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越後長尾氏【その2】


上杉名字と関東管領職を継ぐ

 天文二十一年九月、景虎は従五位下、弾正少弼に叙任された。翌年、景虎は叙位任官の御礼のため上洛、参内して後奈良天皇かに拝謁し天盃と御剣を賜り、戦乱鎮定の綸旨を頂戴した。長尾家はじまって以来の栄誉で、景虎は内裏修理の資金を献上した。一方、石山本願寺や堺商人たちとの交渉も行い、上洛の道を確保することにつとめた。そのためには、越前・加賀・能登の一向一揆と提携し、堺商人の商う鉄砲や玉薬を購入することは長尾氏の軍略に不可欠なものであった。景虎は、同年の暮れに帰国した。
 永禄二年(1559)四月、景虎はふたたび上洛し、参内して正親町天皇に拝謁し、天盃と御剣を賜り勅命を奉じて内裏修理の資金を献上した。そして、前回に果たせなかった将軍足利義輝への謁見を行い、将軍らら「関東管領上杉憲政に協力してくやってくれ」という御内書を頂戴した。憲政はすでに天文二十一年、小田原北条氏に逐われて、景虎を頼って越後に逃れていたこともあって、関東管領職継承の内示を受けたとも解されよう。さらに、将軍は景虎に文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許した。景虎の上洛は大成功に終わり、十月に帰国した。この景虎の壮挙を祝って越後の諸将は景虎に太刀を献上し、そのときの目録が『侍衆御太刀之次第』であり、景虎麾下の武将たちの序列を知ることができる貴重な史料となっている。

■侍衆御太刀之次第



 二度の上洛を果たした景虎は、関東管領上杉憲政の要請を入れて、永禄三年、関東の秩序を回復するために兵を進めた。そして、北関東をたちまち平定し、四年には小田原城を包囲、攻撃した。小田原城を攻略することはできなかったが充分に武威を示した景虎は、憲政から上杉名字・系図・家紋を譲られ関東管領職を継承した。そして、鶴岡八幡宮で就任式を行い、長尾景虎を改め上杉政虎と名乗った。かくして、上杉謙信は四十九歳で死去するまで、春日山城を根拠地として、信濃・関東・北陸へと東奔西走することになる。
 その謙信の戦いを支えたのは、関東の戦乱に勇名を馳せた越後の諸将たちであった。謙信の家臣団については、永禄二年十月の『侍衆御太刀之次第』、天正三年(1575)二月の『上杉家軍役帳』、天正五年十二月の動員名簿『上杉家名字尽 手本』によって知ることができる。
 侍衆御太刀之次第では、「直太刀之衆」「披露太刀之衆」「御馬廻年寄分之衆」に区別されており、同年「信濃大名衆」が、翌年には「関東八ケ国之衆」が太刀を持参して祝賀したことが知られる。『上杉家軍役帳』は家臣団を上杉・長尾の一門衆、下越地方の国人衆(揚北衆)、上・中越地方の国人衆、譜代・旗本の直臣衆の四群に大別され、有力武将三十九名、総軍役数五千五百五十三名であった。上杉軍団は「麾下八千」と伝えられ、軍役帳に記載されていない武将もいることから謙信の動員可能な兵力は八千とみてまず間違いないだろう。『上杉家名字尽 手本』は、謙信がもっとも充実していた時期のものであり、八十一名の武将が記されている。その中心は越後の武将であり、それに越中・能登・加賀・上野の武将たちが含まれている。当時における謙信の勢力範囲をも示している。おそらく、上洛を想定して作成した動員名簿であったと考えられている。
 ところで、謙信は永禄三年に関東に出陣したとき、麾下に参じてきた上野・下野国を中心とした関東諸将の幕紋を記述した『関東幕注文』を作成した。武家にとって幕紋はみずからの武功を大将に知らしめる印であるとともに、先祖より受け継いできた大事な家の標であった。謙信とすれば、馴染みの薄い関東諸将の幕紋を記憶することは、大将として欠かせない嗜みであったと思われる。そして、謙信が残した関東幕注文は中世武家の家紋を知る根本史料の一つとなっている。

