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大掾氏
●対い蝶/三つ巴
●桓武平氏繁盛流
大掾氏の家紋を『室町武鑑』では、「対い蝶」と記載している。一方、鹿島神宮との関係から「三つ巴」を用いたする説もある。武鑑の「対い蝶」は桓武平氏の流れとして記載したものと思われ、大掾氏は対い蝶、三つ巴ともに用いていたのではないだろうか。


 平安時代の中ごろ、平良望(国香)が常陸の大掾となって土着し、子の貞盛は天慶の乱において平将門を討ち取る大功を立てた。乱ののち、勢を得た貞盛は甥の維幹を養子として、これに常陸の全領を与えた。維幹は常陸大掾に任じられ、はじめ筑波郡水守に住み、のちに多気に移った。この後、大掾の職はこの家の世襲のようになり、職名は転じて家名となり、維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となった。
 大掾氏の一族は、この地方の郡や荘の名をもつ吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗の八支族と、これら内部の農業経営単位の中世郷村名を称する多くの分家が分かれ出た。鎌倉時代のはじめ、嫡流の多気義幹は八田氏の讒言にあって失脚、庶流の吉田助(資)幹が本宗を継いだ。助幹は馬場大掾氏と称して幕府に仕え、その子孫が水戸城を拠点として発展していくことになる。
 とはいえ、馬場氏の大掾職帯持に関していえば、多気義幹を没落に追いやった守護八田(小田)氏の同職に対する競望によって決して安定したものではなかった。安貞五年(1227)十二月、鎌倉幕府は、資幹の子朝幹が相伝した大掾職を小田知重が競望していることに対し停止させるとともに、その真相究明を命じている。小田氏がことさらに大掾職を望んだのは、同職が国衙機構の在庁官人の頂点に位置することから、守護小田氏にとっては、権力強化と勢力拡大を図るうえからもぜひ掌握したい職だったのである。
 ともあれ、馬場大掾氏は鎌倉御家人として、また国衙機構の大掾職を世襲する「公家武家兼帯人」の系譜を有する家柄として中世府中に君臨した。しかし、鎌倉期以来の常陸守護の系譜を引く小田氏との対立、抗争は大掾氏と小田氏にとって中世を通じる宿縁ともなったのである。

南北朝の内乱

 元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡、後醍醐天皇による建武の新政が発足した。しかし、東国の政治情勢は不安定で、建武二年(1335)七月には、北条高時の遺子時行が諏訪氏などの支援を得て信濃で挙兵し、鎌倉を占領する「中先代の乱」が勃発した。大掾高幹は北条方にくみして、乱を平定するために東下した足利尊氏の軍と合戦におよんだ。  高幹が時行方にくみしたのは、鎌倉幕府滅亡時における期待が、得宗領から足利氏領へと移る過程で失望を感じたことがあり、大掾氏をはじめとした在地領主らは反足利氏の行動をとったものと考えられる。しかし、時行軍は大敗して潰滅、鎌倉に入った尊氏に高幹は降伏した。
 その後、尊氏は後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居すわったため、天皇は尊氏謀叛として新田義貞を大将とする討伐軍を発した。両軍は箱根竹の下で激突し、討伐軍を破った尊氏は新田軍を追って京都に駆け上った。その間に、楠木正成の弟正家が常陸国瓜連城に入ると、高幹は小田・那珂氏とともにこれに加担した。さらに北畠親房の子顕信を府中に招き、顕信の奥州下向に際しては一族の石崎権大夫、石川成朝らに護送させ、これを阻止する佐竹氏と水戸青柳に戦った。
 建武三年に瓜連城をめぐる攻防戦があり、年末に瓜連城は落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった。この瓜連城落城を契機に南朝方那珂氏は滅亡に瀕し、終始尊氏方として活躍した佐竹本宗家の常陸北部支配が決定的なものとなった。明けて建武四年、佐竹義篤ら北朝方は大掾氏の拠る国府・石岡城に迫った。これに小田治久は援軍を送り、大掾高幹を助けて国府原で佐竹軍と激突、佐竹勢を打ち破った。
 ところが、翌五年になると高幹は北朝方に転じ、府中は小田氏・下河辺一族の志筑氏の攻撃を受けた。高幹が北朝方に転向した背景には、鎌倉時代以来の小田氏との確執があった。府中に君臨する大掾氏が北朝方に転向したことは、常陸における南朝方の弱体化を押し進め、以後、府中一帯は北朝勢力の一拠点として、内乱期を通じて比較的穏やかな日々が続いた。暦応四年(1341)小田城の攻撃に際して、大掾高幹およびその一族は志筑城攻めを命じられている。
 南北朝時代は一族が南北に分かれて戦い、鎌倉時代以来の武家の惣領制が崩壊に直面した。大掾氏の惣領高幹は大掾庶流家との関係を強化し、惣領を主体とする新たな支配体制を再構築した。やがて、大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲った高幹は、剃髪すると浄永と号して水戸に隠居した。

