秋田(安東)氏
檜扇に鷲の羽/獅子牡丹
(安倍貞任の後裔か?) |
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安東氏は元来、津軽地方の豪族であった。十三湊を本拠にして成長し、鎌倉末期ごろには藤崎城に拠る宗家上国家と、十三湊を本拠とした下国家とに分かれ、室町期の南部氏の津軽侵入によって、十三湊から蝦夷地に逃れ、まもなく出羽に戻って檜山に城を築き、そこを本拠とした檜山安東氏がいた。
一方蝦夷地に渡らず、津軽から南下して秋田郡を支配し、湊に城を築いて勢力をもった湊安東氏がいる。ともに安部貞任の子高星の後裔と称している。両家は八郎潟北岸付近を境として、独自の領国制を展開していった。
安東=秋田氏の出自
安東氏は、蝦夷の系譜に連なるといわれ、天正十七年(1589)まで蝦夷と蝦夷島(北海道)を支配していたのである。『秋田家系図』によれば、その祖は長髄彦の兄の安日王ということになっている。長髄彦とは、神武天皇の東征に抵抗して大和国生駒で誅されたという神話上の人物である。長髄彦の兄安日王は死罪を赦されて北海浜に流されて蝦夷の祖となり、その子孫がやがて蝦夷支配を認められ、前九年の合戦で名高い俘囚の長である安倍氏を経て、安東、秋田氏に至ったというのである。
その真偽はともかくとして、北海放遂「鬼王安日」を蝦夷始祖とする見方は、鎌倉期の『曽我物語』などにみえ、秋田家の始祖とする安東氏も『吾妻鑑』などの「奥州夷」「蝦夷管領」と記され、室町時代の史料に「日の本(蝦夷)将軍』というように、各時代における史料にその素性と立場が記録されている。
いずれにしろ、安東=秋田氏の蝦夷氏の血を引く系譜と蝦夷の支配者としての立場は、鎌倉期から連綿として受け入れられ、現代に至っているもので、秋田家は日本国内の名族と呼ばれる家々のなかで、素性も系譜も多分に異なった名族であったといえよう。
しかし、安東=秋田氏に関する関連史料はあまりに乏しく、近世大名として存続した秋田氏においてもその伝存文書は天正年間以後のものしかない。そして、名字に関しても、近世は秋田氏だが、それ以前は安東氏とも、下国氏、湊氏、さらには伊駒氏とも記されている。さらに、秋田の名字も中世以来のものであったのか、下国愛季の子実季に始まったものであったのかは、十分に検討されていないのである。
系図も、「秋田家系図」「伊駒系図」「下国系図」「湊系図」「安東系図」「安藤系図」「藤崎系図」「安倍系図」などなど、名字を反映して、さまざまな系図が伝えられている。現在、「秋田家系図」として利用されるものにしても、十七世紀に作成された系図なのである。そして、それぞれの系図は鎌倉期以後の秋田家関連史料を記さず、多分の錯誤をみせている。このように、秋田氏の系譜・出自、名字の起こりなどは、多くの謎を抱えたまま、いまに続いているのである。
安藤氏の登場と発展
安藤氏は鎌倉初期に幕府から蝦夷管領に抜擢されて、歴史に登場する。また、文治五年(1189)の源頼朝による奥州攻めのときの、阿津賀志山の合戦に「山案内者」の一人に安藤次がみえ、これから、安藤氏は山を活動の場としながら奥州一円にわたる商業・交通に深く関わった一族であろうとする説もある。また、陸奥国一宮神社塩釜神社の神官である松島の雄島板碑詰衆、陸奥国遠島の先達などの中に、安倍安藤四郎、安藤太郎、安藤四郎らの名が見え、安藤一族が津軽だけにとどまらない活動を伝えている。
