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常陸江戸氏
●左三つ巴/丸に蔦
●藤原氏秀郷流那賀氏後裔
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江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族と伝えられている。那珂氏は、藤原秀郷五代の孫公道の子通直を祖とし、通直の子通資が那珂川北岸の那珂郷を領有したのに始まるといわれる。平安末期のことというが、それを裏付ける傍証もなく確かな系図も伝わっていないことから、その真偽は不詳というしかない。鎌倉時代になると、幕府御家人に列したようで『吾妻鏡』などに那珂氏が散見するようになり、那珂川流域の地頭としてかなりの勢力を有していたことは間違いないようだ。
鎌倉幕府が滅亡し南北朝内乱期になると、那珂氏は小田・大掾氏らと南朝方に属して活躍した。建武三年(1336)正月、新政府に反した尊氏が京都で敗れて九州に逃れた頃、楠木正成の弟正家が常陸の瓜連城に入り、常陸は南朝の勢力が振るった。しかし、北朝方の高師冬の攻撃を受けて瓜連城は落城、那珂氏は族滅の危機に瀕し、常陸は瓜連城を軍事拠点とする高師冬と北朝方の雄佐竹氏の勢力が振るうようになった。
瓜連城が落城したとき、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後の経過は不明だが通泰は再起して北朝方に属し、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったという。
江戸氏の水戸進出
通高は常陸守護の佐竹義篤の娘を妻とし、嘉慶二年(1388)には南朝方の難台城を攻略する軍功をあげている。しかし、通高はこの難台城攻めで戦死し、その賞として子の通景は鎌倉公方氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられた。これを機に江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点とした。
明徳二年(1392)、南北朝の合一がなり南北朝の争乱が終結すると、関東は鎌倉府体制が確立されつかの間の平穏が訪れた。しかし、それも長くは続かず、鎌倉公方持氏と関東管領上杉氏憲(禅秀)の対立が生じ、応永二十三年(1416)、「上杉禅秀の乱」が勃発した。
禅秀の乱に際して、佐竹氏は二つに分裂した。その原因となったのは、応永十四年に常陸守護佐竹義盛が没したとき、子のなかった義盛のあとは山内上杉憲定の子義憲が持氏の後押しで養子となり、佐竹氏の家督となった。これに佐竹氏の有力一族である山入氏らが反発して義憲と対立をするようになり、禅秀の乱が起ると山入氏らは禅秀の犬懸上杉氏に味方したのである。これに山入氏と姻戚関係にあり、禅秀の子教朝を養子に迎えていた水戸の大掾満幹も加わった。禅秀の乱は初め禅秀党が優勢であったが、幕府が持氏を支援して兵を送ったことで禅秀方の敗北に終わった。
通景の子通房は義憲に属して鎌倉方として活躍し、乱の結果、大掾氏が支配していた水戸地方は闕所(所領没収地)とされ、その闕所地は江戸氏に給付された。ここに、江戸氏は大掾氏の拠点である水戸方面へ進出していくきっかけをつかんだのである。
応永三十三年(1426)、大掾満幹は「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴いた。これを好機とした江戸通房は、大掾氏の居館である水戸館を奪取した。水戸地方は江戸氏に給付されたものの、大掾氏はその打渡を拒否して水戸に居坐っており、江戸・佐竹氏と大掾氏の間で対立・抗争が続いていたようだ。そのようななかで満幹は府中に出張し、その留守を江戸氏が襲撃し水戸地方支配の実質化に成功したのであった。その後、大掾満幹は永享元年(1429)十二月、子の慶松とともに鎌倉で殺害され大掾氏の勢力はさらに後退した。
このようにして、江戸氏中興の祖といわれる通房は上杉禅秀の乱を好機として、それまでの居城河和田から、一挙に水戸への進出を果たすことに成功したのである。水戸城を本拠とした通房は、弟の通常を武熊城に入れ、河和田城にも一族を配し、現在の水戸市域に匹敵するほどの領地を支配するようになったのである。
水戸城址点描