関東幕注文:Acrobatリーダが必要です。】


川中島の合戦

 上杉謙信と麾下の越後諸将は日本の戦国史に大きな足跡を残した。謙信の事蹟は諸書に詳しいことでもあり、また、越後諸将の各項において記したのでここでは多くにふれない。しかし、武田信玄と前後五回にわたって戦いを繰り返した川中島の合戦、なかでも永禄四年の戦いは最も激戦で、戦国時代の合戦における白眉として名高い戦いだけにふれておきたい。
 川中島の戦いのそもそもの発端となったのは、天文二十二年(1553)武田信玄の侵略によって領地を逐われた高梨.村上・井上・須田・島津氏ら信濃の諸領主が、領地回復のために長尾景虎に援けを求めてきたことにある。景虎にとっても信濃が武田信玄の領国と化すことは、武田氏と直接国境を接することになり、政治的にも看過できるものではなかった。
 信濃諸将の救援依頼を受けた景虎は、天文二十二年から永禄七年(1564)までの十二年間に、五回にわたって信濃の川中島に出陣し信玄と激戦を展開した。これが世に名高い「川中島の合戦」である。五回のうち、もっとも激烈をきわめたのが、永禄四年、第四回の川中島の合戦で、謙信三十二歳、信玄四十一歳のときであった。とはいえ、この合戦の具体的な経過は史料がなく、ほとんど分かっていない。そこで、『甲陽軍鑑』『上杉年譜』などからこの合戦の様子をながめてみたい。
 永禄四年八月末、謙信は一万八千の大軍を率いて春日山城を出撃し、信濃の善光寺に集結した。ここに大荷駄と後詰として五千の兵を残し、自らは一万三千の兵を率い、雨宮の渡しから千曲川を渡って妻女山に陣を張った。まさに謙信得意の電撃作戦であった。一方、武田信玄は一万六千の兵を率いて躑躅ケ崎館を出撃し、棒道を進軍して海津城に入った。九月九日、重陽の節句の夕暮れ、謙信は海津城から立ち上った炊煙に、信玄の奇襲作戦を看破し、ただちに諸将を集め、信玄と雌雄を決するときのきたことを伝えた。
 謙信は妻女山頂に大篝火を焚き、旗幟を立て、上杉軍が陣取っているように偽装し、亥刻(午後10時ころ)を待って妻女山を下った。そして、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡って、八幡原へと軍を進めた。そうとは知らない武田軍別働隊一万二千は子の半刻(午前一時ころ)に海津城を出撃し、妻女山へ向かった。
 信玄は弟信繁、嫡男義信をはじめ八千の兵を率いて八幡原に布陣し、夜の明けるのを待った。世に有名な「啄木鳥の戦法」であった。すなわち、武田軍別働隊が妻女山を奇襲し、謙信が八幡原に出てきたところを、武田軍本隊が待ち伏せて全滅させようというものであった。この武田軍の作戦の裏をかいて八幡原に布陣した上杉軍は、濃霧の晴れるのをじっと待っていた。午前七時半ごろ、八幡原にたちこめていた霧が晴れると、合戦の火蓋が切って落とされた。