おそらく安藤氏は、漁業や海運にかかわる海の民としての側面も有し、奥州における山民・海民こそ蝦夷として認識された集団であり、安藤氏はそれを代表する氏族であった。それゆえに、蝦夷管領に任じられたものと考えられる。加えて、鎌倉幕府が成立すると、幕府は朝廷との合意のうえで、蝦夷を国家的流刑地に設定し、これを特別に管轄した。そして、蝦夷を支配することは、幕府の軍事権門としての立場を強化することにもつながった。それゆえに、蝦夷を沙汰するものとして、蝦夷の系譜に連なる安藤氏が抜擢されたのであろう。
その後、鎌倉幕府は北条氏の執権政治が行われるようになり、蒙古襲来を経て十四世紀になると北条氏専制が一段と強まり、それに対抗する鎌倉御家人は北条得宗家によって没落していった。この間安藤氏は北条氏御内人となり、安藤惣領は得宗家のもとで蝦夷沙汰代官職となった。そして、このころから安藤惣領は「安藤又太郎」を通り名として用いるようになった。しかし、そのことから、安藤一族間における惣領争いが表面化してきたのである。
十四世紀初め、蝦夷島と北奥羽を舞台とする大乱が起こった。北条得宗の高時は、安藤又太郎季長らに反乱鎮圧を命じた。しかし、反乱は鎮まらず、業を煮やした高時は、正中二年(1325)、蝦夷沙汰代官職を季長の従兄弟の季久に交替させた。季長は得宗家に提訴するため鎌倉に上ったが、内管領長崎高資が賄賂を求めたりして埒があかない。この間に季長の代官らは、新代官方又太郎宗季(季久)に戦いを挑み、乱は安藤一族の内乱という様相を強めた。これに対し幕府は、宇都宮高貞・小田高知らを派遣して、両安藤家の和議をとりまとめさせた。ここまでに十余年の歳月が流れていた。この乱は世間に強烈な印象を与えたようで、近江国守護佐々木氏は鎌倉幕府が滅亡した一因として、この蝦夷大乱をあげている。
乱の終息後、宗季は得宗領内地頭代職として多くの土地を支配した。こうして、北条得宗家の支援を受け、安藤惣領の地位を固めた宗季は大きな権限をもち、この宗季の系統が安藤氏の嫡流となり、のちの秋田家へと発展してゆくのである。
南北朝の動乱期
元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、建武新政が開始されると、足利尊氏は鎮守府将軍に任じられ、外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手した。その後、尊氏は新政府に離反したため、北畠顕家が陸奥守となり鎮守府将軍を兼任した。そして、奥州掌握と蝦夷沙汰にも着手しようとしはじめたのである。
このころ、安藤氏は宗季の二人の子息、高季・家季兄弟であった。父子は北条得宗家の御内人として優遇されたにも関わらず、北条氏とは命運を別にしていた。高季は足利氏が総地頭となった外浜において、国府北畠方に対して足利方より預かったと称して抵抗し、足利方へは国府を楯にとって事を構えたという。
建武新政が瓦解し、南北朝の内乱になると、足利方で奥州掌握を担当した斯波家長は、家季を北奥の一方検断奉行に抜擢し、ついで奥州総大将として赴任した石塔義房は、家季にかわって安藤太師季(高季)を同職にとりたてた。このころ、高季は足利尊氏の執事高師季に結び付き、名も師季と改め、内乱を尊氏方に属して生き抜くことに腹をくくったようだ。そして、この選択がのちの秋田氏の発展をもたらすことになった。
応永二年(1395)、ときの足利将軍義満は津軽十三湊下国安藤盛季の弟鹿季を出羽国秋田の新領主として認めた。これは、当時、秋田城介の一党がなお南党として幕府に抵抗しており、これを津軽安藤氏に命じて鎮圧させた。結果、鹿季が秋田の新領主に抜擢されたのである。以後、鹿季の系統は湊家として続いていく。この湊家は近世の記録や系図類では、秋田城介の秋田氏として記録されることが多いが、当時の正式史料では「湊」のみを記録されていた。
