信濃史源考に収録された系図を底本として作成しました。
 

バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