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城址を分断して走る常磐線 ・城址に残る土塁址(2002/10)
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佐竹氏の内訌と江戸氏
十五世紀の後半、守護佐竹義俊と弟実定との対立に際して、通房は実定側に加わって義俊を太田城から追い払うということもしている。そして、佐竹氏の内紛をいいことにして一段と独立性を強め、水戸周辺に領域を拡大していった。
文明年間(1469〜86)、通房の子通長は小幡城に拠る小幡氏を破って服属させ、以後、小幡城を南方進出の拠点とした。さらに、進んで南方の鹿島郡に鉾先を向け、鹿島一族の烟田、徳宿氏らと激しく対立するようになった。通長は弟の通雅を大将として、南進政策を押し進め一応の成果を収めている。
十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、江戸氏は山入氏を盟主とする「山入一揆」に加担して佐竹義舜の追放に一役かい、その間に水戸西北部の佐竹氏領やその近習たちの所領の押領を重ねていた。しかし、南奥平の磐城親隆・常隆父子のすすめで義舜と和解し、一応、押領地の返還に応じているが、明応九年(1500)、山入氏義が義舜を金砂に追放するにおよんで、返還地を再び押領している。
江戸氏は小野崎一族とともに佐竹宗家領を侵犯し、義舜を追い詰めながらも、やがて岩城氏の働きかけもあって義舜を庇護するようになり、山入父子を攻め、永正元年(1504)には山入氏を滅ぼしている。これによって江戸通長・通雅の勢力は佐竹領にも及ぶようになり、永正七年十二月、通雅・通泰父子は佐竹義舜と起請文を取り交わした。その起請文は、江戸氏が守護佐竹氏から独立した勢力を認められる内容であり、ここに至って江戸氏の戦国大名化が実現されたものとみられる。
とはいえ、小野崎越前守宛の通雅の書状などには義舜の父義治を「一峯様」、義舜を「屋形様」と敬称をつけて呼び、臣下としての礼をとっていた。このことは、永正七年(1510)、義舜と人返しの協定をむすび、「一家同位」の待遇を受けていた江戸氏であったが、自らも含まれる「佐竹洞中」の盟主義舜に対しては、どうしても一目おかなければならない地位にあることを自覚していたように思われる。こうした佐竹氏との盟約を背景にして、江戸氏の目は水戸周辺から南部地域に向けられていったのである。
関東の戦乱
通雅のあとは通泰が受け継いだ。通泰は父通雅が在世のころから活躍していたことは、佐竹義舜と取り交わした起請文に父とともに署名していることから知られる。しかし、佐竹氏が内訌を克服し大名領国化の道を歩むようになると、江戸氏の北進政策は中断を余儀なくされ、西方の北関東への進攻を目指すようになった。このころ、古河公方家では家督争いが起こり、政氏と子の高基が対立していた。一方、南関東では山内・扇谷の両上杉氏が対立し、そこへ伊豆から相模に進出してきた伊勢宗瑞(北条早雲)が武蔵進出の気配をみせており、関東の天地は一気に戦国動乱の時代を迎えようとしていた。
江戸通泰は古河公方の内訌に際して小野崎氏とともに高基に味方し、高基の古河公方就任に一役買っている。こうして、江戸氏は佐竹氏の支配から離れ、独自の外交政策を展開させながら戦国大名としての基盤を固めていった。通泰は天文四年(1535)に没し家督は忠通が継いだ。忠通は但馬守を称し、すでに家督相続の以前から父通泰に協力して活躍していたようである。
天文元年(1532)、忠通は江戸氏の南進の障害となっていた小幡義清を大洗に誘い出して殺害し、小幡城を奪い取った。同十六年から十九年にかけて、佐竹一族の義祐、ついには宗家の義昭とも大部平、戸村で一戦を交え、戸村の合戦では義昭の軍を破ったと伝えられている。
このように、ときには佐竹氏とも戦った江戸氏の軍事力を支えた家臣団をみてみると、その中心をなしたのは大掾一族の流れをくむ河和田城主春秋氏、江戸一族の鯉淵氏、赤尾関氏、波木井一族の加倉井氏らで、この他に外岡一族、立原氏、五上氏、平戸氏、谷田部氏、海老沢氏など、主に茨城郡を根拠とする国人領主たちであった。かくして、江戸氏は佐竹氏からの圧迫をうけながらも、自己の勢力を南部の鹿島地方に伸ばしていき、戦国最盛期には大掾・鹿島・小田・宍戸氏らを圧迫する存在になっていた。こうした情勢を背景に江戸氏の家督を継いだのが重通だった。