盛季のあと、下国氏は康季が継ぎ『羽賀寺縁起』に、「奥州十三湊日の本将軍安倍康季」と記され、天皇までが、十三湊安藤氏の「日の本将軍」たることを認めていた事実が知られる。そして、この下国氏が津軽安藤氏の嫡流であった。しかし、康季の跡を継いだ義季は糠部南部氏と戦い敗れて戦死したため、津軽下国家は断絶した。
檜山・湊の両安藤氏
断絶した下国家は一族から政季が入って再興した。政季は津軽に近い出羽国河北を本拠とし、基盤を確立するために、米代川を通じて隣接する陸奥国比内・阿仁方面に軍を出し、勢力拡大に努めた。ところが、その最中の長享二年(1488)、河北糠野城で敗死したという。そのあとを受けた忠季は、明応四年(1495)檜山の地に大規模な築城を行い、日の本将軍家の基盤を固めていった。河北の地は檜山と改称され、忠季のあと、尋季−舜季−愛季と檜山城主領として継承されてゆくのである。
湊安東氏の成立について、「秋田家系図」に、十三湊の盛季が弟鹿季に二百騎を従えさせ、秋田湊を討たせたとある。しかしこれは信用するに足らない。成立にかかわる史料としてまずあげられるのは、南北朝中期の延文二年(1357)の「石橋和義奉書」で、それには当時男鹿半島に安藤孫五郎と安東太という二人の領主のいたことが記されている。この両者はそれぞれ南北朝方に立って争ったものであるが、結局は北朝方の安東太が勝利したらしい。要するにこの史料は安東・安藤を名乗る領主が男鹿に定着していたことを物語っている。また、それは安東.安藤氏の存在を鎌倉末期までさかのぼらせることができ、しかも湊安東氏の始まりに関連させて考えることが可能な史料である。
もう一つの史料は、「市川湊文書」に含まれている当山古来棟札で、それには男鹿の本山を修造した湊安東家の武将として、貞和六年(1350)寂蔵、応安五年(1372)安倍忠季、応永三十三年安倍浄宗、寛正元年(1460)安倍銀宗、文明十八年(1486)安倍貞季、大永五年(1525)安倍洪郭、弘治三年(1557)安倍□季らの名前が記されている。この史料は天正七年(1589)の湊合戦のとき実季に反抗した道季の後裔にあたり、のちに縁あって佐竹氏に仕え久保田に居住した湊氏後裔の湊金左衞門が、元禄年間に本山から取り寄せたもので、本山では修造にかかわった湊安東の領主であることを認めた一覧である。従って湊安東氏の系譜復元に欠かせない史料である。
そのほか、延徳三年(1491)六月、湊二郎宗季が男鹿半島南岸の増川に八幡神社を建立したという棟札や、大永四年(1524)八月に、湊知季が椿・双六両村の境界争いを裁定したという史料も残っている。湊安東氏の成立はこれらの史・資料をもとに考察をすすめるべきであろう。
いずれにしろ、檜山家に対して湊家も着実に発展を続け、京都扶持衆の家柄として、幕府方の故実書である「伊勢加賀守貞満筆書」などにも記され、代々「左衛門佐」を官途の極官とする扱いも受け、湊家の使節は京都との間を往来した。湊家の存在を史料的に際立たせているのが、天文年間(1532〜55)の湊左衛門佐堯季の時代である。堯季は海の領主として多くの船を有し、広い湊を安泰にし、俗称「鉄船庵」と称された。