鎌倉府の確立、関東の争乱

 貞和五年(1349)九月、尊氏の子基氏が鎌倉公方(関東公方ともいう)として鎌倉に下向し、室町幕府の関東支配機関である鎌倉府の基礎が確立した。これによって、関東における北朝方の優位性は確固たるものとなり、以後、鎌倉公方は基氏の子孫によって世襲された。大掾高幹の子文幹は足利将軍義詮に従い功をたて、詮の一字を賜り詮国と改め、正平年中(1346〜51)に府中城を築き兵勢を盛んにして争乱に備えた。延文六年(1361)には、室町幕府の命により常陸太田文を写し進上したことが知られる。
 康暦二年(1380)、下野の小山義政が南朝方に転じて挙兵、公方氏満は小山氏追討を関東八ケ国の諸将に命じた。詮国は一族の鹿島幹重を率いて小山城攻撃に加わり、その活躍はめざましく、乱鎮定後、佐竹・宇都宮氏らと並んで関東八将(八屋形ともいう)の一家に数えられた。
 小山義政は一旦降伏したものの翌年ふたたび叛き、結局、自害して小山氏は滅亡した。その後、義政の遺児犬若丸が小田孝朝と結んで挙兵したが、鎌倉府の軍に鎮圧された。かくして常陸国の内乱は終結に向かい、鎌倉府の政治的位置も不動のものになった。ところが、鎌倉府は幕府との確執を生むようになり、一方では常陸守護に補任された佐竹氏の勢力が拡大し、関東の政治情勢は新たな局面に向かおうとしていた。そのようななかで、小田・大掾氏の勢力の衰退化が進行することになるのである。
 延元三年(暦応元年=1338)以後、北朝方に属した大掾高幹・詮国父子の時代に大掾氏は勢力を拡大した。大掾氏の存在は、南朝方の小田・白河結城氏らの行動を牽制し、同氏の政治的地位の向上や府中の非戦場化を実現した。さらに高幹・詮国・満幹の名は足利将軍からの一字拝領と思われ、足利氏との強固な関係を築いていたことがうかがわれる。
 明徳三年(1392)足利将軍義満の仲介で南北朝合一で実現した。そして、義満は太政大臣に任じられ、金閣を建立し、日明貿易を開始して内外ともに室町幕府の威信を示した。一方、関東では公方足利満兼が没し、その子持氏が十二歳で公方職を継いだ。公方を支える関東管領職には、上杉氏憲(禅秀)が任じられ若い持氏を補佐した。ところが、管領職をめぐる上杉氏の内訌が背景となって、持氏と氏憲の間に確執が生じ、氏憲は管領職を辞した。さらに、満兼の弟満隆・満直らが公方の地位をめぐって持氏と対立、京都でも義満の死後に新将軍となった義持と弟義嗣の対立が表面化した。
 ついに応永二十三年(1416)、挙兵した氏憲らは持氏の御所を攻撃した。「上杉禅秀の乱」であり、大掾満幹をはじめとした行方・小栗らの大掾一族は、千葉氏・武田氏らとともに氏憲に味方した。加えて佐竹氏一族の山入氏、小田孝朝らが氏憲方に参じたため、戦局は氏憲方の優勢となった。将軍義持は持氏を支援し、駿河の今川氏、越後の上杉氏らに氏憲追討を命じたことで、情勢は一転した。翌年正月、敗れた氏憲・満隆らは自害し、満幹らも足利持氏に帰順降伏して乱は終結した。とはいえ、大掾氏禅秀の乱で公方に対立したことで、その前途はにわかに波乱含みとなってきた。