川中島の激戦

 上杉軍の先陣は、剛勇無双の勇将柿崎和泉守景家であった。景家は陣頭指揮をとりながら、武田軍の先陣飯富三郎兵衛昌景隊をめがけて突撃した。千五百騎の柿崎隊は、大蕪菁の大纒をおし立て、景家に遅れじと続いた。謙信はこの一戦に上杉家の興亡を賭け、車懸かりの戦法で武田軍に迫ると、信玄も鶴翼の戦法で応戦した。
 謙信は紺糸威の鎧の上に萌黄緞子の胴肩衣を着し白手巾で頭を包み放生月毛の馬に乗って、三尺の小豆長光の太刀を振りかざして、ただ一騎、信玄の陣営に突入し電光石火のごとく三太刀信玄に斬りつけた。信玄は太刀を抜く間もなく、軍配団扇で謙信の太刀を防いだが三の太刀は信玄の肩先を斬りつけた。信玄あわやと思われたとき、駆けつけた中間頭の原大隅守が槍で馬上の謙信をめがけて突き上げた。謙信は一瞬かわされ馬の尻を刺されたため、馬は驚いて跳ね上がり駆け出してしまった。謙信はあと一太刀のところで信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れた。これが、世に語りつがれる謙信と信玄の一騎打ちである。
 八幡原で謙信の軍と信玄の本隊が激突している最中、武田軍別働隊は妻女山に到着した。しかし、すでに越軍の姿はなく八幡原で戦いは始まっており、驚いた別働隊は千曲川を目がけて駆け下った。十二ケ瀬を渡河しようとしたとき、謙信軍の殿をつとめる甘糟近江守隊千騎の猛攻撃を受けた。しかし、甘糟隊は多勢に無勢、ついに別働隊に切り崩された。この別働隊の到着で戦況は一変した。直江実綱の小荷駄隊二千は潮時をみて犀川を渡り、旭山城の麓に陣を張った。謙信もこれ以上の戦闘続行は不利とみて、善光寺に引き上げた。
 この合戦で、上杉軍の死者三千四百余人、負傷者六千余人、一方武田軍の死者四千六百余人、負傷者一万三千余人だったという。その数はただちに信用できないが、たくさんの死傷者を出した激戦であったことは間違いない。ちなみに、謙信の「血染めの感状」には数千騎、関白近衛前嗣の書状には八千余人を討ち取ったと書かれている。
 上杉軍の戦死者は志駄義時、庄田定賢、大川駿河守らであったが、武田軍は信玄の弟左馬助信繁、諸角昌清、初鹿野源五郎などの大将クラスであった。そのうえ、信玄・義信父子も負傷したほどであった。一説に、このとき武田軍の軍師山本勘助も戦死したといわれている。この合戦の勝敗を『甲陽軍鑑』では「其合戦、卯の刻に始まりたるは大方越後輝虎のかち、巳の刻に始まりたるは甲州信玄公の御かち」としているが、総合的にみて五分五分、引き分けとするのが妥当であるようだ。これは、戦闘における勝敗であって、この合戦も含め前後五回戦われた川中島の戦いの結果に目を向けると、謙信に援助を依頼した信濃の武将たちは領土を奪還することが成らず、川中島周辺の地は信玄が領有するところとなった。これを見れば、たしかに戦闘そのものは五分五分の結果であったが、戦争の成果そのものは信玄が得た。言い替えれば、謙信は合戦に善戦したが、政治において信玄に敗れたというべきか。
 合戦が終わった九月十三日、謙信は軍功のあった武将たちに「血染めの感状」を与えた。血染めといわれるが実際に血で書かれたものではなく、この一通の感状が一族・郎党ら死傷者の代償であったことから、こう呼ばれたものである。謙信から感状をもらったのは、色部勝長・安田長秀・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬の七名で、うち、色部・安田・垂水宛ての三通が現存している。
………
謙信が信玄と一騎打ちを演じた三太刀七太刀の碑

伝統的立場の武将

 上杉謙信は越後に生を受け、その一生を合戦に明け暮れた。関東管領上杉憲政を受け入れたあと、関東への連年に渡る出陣。また、甲斐の戦国大名武田信玄と戦った川中島の合戦は、前後五回を数えた。そして、そのいずれにも、謙信は遅れをとっていない。まさに、戦国時代随一の名将であった。謙信はまた、戦国武将の誰よりも早く上洛も遂げているのである。しかし、謙信は果たして天下統一を目指していたのかどうかは疑問である。もちろん、戦国武将の誰もが中央を目指したように、謙信もまた中央をめざしていたことは疑いない。しかし、かれの天下構想は、おそらく将軍家を支えて秩序を回復するというものであったろう。尾張の織田信長のごとく、革命を意識するまでには至っていなかったと思われる。それは武田信玄にも通じることだが、謙信は戦国武将としては紛れもなく一流ではあったが、時代を創造するという発想はなかったと考えざるをえない。いいかえれば、旧世代の武将(政治家)であったといえよう。
 それは、戦国末期、足利将軍家の権威は失墜し、関東公方や関東管領といった守護制度は崩れて、下剋上による新しい支配層が領国を経営拡大しつつある時代に、謙信は上杉憲政から上杉の家と関東管領職を譲られた。そして、過去の遺物になりつつある制度の秩序回復に血眼になった。謙信は、伝統主義に身を置いた武将というほかはないのである。
 謙信の宿敵であった武田信玄は、謙信の小田原猛攻を聞き謙信の武勇はいちおう賛えながら、「されども、ただ一刻の雌雄を計り後度の手段なし。北条はたやすく責めほさるまじ」と語った。その言葉どおり、結局、謙信は小田原城を攻め落とすまでには至らなかった。このように謙信に居城を攻められた北条氏康もまた、謙信の包囲軍を前にして、「血気盛んな若者で、短気の勇者であるが、時がたつとその勇気はさめて、万事思慮深くなる」と評して、謙信の猛攻に少しも動じるところがなかった。
 謙信の生涯をながめると、家督を継いでからは毎年のように諸所に出陣している。しかし、それほどの出陣をしながらも、領土はそれほどに増えていないことに気がつく。これは、信玄や氏康が評したように「戦争の天才」ではあったが、「治世の達人」とはいえなかったことの表われであろう。そして、あまりにも旧体制の回復に固執しすぎたのではなかったか。もっとも、それは、謙信が持って生れた律儀で純真な精神がなさしめたことであったのかも知れないが。