その後、湊安東家と檜山安東家が合体して、一つになるということがあった。その間のことは諸説があって定かではないが、一説には、男子がなかった湊安東堯季は、娘と檜山安東舜季との間に生まれた春季を養子とし、湊次郎友季と名乗らせたが折り合いが悪く友季の死後、あらためて娘の子で友季の弟にあたる茂季を養子にし、天文二十年天寿をまっとうしたという。
別の説では、檜山安東愛季の弟茂季が湊安東を継いだが、茂季は子高季を残して没し、高季の後見となった愛季が両家を合体してしまったという。いずれにせよ、愛季の出現によって、それまで同族でありながら別々な動きをとってきた湊と檜山の両安東家が合体したことだけは事実である。そして、この愛季が、戦国大名秋田氏の全盛時代を現出するのである。
写真=十三湊に架かる橋(撮影:吉住 裕氏=2007)
秋田愛季の活躍
中世の比内地方は、浅利氏が甲斐国より移住しその支配下にあった。この地方は、大葛・阿仁などといった金銀山があり、森林資源にも富んでおり、それらも浅利氏が支配していた。
安東愛季は、これらを支配下におかんとして、永禄五年(1562)突如比内地方への侵略を開始した。独鈷城に拠る浅利則祐は扇田・長岡城に籠もって反撃したが、安東勢の攻撃を支え難く、則祐は長岡城で自刃し、比内地方は安東氏が勢力下におさめた。そして、先に滅ぼされた則祐の弟勝頼が安東氏被官として比内の領主となった。
長岡城の戦いで浅利則祐を自刃させ、出羽比内地方を安東氏の勢力下においた安東愛季は、隣接する陸奥鹿角郡の完全支配をも目論み、鹿角郡内の大里・花輪・柴内氏らに廻状を回し、南部氏の勢力下にある鹿角郡討ち入りの体勢を固めた。
永禄九年(1566)八月、愛季は比内の浅利残党・阿仁地方の嘉成一族を主力とした五千の兵を遣わし、大館から犀川峡谷を経て巻山峠を越え、鹿角郡に侵入した。秋田勢は南北からの挟撃作戦を採り、一手は郡内の長牛・石鳥谷城を、柴内勢は北から長嶺・谷内城に攻めかかった。この侵攻に驚いた南部晴政は、岩手衆の田頭・松尾・沼宮内・一方井らの諸勢を鹿角に送ったが、狭隘な山道で進軍は思うに任せなかった。そして、石鳥谷城・長嶺城などは安東勢の猛攻にたまらず落城、南部勢は主城の長牛城に立て籠もって防戦に努め、早い降雪に助けられ越年することができた。
翌年二月、愛季は雪をおかして自ら六千の兵を率いて長牛城に攻めかかり、城主一戸友義以下は城外で戦った。戦いは友義の叔父南部弥九郎が討死にするほどの激戦で、相次ぐ苦戦に南部晴政は一族の重臣北・南・東らの諸勢を救援に繰り出した。これを知った安東愛季は素早く兵を引いたので、長牛城は落城を免れることができた。しかし、この年の十月、愛季は谷内城を落とし、ついで長牛城を攻め、南部方は一方的に攻め立てられ、長牛城は全滅に近い形で落城、城主の一戸友義は辛うじて三戸に逃れた。こうして、愛季念願の通り鹿角郡を手中に収めることができた。
しかし、翌年三月、南部晴政は世子南部信直とともに来満峠越えで大湯に着陣、同じく南部氏の一族である九戸政実勢は保呂辺道経由で三ヶ田城に入った。南部氏は、南北からの秋田氏挟撃作戦を展開したのである。この南部一族の総力をあげての決戦態勢に、鹿角郡の諸将士たちは南部方に降伏し、安東方の主力大里備中は郡外へ逃れ、秋田氏による鹿角郡支配は挫折した。とはいえ、鹿角・比内で境を接した南部・安東両氏の対立は、こののち天正末年、豊臣秀吉の天下統一まで繰り返された。
湊を直轄下に収める
元亀元年(1570)、湊安東氏とその配下にあった豊島氏が推古山において激しい戦いを展開した。ことの始まりは、天文二十年(1551)に湊家の当主尭季が死去し、尭季の養子となっていた愛季の弟茂季が湊城に残されたことにあった。