戦国時代への序奏

 禅秀の乱後、持氏は禅秀に加担した武士たちの討伐に兵を動かし鎌倉府の権勢を高めたが、持氏の行動は幕府の鎌倉府に対する警戒を強めるようになった。
 応永三十三年(1426)、大掾満幹は「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴いた。ところが、これを好機とした江戸通房が大掾氏の居館っである水戸館を奪取した。おそらく満幹は上杉禅秀の乱に加担したことで、水戸地方の一部を欠所地とされ、欠所地は江戸氏領に編入されていたようだ。以後、満幹と鎌倉府の対立は決定的となった。
 永享元年(1429)十二月、大掾満幹父子は鎌倉において持氏の手によって殺害された。大掾父子の殺害の背景には、室町幕府の反鎌倉府方への援助があり、陸奥にあった足利満貞が持氏追討を幕府に請い、これに白河氏・那須氏、常陸の佐竹氏らが加担していた。水戸地方の失地回復を願う大掾満幹もこの一党にあったと思われ、満幹らの死は持氏の報復措置であったと考えられる。江戸氏の水戸侵攻、満幹父子の死は大掾氏の屋台骨を根底から動揺させるものであった。
 満幹父子の死後、満幹の孫清幹が大掾氏を継承し府中を支配した。ところが、「大掾系図」によれば、清幹は満幹の弟秀幹の曾孫とみえ、また別本の「常陸大掾系図」では、書出形式で頼幹の子のような記述となっている。いずれにしろ、満幹以降、清幹に至る大掾氏四代の系譜は、疑問が多くこの時期における大掾氏の不安定さを物語っている。
 やがて、持氏は管領上杉氏と対立して永享の乱を起して敗死し、鎌倉府は滅亡した。その後、持氏の忘れ形見の成氏が公方に任じられ鎌倉府は再興されたが、成氏もまた上杉氏と対立して享徳の乱を起した。一方、京都では管領畠山氏の家督相続争いから義就と政長とが合戦におよび、これに将軍家の継嗣問題と幕府重臣の権力闘争がからまって、文正二年(応仁元年=1467)正月、「応仁の乱」が勃発した。かくして、関東、京都ともに下剋上が横行する戦国動乱の時代となった。