謙信の評価

 謙信の律儀な性格には同時代の武将も信頼を寄せていたことが知られる。謙信の宿敵であった武田信玄は、「謙信は手づよい弓取りだが、決して、片頬破りの偏頗な気性などはもたない」といってほめている。また、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、かれと戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と、その子勝頼に遺言したという。やはり、謙信の好敵手であった相模の北条氏康もまた、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」と、語ったという。
 長年のあいだ、戦いを交えた敵将からも、このように信頼されている謙信は、よほど律儀で義理がたい好人物であったよううだ。とはいえ、謙信に戦国時代を生きた武将として、領土的野心が全くなかったかといえば、必ずしもそうではなかった。天正元年(1573)信玄が上洛の壮途半ばに倒れるや、謙信は小躍りして加賀・能登へ兵を進めている。以後、北は出羽、南は上野、西は加賀と勢力圏を拡大した。そして、やがて北上してきた織田信長の勢力とぶつかり、これを撃破した。ここに、謙信はにわかに天下人の有力候補となったのである。
 ところが、謙信は信長軍を破ると、そのまま上洛して天下統一という好機にありながら、それをあとまわしにして関東平定に乗り出すのである。まだ、謙信は関東管領という虚名に忠実たらんとして、みすみす中央制覇への絶好のチャンスを逸してしまった。そして、かれにはもう機会はまわってこなかった。すなわち天正六年三月十三日、関東への陣触れを発した直後に急病に襲われ不帰の人となってしまったのである。脳溢血であったといい、享年四十九歳。おそらく、戦争に明け暮れた年月と、日頃の深酒が招いたものであったと考えられる。謙信の生涯は、天が謙信による天下統一を望んでいなかった結果なのかも知れない。もっといえば、天は、新世代の天下人を待っていたのであろう。
 いずれにしろ、謙信は、戦国動乱の武将として、珍しく正義感に徹した人物であったことは疑いない。したがって、信玄や信長、秀吉・家康などと比較すれば、現実味に乏しい、空想的な、あまいところがある、戦国随一のセンチメンタリストであったのだろう。結局、謙信の一生を振り返れば、酒と合戦と旧秩序を愛した中世末期に登場した北越の英雄というほかはない存在であった。