湊家が桧山家と婚姻を重ねることで、独自な統治を変化させてゆくことに対して、近隣の国人衆は不安を募らせていた。というのは、代々の湊安東氏は仙北の諸大名および国人衆が秋田湊において交易品の取り引きを行うことをわずかな課税で認めてきた。そして、秋田湊における商行為は治外法権に近い形で保障されていたのである。湊尭季も交易については同様の立場をとり、自分の娘が舜季に嫁いでもうけた子、すなわち孫にあたる愛季・茂季を養子に迎えて家督を譲っても何ら支障はないと考えていた。
ところが、愛季が檜山郡から秋田郡へと領地を南に拡大してくると、事態は変化をみせてきた。さらに、愛季は越後の上杉氏らと交信し、北奥羽沿岸における船の出入りを統制できる実力者に成長していた。愛季にとって、湊家を併せることは弟の茂季を養子に送り込んだ段階から計算されていたことであっただろう。実力者愛季が湊家を併合することは、これまで湊家と提携することで領内経済の繁栄を図ってきた周辺の国人領主たちに、一層の危機感を募らせていった。
かくして、湊尭季の死をきっかけとして、豊島氏は下刈・川尻氏らと同調して挙兵したのである。これに、由利・仙北の諸将で加担するものがあり、湊に出陣してきた愛季が二年にわたって滞陣するということになった。秋田平野のあちこちで繰り広げられた戦いは次第に愛季が有利に展開し、豊島氏は城を捨てて仁賀保氏を頼って落ち延び、愛季の勝利に終わった。ここに、湊周辺は愛季の直轄支配となり、弟の茂季は豊島城に移された。
近隣勢力との抗争
湊家を併合したことで、愛季は交易の全権を掌握したが、近隣の国人衆は愛季に不満を抱いていた。先に豊島氏の挙兵に同調した川尻氏・下刈氏はもとより、大平・新城・八柳氏らも秋田湊の交易に関与できなくなり打撃を受けていた。そればかりか、雄物川上流の穀倉地帯を領する小野寺、戸沢、六郷らの諸領主も米の輸送や京畿からの商品流通路を塞がれる不安を感じていた。
秋田湊を取り巻く、国人衆、諸大名らが愛季に望みたいのは、愛季が従来の慣行を守り、わずかな通行税で自由に船が出入りすることを保障してくれることであった。つまり、湊の交易に関しては愛季に中立の立場であることを求めたのであった。
そのような元亀二年(1571)に庄内の戦国大名武藤(大宝寺)氏が、小野寺氏と情報交換しながら豊島氏へと接近を開始したのである。豊島氏と安東氏との間には前年から戦いが始まっており、武藤氏は小野寺氏と連携しながら豊島氏を支援しようとしていた。しかし、豊島氏が敗れ去ったことで武藤氏の計画に狂いが生じ、一転して安東氏と和睦の交渉に入った。しかし、愛季はこれをきっぱりと拒絶し羽根川領を支配下に収めた。これに対して、武藤氏の積極的な北進策が実行に移され、由利地方で大宝寺氏に従わないのは赤宇曾の小介河氏を残すのみという状況になった。赤宇曾は由利地方の北端に位置し、秋田氏と深い関係を結んでいた。秋田氏にとって、由利地方が義氏の領国化することは、看過できない事態であり、秋田愛季は小介河氏を支援して義氏と対立したのである。
天正十年(1582)に入ると、新沢館を中心に武藤方と小介河=秋田方は数度の合戦を繰り返した。十二月、義氏は由利攻略の兵を起こして秋田方の砦を攻撃し、翌年には新沢城を攻め、その外構えをことごとく撃ち破り、焼き払い、城を残すばかりとした。秋田氏は小介河氏を応援して新沢館を死守し武藤軍の撃退に成功、義氏は兵を引き上げていった。その後、間もなく武藤義氏は意外なところから滅亡した。義氏の内政を無視した外征の連続に対する国人衆らの叛乱によって、あっけなく敗れ去ったのである。