江戸氏の台頭

 打ち続く戦乱のなか常陸国では、水戸地方を拠点とした江戸氏が次第に勢力を拡大し、その鉾先を南に向けんとしていた。文明十三年(1481)江戸氏の南進は小幡城攻めというかたちで実施され、大掾氏は小幡氏を救援するため小田・真壁・笠間の諸氏とともに小鶴原で合戦を行った。以後、南進を企てる江戸氏と小田氏をはじめとする諸氏との対立抗争が続き、享禄四年(1531)には鹿子原の合戦が起った。この情勢に対して大掾氏は、小田氏と連携して北から侵攻する江戸氏に備えた。しかし、小田氏と大掾氏の和睦も戦国の世にあっては一時しのぎなものに過ぎなかった。
 天文十五年(1546)、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、進んで小高城を奪取した。また、真壁久幹と上曽の地をめぐる争いを展開している。このような激動の続く天文二十年、慶幹が没し子の貞国が大掾氏を継いだ。
 貞国の代になると、大掾氏と江戸氏、小田氏と江戸氏、小田氏と大掾氏の三つ巴の対立抗争は一層激化し、とくに小田氏の勢力伸張がめざましかった。そして、小田氏攻めに対する宍戸氏・真壁氏をはじめ行方氏・江戸氏の動きが活発化した。
 永禄六年(1563)、大掾貞国は三村合戦で小田氏治に敗れた。このころ、佐竹氏の南進も次第に本格化し、翌年には佐竹氏の客将である太田資正が片野に入り貞国に好誼を通じている。大掾氏は小田氏攻略のために佐竹氏と連携を保ったのである。永禄十二年になると、佐竹氏による小田氏の諸支城攻略が開始され、小田氏領の郷村は佐竹方によって容赦のない攻撃を受けた。対する小田氏は、同年十月、手這坂に兵を進めたが敗れ、小田氏は急速に勢力を低下していくことになる。そして、天正二年(1574)には、土浦城が落城し、小田氏の衰勢は決定的となった。
 ところで、天正元年(1573)大掾氏と園部氏が確執を起こしたとき、江戸・佐竹両氏が園部氏を救援するという事態が起こった。さらに、この機に乗じて没落しつつあった小田天庵(氏治)による三村城攻略がなされ、貞国の弟と思われる三村城主常春が戦死、大掾氏は南の軍事拠点を失う惨敗を喫した。ここに至って大掾氏は、東の園部氏、北の江戸・佐竹氏、南の小田氏に囲まれた形となり、四面楚歌の状態に陥ったのである。

大掾氏の衰退

 天正五年(1577)、小田天庵との合戦、園部氏の造反、さらに江戸・佐竹氏の脅威への対策に腐心した貞国は死去した。大掾氏の勢力衰退を肌に感じていたであろう貞国にとって、断腸の思いで迎えた死であったことと思われる。貞国の死後は、わずか五歳の清幹が家督を継いだ。このとき、小川城の園部助九郎が清幹に背いて水戸の江戸重通に通じたため、大掾氏は小川城の西の田木谷に砦を築いて備えた。この紛争は、やがて大掾・江戸両氏の衝突をもたらす原因となった。清幹は家督を継いだはじめから争乱の渦中に巻き込まれていったのである。
 一方、関東は永禄三年に上杉謙信が関東に出兵して以来、後北条・上杉謙信の二大強豪の対立・抗争が展開された。佐竹氏をはじめとした諸氏と小田氏との戦いは、関東全域の支配を目論む小田原北条氏と越後の上杉氏の抗争が背景にあり、上杉=佐竹・太田・大掾と後北条=小田の争いでもあった。
 天正五年九月、常陸・下野の諸将は常陸の佐竹氏に与して北条氏に背いた。北条氏政は謙信が北陸に出兵している隙を突いて下野に出兵し、佐竹義重を攻撃した。清幹は江戸重通ら常陸・下野の諸将とともに義重をたすけ、下野小山に出陣した。翌天正六年、上杉謙信が没すると北条氏の勢力が強大化し、義重ら常陸・下野の諸将は後北条氏に激しく抗戦した。その間、大掾氏と江戸氏との対立抗争も止むことはなく、天正十三年末には小川付近で戦闘が行われた。この状況に対して佐竹氏が両氏の和議に尽力をしたが、対立は膠着したままであった。
 翌天正十四年八月、江戸重通は大掾氏の拠点竹原の弓削を攻略し、滑川を渡り、府中に侵攻した。世に府中合戦と呼ばれる戦いで、清幹は真壁氏らの援軍を得て、これを撃退した。その後、佐竹義重の仲介により江戸氏とは和議がむすばれた。
 しかし、天正十六年、両氏の和議は破れ江戸氏は大掾氏攻撃の準備を進めた。それにこれまで中立を保っていた佐竹義宣が加担し、義重が太田を発って府中攻撃のために出陣するという事態になった。合流した江戸氏と佐竹氏の軍は、大掾氏領の玉里を攻撃した。玉里城周辺の郷村も江戸・佐竹両氏に焼打ちされ、さらに佐竹方の鉄砲衆・弓数百の加勢によって、府中の陥落は時間の問題となった。四月二十五日、二百余名の戦死者を出す激戦の末、玉里城は落城した。
 ここに至り、大掾氏は江戸・佐竹両氏に和議を請うた。しかし、和議成立後も竹原・府中で戦闘が行われたようだが、次第に終熄していった。江戸・佐竹両氏が大掾氏の本拠である府中城に決定的な打撃を与えず、短期間に和議を結んで兵を退いた背景には、常陸を取り巻く複雑な状勢があった。