謙信後の家督争い

 天正六年(1578)三月十三日、上杉謙信は死去したが、死を迎える直前まで身体壮健であり、しかも四十九歳という年齢から後継者を決定していなかった。その結果、養子の景勝・景虎との間で家督相続をめぐる争いが起こった。世にいう「御館の乱」である。
 景勝は弘治元年(1555)十一月二十七日、長尾政景の次男として誕生した。母は上杉謙信の姉仙桃院である。幼名は卯松、のち喜平次顕景と称した。永禄七年(1564)七月五日、父政景の死後、謙信の招きで春日山城に移り養子となった。天正三年、二十一歳のとき景勝と改名し、弾正少弼に任じられた。この官名は謙信が越後国主の座について四年目の天文二十一年(1552)後奈良天皇から賜ったものである。このことからみて、謙信は景勝を自分の後継者にするつもりでいたようだ。一方の景虎は、小田原北条氏康の七男で、元亀元年(1570)謙信と氏康とが越相同盟を締結した際に人質となり、のちに謙信の養子となったもので、その室は景勝の妹という関係である。
 景勝は三月十五日、謙信の遺言と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、二十四日には謙信の後継者であることを内外に報じた。景勝は逸早く、春日山城の在庫金三万両を手中におさめたのである。景虎は妻子をともなって春日山城を脱出し、前関東管領上杉憲政の居住する御館に立て籠り、春日山城の景勝に対抗したため越後国内を二分しての争いとなった。景虎の兄北条氏政は、妹の主人である甲斐の武田勝頼に景虎救援を要請した。これを受けて勝頼は二万の大軍を率いて景虎救援のため信越国境に兵を進めた。大局的には、周辺諸大名の支援を受ける景虎が優勢にみえた。
 景勝は武田勝頼を敵にまわすことの不利を悟り、勝頼に和議を求めた。その際、勝頼は東上野の地と黄金一万両を贈って和議を求めたという。これに対し、勝頼は氏政が景虎救援に出陣しないことに疑念を持ち、勝頼の要求を入れて和議を結んだ。ついで、勝頼は越後に入り景勝と景虎との和議を進め、一時、両者の和議が成立したが、まもなく破れたため、八月、勝頼は兵をまとめて帰国した。
 九月はじめ、景虎の兄北条氏照と氏邦は景虎を救援するため関東軍を率いて越後に侵攻し、樺沢城を根拠地に坂戸城をはじめ景勝方の諸城を攻撃した。九月末、氏照は北条高広・河田重親らを樺沢城に、北条景広・篠窪出羽守らを御館にとどめて帰国した。
 年が明け、天正七年二月、景勝は大軍を府中へ進め御館を攻撃した。このとき景虎方の将北条景広が討死し、府中は火の海となり、名刹安国寺・毛徳寺などが灰燼に帰した。景虎方の拠点であった樺沢城も上田衆に奪還され、北条氏の越冬軍は関東へ逃げ帰った。その後、景虎方の諸城は次々と攻略され、兵糧をも遮断されてしまい、御館は完全に孤立してしまった。三月十七日、御館は景勝軍の猛攻撃を受けて落城した。このとき、前関東管領上杉憲政は景虎の長男道満丸を伴い、和議仲裁のために春日山城へ向かう途中で景勝方の兵に斬殺された。敗北した景虎は、兄氏政のいる小田原城へ逃亡しようと関東に向かったが景勝方の追撃にあって鮫ケ尾城に入った。ところが城主堀江宗親の謀反にあい、万事窮した景虎は腹を切った。享年二十六歳、ここに乱の大勢は決した。
 しかし、景虎敗死のあとも越後各地では戦闘が続き、景勝は天正八年四月本庄秀綱の栃尾城を、七月ごろに神余親綱の三条城を攻略した。ここに、謙信死後三年にわたった動乱も景勝の勝利に帰し、景勝は謙信の遺領を相続して越後の戦国大名となったのである。しかし、この三年にわたった内乱は、謙信が培った上杉氏の勢力を大きく後退させることにもなった。

景勝の治世

 上杉景勝は、その性格剛直で、矢弾の飛び交う戦場で大いびきをかいて眠ったと伝わる。また、律儀でもあったという。秀吉に降ったならば、その官吏官僚のごとく領地の検地に努め、伏見の堀や船道の工事に精を出した。関ヶ原の戦いのあと、家康に正式に降参したあとは、不満顔ひとつ見せず一所懸命に軍役などを務めた。謙信の養子ではあったが、その姉の子だから血のつながりはある。剛直で律儀な性格は謙信譲りであったものだろう。
 天正九年、新発田重家が御館の乱の恩賞に不満をもち、織田信長の勧誘に応じて謀叛を起こした。同十五年の重家討伐のとき、家臣たちは近道を進言したが、景勝は「兵法に迂を以て直と為すと云うことあり、危うき道に不意の患あり」すなわち「急がば回れ、というたとえがある。険阻な道を行けば不測の事態が起こる恐れがある」といって遠回りをした。案の定、新発田勢は三淵という近道に待ち伏せしていた。景勝は武将として必要な沈着・剛毅な素養を持ち合わせていたのである。その後、新発田氏の討伐に成功し、天正十七年には、佐渡へ渡り羽茂本間氏を破って越後・佐渡を支配下に収めた。
 天正十四年、将士四千人を率いて上洛し、秀吉に臣下の礼をとった。ついで参内して正親町天皇から天盃を賜り、従四位下、左近衛権少将に任ぜられた。同十六年にも上洛し、従三位、参議、中将に任ぜられ、秀吉から豊臣・羽柴の姓と在京料一万石を賜った。天正十八年には秀吉の小田原征伐に参陣し、上野国松井田城、武蔵鉢形城・八王子城攻めで戦功をあげた。小田原の役後に行われた「奥州仕置」では、出羽の検地を命じられその務めを果たし、文禄元年(1592)の朝鮮出兵には五千の兵を率いて渡海して熊川城で諸軍を指揮し翌年に帰国した。景勝は豊臣大名の一員として、秀吉の軍役を忠実に果たしたのである。
 慶長三年(1598)秀吉の命で越後から会津百二十万石に移り、徳川家康・前田利常・毛利輝元・宇喜多秀家とともに五大老に列した。秀吉死後上洛し、翌四年八月、会津に帰ると居城をはじめ領国内諸城の普請、道路・橋梁の整備、軍備の拡張をはじめた。ところが、このような景勝の行動を越後春日山城主堀秀治、出羽角館城主戸沢政盛らは「景勝に謀叛の企てあり」と家康に密告した。