さらなる領土拡大を目指す
やがて、愛季は山北方面への関心を深めるようになる。そのような天正十一年に武藤義氏が自害して果てたことを好機として、安東氏の軍勢は三崎山を越えて酒田まで侵入したと伝えられている。また、由利郡の国人衆らも義氏が滅亡したことでは強力な後楯を失うことになり、愛季は海岸南部の脅威から開放され、北部や山北地方に対して注力できるようになった。
そして、これまで南部領との中間の比内地方を領して妙な動きをする浅利氏を抑えるため、愛季は和睦と偽って浅利義正(勝頼)を檜山城に招き、松前氏らの協力を得て謀殺した。こうして、比内を支配下に収め、由利郡中央まで勢力を拡大した愛季は、鹿角の国人らに働きかけて南部氏と対立する行動に出た。天正十三年(1585)に鹿角大湯氏に宛てた書状には、南部領糠野部への攻撃参加を呼び掛け、鉄砲衆を送り込もうとする勢いをみせている。このとき、津軽浪岡の北畠氏らも愛季に同調していたことが知られる。
他方、安東氏は山北北浦地方に成長した戸沢氏との対立があり、そもそもは単なる境界争いというものであったが、両者が土地の一円支配を通じて本格的な領国経営を行う戦国大名に成長をとげてくると、対立の性格は大きく変化してきた。すなわち、境界争いというものから、雄物川の川筋をめぐる戦いとなってきたのである。戸沢氏ら山北の穀倉地帯を治める諸大名は、作物を雄物川を舟で運んで秋田湊に送っていた。
秋田湊を愛季が抑えたことで戸沢氏らは不安を感じていたし、愛季にしても戸沢氏ら山北の諸大名を抑えるには雄物川の川筋を利用した交易を封じることに向けるのは当然であった。
唐松野の戦い
天正十五年(1587)春、安東愛季は小野寺義道と戸沢盛安が不和になったことに乗じ、戸沢氏を語らって小野寺打倒を謀った。しかし、戸沢氏はこれに同調せず、逆に仙北地方に進入してきた三千余の安東軍と戦う姿勢を見せた。そのため、安東氏は攻撃目標を戸沢氏に転じ、秋田と仙北の境、唐松野に進攻して陣を張った。進藤筑後守よりの急報を受けた戸沢盛安は主力千余人を率い唐松野で秋田軍を迎え撃ち、進藤隊は遊軍となって安東軍の東に陣した。
この合戦に愛季が勝利を収めれば、北浦地方の経済封鎖が実現することになり、戸沢氏にすれば畿内からの文物流入が停止し大きな打撃となる。それだけに戸沢氏の方が必死であったといえようか。安東方は館沢城、淀川城を拠点とし、対する戸沢方は白岩城、高寺城、荒川城を後方支援として決戦に臨んだ。
『奥羽永慶軍記』によれば、「安東愛季の軍勢は加成・鎌田らに命じて淀川城を攻撃させ、戸沢勢の西への退路をふさぐことに成功した。淀川城が落城したことは荒川城を守る進藤筑後守から戸沢盛安に伝えられた。軍議の結果、盛安は千二百名の軍勢を率いて、すでに唐松野に布陣を終えていた安東軍と対峙した」とあり、
両軍は漸次接近し激突、終日戦って軍を引いた。合戦は三日間にわたり安東軍は三百余人、戸沢軍には百余人の犠牲者が出た。
しかも、安東軍にとっての悲劇は、合戦の最中に愛季が病死したことであった。愛季の死は戦いの続行を不可能とし、安東軍はその死を秘して退却するのが精一杯であった。かくして、唐松野合戦は安東軍の敗戦に終わり、その後戸沢氏は秋田国境を強化して、再び安東氏の来攻を許さなかった。以後、北浦地方の諸豪族は戸沢氏に服することとなり安東愛季の野望は潰えた。
秋田氏の内訌
愛季が没したあとは、嗣子実季が家督を継いだがまだ十二歳の少年であった。この事態に、実季と従兄弟である土崎湊安東系の安東道季(高季)が南部信直と結び、戸沢氏らの援助を受けて謀反を起こしたのである。