激動が続く常陸
重通の時代になると常陸をめぐる政局はいよいよ激動し、江戸氏も重大な局面を向かえていた。重通は結城晴朝の妹を妻とし、自分の妹を鹿島義清に嫁がせ、こうした政略結構、姻戚関係を背景にしてその動きを活発化していった。
天正五年(1577)、大掾貞国が死去し清幹がわずか五歳で家督を継いだ。このとき、小川城の園部助九郎が清幹に背いて水戸の江戸重通に通じたため、大掾氏は小川城の西の田木谷に砦を築いて備えた。この紛争は、やがて大掾・江戸両氏の衝突の原因となった。さらに、後北条・上杉謙信の二大強豪の対立・抗争で、常陸の諸将は大きな影響を受けるようになる。小田原北条氏は着実に勢力を拡大させ、天正五年(1577)九月、常陸・下野の諸将が後北条氏に背き常陸の佐竹氏に与したため、北条氏政は謙信の北陸出兵の隙に下野に出兵し佐竹義重を攻撃した。江戸重通ら常陸・下野の諸将は義重をたすけ、下野小山に出陣した。
天正七年(1579)、重通は鹿島一族の家督争いに介入し、同九年には義弟にあたる惣領義清を謀殺した弟の貞義、清秀らを下総に追放した。一方、勢力圏が接するようになった府中の大掾清幹とは、天正十三年以降四年間にわたって抗争を繰り返し、大掾氏を支援する小幡氏や小田氏とも対立した。
ちょうどこのころ、佐竹義重は南奥に進出し、伊達、白河結城氏らと争って苦戦していた。そして、江戸氏を中心とする常陸国内の争乱は、南奥、下野などへの進出を目論む佐竹氏にとって大きな障害となっていた。佐竹氏の苦慮を後目に、江戸氏は佐竹義重との同盟関係を保ちながら後北条氏と対し、遠く越後の上杉謙信などとも連絡を取りつつ、常陸南部の支配を押し進めていった。
その間、大掾氏との対立抗争も止むことはなく、天正十三年末には小川付近で戦闘が行われた。翌天正十四年八月、江戸重通は大掾氏の拠点竹原の弓削を攻略し、滑川を渡り府中に侵入したが、真壁氏らの援軍を得た大掾氏に撃退されている。世に府中合戦と呼ばれる戦いで、その後、江戸氏と大掾氏とは佐竹義重の仲介により和議がむすばれた。しかし、天正十六年、両氏の和議が破れ江戸氏が大掾氏攻撃の準備を進めると、佐竹義宣も江戸氏に加担し、江戸氏と佐竹氏の軍は合流して玉里を攻撃した。江戸・佐竹連合軍に領地を蹂躙された大掾氏は、万事窮して両氏に和議を請うに至った。
江戸氏の内訌と没落
ところが天正十六年、江戸氏一族に内紛が起こった。すなわち、一族の江戸通澄と神生右衛門大夫といった重臣間に争いが生じ神生氏が離反した。神生氏は額田の小野崎照通を頼ったため、事態は重通と小野崎・神生両氏の争いに発展し、翌十七年には佐竹氏も江戸氏を支援して額田城を攻撃した。結局、同年閏五月に和睦が成立したため、神生氏は結城氏を頼って逃れ去った。これが「神生の乱」で、重通の子通升はこの乱で討死している。そして、この乱は翳りの見え始めていた江戸氏にとって、さらに勢力衰退を加速させることになったのである。
この年、常陸国内はもちろん、天下の大勢は大きく変わろうとしていた。小田原北条氏討伐を決めた豊臣秀吉は天正十八年(15590)三月、大軍を率いて東下し小田原城を包囲した。このとき、秀吉からの動員令に対し、江戸氏をはじめ、大掾氏、小田氏、さらには常陸南部の諸領主の多くが後北条方の働きかけもあって秀吉のもとに参陣しなかった。七月、小田原が落城して後北条氏が滅亡すると、常陸では親秀吉派の佐竹義宣が二十一万貫余の知行を安堵されるにおよび、江戸氏ら小田原不参諸豪族の運命はきわまった。
十二月、佐竹氏は江戸氏の拠る水戸城を攻撃して江戸一族を服属させ、ついで、府中城を攻撃し大掾氏を滅ぼした。さらに、常陸南部においてもその支配を強化し、秀吉からの安堵の実質化をめざした。この活動の延長として、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちは、天正十九年(1591)二月、太田城に招かれ、佐竹氏によって謀殺された。こうして、常陸国内は佐竹氏が支配するところとなったのである。
その後の江戸氏は、重通の子通升は神生の乱で討死していたため、宣通が継いで徳川家康に仕え、姓を江戸氏から水戸氏に改め後世に至ったという。 ・2004年11月25日
【参考資料:茨城県史/日本の名族/水戸市史 ほか】
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