常陸の戦国時代の終焉

 天正十六年末、水戸城内において江戸氏重臣の間に争いが起こった。「神生の乱」とよばれるもので、江戸氏の内訌に佐竹氏家臣の小野崎氏が介入して神生氏を居城である額田城にかくまい、さらに陸奥の伊達氏が小野崎氏を通じて佐竹氏内部の攪乱を図ったのである。いわゆる額田騒乱で、この騒乱は翌年、江戸・佐竹両氏と小野崎氏との間で和議が成立し終結した。しかし、この擾乱によって、さしもの江戸氏の勢力も次第に衰退していくことになる。
 明けて天正十八年(1590)三月、豊臣秀吉が小田原北条氏討伐の軍を起こし、小田原城を包囲した。このとき、佐竹義宣は宇都宮国綱らとともに小田原に参陣し、秀吉に謁した。対して、大掾氏・江戸氏・小田氏ら常陸南部の諸将らは秀吉の動員令に応じず、後北条方の勧めによって盟約を結んだという。七月、北条氏直は降伏し、早雲以来五代にわたって関東に重きをなした戦国大名後北条氏は没落した。
 その後の仕置で、秀吉は関八州を徳川家康に与え、佐竹氏には朱印状を発して常陸と下野における当知行分二十一万六千七百貫余の地の領知を公認した。ここに佐竹氏は豊臣政権下の大名としての基礎を確立したのであった。佐竹氏が領知を公認されたなかには、江戸氏・大掾氏領をはじめ鹿島・行方らの南部諸将領など、佐竹氏が実質的に知行していないところも含まれていた。佐竹氏は秀吉から賜った朱印状をてことして、重臣らに江戸・大掾氏らの仕置を命じた。まず、江戸氏が攻められ十二月に水戸城が落城、江戸重通は結城晴朝を頼って落ちていった。
 ついで、佐竹軍は府中城を攻撃、これに対して大掾清幹は抵抗したが力尽き自刃した。ここに、馬場資幹以来、府中に君臨した大掾氏は滅亡した。ところで、宮部の残念坂には城を落ちのびた清幹がこの坂まで来てうしろを振り返り、燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承が残っている。
 翌十九年二月、帰国した佐竹義宣は大掾氏一族である行方・鹿島氏らの「三十三館主」を太田城に誘い、ことごとく謀殺し城主を失った南方諸城を攻略し常陸一国の支配権を確立した。豊臣政権下の一大名である佐竹氏にとって、大掾氏一族は領国支配の邪魔者でしかなかったのである。ここに、大掾氏宗家はもとより大掾一族のほとんどが滅亡し、常陸の中世は終焉を迎えた。・2005年4月20日

参考資料:石岡市史/茨城県史 など】

●大掾氏の家紋─考察

■参考略系図
*詮国から清幹までの世系に混乱がみえるのは、南北朝争乱期における大掾氏の混迷をあらわした結果と考えられる。

 


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