『新羅之記録』によれば、天正十五年、檜山の城主下国愛季が死去した翌年から嫡男東太郎実季と、湊の城主茂季の嫡男東九郎高季が領国支配をめぐって合戦に及んだとある。一方『湊檜山両家合戦覚書』では、天正十七年二月、豊島城主茂季の子道季が、周辺の諸領主や戸沢氏を誘い謀叛に及び合戦となったと記している。合戦の時期については、天正十七年が他の文書からも確認できるが、天正十六年の終わり頃から小競り合いがあったようだ。
合戦の原因は、檜山郡から秋田郡にかけて勢力を拡大した愛季の死去したことである。愛季の秋田湊周辺への進出は、国人層をおおいに刺激していた。従来、秋田湊を支配していた湊安東氏は国人層の交易による収益を認めたうえで、それに若干の課税をするといった方式をとっていたが、愛季が湊に進出し湊安東氏を併呑し弟の茂道を送り込んだころから支配形態に変化が生じた。それは、秋田湊を利用する小野寺・戸沢・六郷ら雄物川上流に領地をもつ戦国大名が湊で行っていた交易に強い圧力をかけるという形にあらわれ、それによって諸大名の利益は極端に減少していったといわれる。そのような諸大名・国人衆らにとって、愛季の死は頽勢挽回の好機と受け止められた。
一方、覚書によれば、実季は若くして「名代トシテ隣郡ノ使者等ニ対面ス、常ニ檜山ノ城ニ居シ他国ノ使ヲハ湊ノ城ニテ請待ト云々」という処遇を受けていたとある。しかし、愛季が死去して実季が湊城に常駐するようになると事態は一変した。市川湊家文書によれば、「湊九郎兄弟は豊島の城にあり、九郎(道季)は実季と同年なりといへとも、又一つか二つ年ましとも言り、然れば九郎一門家老共いかりて、先祖代々の跡へ実季を置くべきにあらず、湊へ九郎を移したくて、戸沢九郎へ内談す。これぞ騒動のはじめなり」ということになった。かくして、豊島に居住していた茂季の子道季が挙兵に踏み切ったのだという。これは、道季個人の野心ではなく、湊へ道季を移して従前の湊運営をしたいという豊島の一門家老の悲願で、それは近隣国人衆の意向を代弁するものであり、相談をもちかけられた戸沢盛安にしても先年の唐松野合戦の結着をつける意味でも願ってもないことであった。
以上のようなことが絡まって、両勢力の対立は避けられない情勢となっていった。そして、天正十七年二月、合戦は始まったのである。
湊檜山合戦
豊島勢は湊城を急襲し、実季は檜山城に逃れて籠城策をとった。緒戦における実季の敗退は、秋田湊の国人領主の大半が道季側に付いたからであった。とくに、豊島・大平・八柳・新城らがその主力となった。つまり、安東豊島道季・戸沢盛安連合軍には秋田湊を取り巻く勢力が結集したのである。これに対して実季方の部将らは和議を結ぶしかないと考え、道季側に船越、湊といった交通上の拠点を含む秋田郡南部を譲渡するという提案をした。このとき、道季軍は追撃を加えれば実季軍を潰滅させることも不可能ではなかった。それにも拘わらず講和に応じたのは、道季や戸沢氏および近隣国人衆らに蜂起の目的が、秋田湊の共有的性格を維持し、交易の安全と収益が保障されることを目的としていたためであった。かれらは、実季による湊の一円支配を排除できたことで、目的は達成され兵を引いたのであった。
思いきった、講和条件の提示によって、ともあれ実季は最大の危機を脱することができた。また、秋田氏の内訌をみた南部信直が鹿角郡から秋田領へ進撃を開始していたことも講和を急がせた。南部氏は秋田実季の軍が湊勢に押しまくられている情報を得て、好機到来と考え、ただちに比内地方の北・大湯らをして秋田に侵攻させたのである。しかし、実季側もこのような南部氏の動きを予期していて、ただちに備えを固くして阿仁に攻め込んだ南部勢を撃退している。