関ヶ原の戦いとその後

 家康は使者を送り、景勝の上洛を促した。これに対して景勝の執政直江兼続が十六ケ条にわたって釈明したのが、世に名高い「直江状」である。
 慶長五年(1600)家康は景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝が応じようとしなかったので、豊臣政権に対する謀叛であるとして会津征伐を決意するに至った。しかし、家康の会津征伐は本気ではなく、石田三成に挙兵させるための誘導作戦であった。この老獪な家康の作戦が図に当たり、三成は挙兵、家康はそれを下総国小山で知ると全軍を西上させた。このとき兼続は、家康軍追撃を進言したが景勝は頷かず、家康軍は関ヶ原を目指して去っていった。その後、景勝は周囲の伊達政宗や最上義光と戦ったものの、戦況ははかばかしいものではなかった。それでも西軍が関ヶ原で敗れてから三か月も家康に降参しなかったのは、剛直で律儀な性格の故であっただろう。
 関ヶ原の合戦後、景勝は上洛して家康に謁見して謝罪し、会津百二十万石から米沢三十万石に移封を命じられた。本来、領地没収となっても仕方のないところであったが、このときの景勝の老臣直江兼続による政治工作・情勢判断はすばらしく、ひとえに兼続の手腕によるものであった。
 その後、慶長十九年の大坂冬の陣、翌元和元年(1615)の大坂夏の陣では先鋒を承り、戦功をたてて家康・秀忠の信任を得た。元和九年三月二十日、居城である米沢城で死去した。六十九歳であった。その一生は、養父謙信が築きあげた版図と大大名としての地位を、徳川政権下の平凡な一大名に貶めてしまったとするものもあるが、武将としてのかれの生涯は養父謙信には及ばぬものであったとしても凡庸なものではなかったと評すべきだろう。
 大坂の陣の挿話として、家康の使番が上杉軍の陣に命令を伝えにきたが、景勝は使番に目もくれずただ敵陣のみを見つめていた。上杉軍の将士もしわぶきひとつたてず、ただ軍旗が風にはためく音のみが陣中に響くばかりであった。使番の復命に接した家康は、「景勝はよく謙信の遺風を伝えている」と、咎めるばかりか景勝の態度を頼もしがったという。
 景勝のあとは定勝が継ぎ、以後、上杉氏は米沢藩主として続いた。綱勝のとき後継ぎが途絶え改易の危機に直面したが、吉良氏から養子招いて封を継いだが十五万石に減封された。このときの養子が綱憲でその父にあたる人物が元禄事件の敵役で知られる吉良上野介義央である。上杉氏は領地が半減したのちも家臣を減らすことがなかったため、企業に例えれば倒産寸前にまで陥った。このような米沢藩を卓抜した指導力で復活させた名君が上杉鷹山(治憲)であり、鷹山の藩政改革におけるさまざまな治績はつとに知られている。ケネディ大統領が尊敬する人物にあげたとき、日本では鷹山の存在を知る人が少なかったという逸話が、改革者鷹山の真骨頂を表していると感じるのは筆者だけだろうか。

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