さて、実季と道季両者間の講和は一ヶ月ももたずして敗れた。態勢を整えた実季が反抗に転じたのである。反抗に先立って実季は越後の本庄氏に誼みを通じ、さらに由利衆らに背後から道季勢っを挟撃するように働きかけた。その結果、由利衆の赤尾津治部少輔と弟である羽川新介が味方となって奮戦した。さらに、仁賀保氏らにも助勢を求め、道季を打ち破り、戸沢氏の援軍も撃退した。勝ちに乗じた実季勢は追撃の手をゆるめず、男鹿方面に進撃し、両者は船越川流域で激突した。この合戦で、道季側は致命的な敗北を喫し、最期の拠点である湊城に立て籠った。
実季は由利衆らの援軍を得て湊城を総攻撃し、たちまちのうちに湊城は落城して、道季はかろうじて仙北方面へ落ちのびていった。かくして、安東氏の領国を二分して争われた湊檜山合戦は実季方の勝利に終わった。
大名権力の確立
湊檜山合戦は六ヶ月に及んだが、合戦の結果、実季は秋田湊、豊島、新城、大平などの領域を完全に掌中に収めることができた。とくに湊の交易を一円支配においたことで、秋田平野全体を掌握でき、秋田郡が領国として形成された。それは、北羽内陸諸領主との間における政治権力、経済力に大きな格差をもたらしたのである。一方、戸沢氏は角館に戻って領内の引き締めに専念することとなり、安東氏を打倒して大領国を形成する夢はまったく打ち砕かれたのであった。
敗れた道季はのちに戸沢氏を頼り、南部領に逃れ、翌年七月に豊臣秀吉に湊家の再興を願い出たが許されなかった。こうして内戦に勝利を得た実季は、家臣団の再編など支配体制の整備に努め、近世大名・秋田氏として雄飛する機運をつかんだ。そして、天正十七年(1589)、実季は初めて秋田城介を名乗り秋田を姓とするようになった。
ちなみに、鎌倉・室町時代の記録や文書では安東氏と記したものがほとんどであり、秋田氏となったのは実季が初代ということになる。しかし、この秋田氏の内訌は豊臣秀吉の惣無事令違反に触れるものとして「私戦」と見なされた。実季はその弁明のために上洛し猛烈な中央工作を行い、危機を克服することに成功した。そして、天正十八年(1590)、小田原参陣によって秀吉から本領を安堵されて豊臣大名の一員に列なることになった。
秀吉に安堵された領知は五万二千四百余石であったが、太閤蔵入地二万六千二百余石を設定された。これは、惣無事令違反に対するペナルティであったといよう。豊臣政権下では秋田地方の太閤蔵入地の代官に任命され、また朝鮮出兵のための安宅船や伏見作事用の材木を運送するなどの賦役を担った。慶長二年(1597)から秋田湊城の大改築に着手し、一族にも「秋田」姓の下賜を行っている。
近世大名へ
ところが、関ヶ原合戦後の慶長七年(1602)に秋田氏は、佐竹氏処分の余波を受けて常陸宍戸五万五千石への転封を命じられた。
そのため、秋田の大名でもなく秋田城介でもない者が秋田の姓を名乗れないと思ったのか「秋田」姓を廃し、敗れはしたが先祖である安日(あび)が神武天皇の東征に対して生駒嶽で戦った、という伝承にちなんで「伊駒」姓を名乗った(のち「秋田」姓に復姓)。その後、実季は寛永七年(1630)に伊勢国朝熊へ閉塞を命じられた。実季の子、俊季は正保二年(1645)に陸奥三春に移封され、三春五万石の大名として幕末に至った。
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