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明石氏
●竹丸に桐
●宇多源氏赤松氏流/明石国造の後裔?  
・『見聞諸家紋』に見える。  


 中世の播磨国で、有力な地位を占めていた武将として明石氏の存在が知られている。明石氏は応仁の乱以前から、明石地方の支配者として浮上、応仁の大乱で武功をあげ、中央でもその存在を知られるようになった。明石氏は明石郡伊川城主で、村上源氏赤松氏流という。別説によれば、古代の明石国造の後裔で大倭国造の一族ともいわれる。明石国造家は明石郡司をつとめ、子孫は鎌倉時代にも栄え、のちに赤松氏の重臣となったとされる。
 明石氏で歴史の表舞台に初めて登場するのは、明石郡大領をつとめた明石貞根という役人で、延喜六年(906)、穀物五千斛を献上したことにより外従五位下を授位されたことが『扶桑略記』にみえる。次に姿をあらわすのは、美作国久米郡稲岡荘の預所を務めた明石定明である。定明は、保延七年(1141)、漆間時国を襲撃し殺害に及んでいる。漆間時国は我が国の浄土宗の開祖として知られる法然房源空の実父で、臨終に際し我が子勢至丸(のちの法然)に復讐の無益を説いて死去したといわれる。
 鎌倉時代になると、幕府の引付衆のなかに、明石左近将監兼綱の名が知られる。その他、明石孫次郎行景・同民部太夫行宗・同長門介盛行らの明石姓の人物が引付奉行人として散見している。さらに、室町幕府初期の奉行人のなかにも、明石縫殿太夫や同因幡入道法準が名を列ねている。しかしながら、これらの人々は、戦国期の明石氏とは直接結びつかないようだ。

国人領主に成長

 播磨明石氏については、如意寺文書の永享二年(1430)のものに、明石一族の名が見えている。まず六月、明石対馬入道沙弥性会が、如意寺の曼陀羅供養のために、自身が保有する玉津保内の名田一段を寄進。九月、明石長門入道沙弥性明が性会と同じく曼陀羅供養のための田地一段を寄進している。この両名は同族であることは間違いない。明石氏が寄進した土地は、すべて玉津保内にあり、明石氏がこの地域に勢力を築いていたことがうかがわれる。『見聞諸家紋』には、明石越前守尚行の家紋として「竹丸に桐」が記されている。
 明石氏は播磨国守護赤松氏に属しながら、その基盤を維持していたようだが、嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺害したことで、満祐は山名持豊らの猛攻により、満祐は自殺、赤松惣領家は滅亡した。以後、播磨国は応仁の乱まで山名氏の支配下に入ることになり、明石氏は不遇の時代を過ごすことになる。
 その後、赤松氏は再興したものの、赤松円心以来の播磨領有は実現しなかった。応仁元年(1467)大乱発生とともに、十三歳の幼主赤松政則をもりたて播磨奪回に赤松一党は奮闘した。同年五月、一条大宮の館で奮戦する細川勝久を援けるため赤松氏は急行し、西軍の甲斐・朝倉勢を追撃、そして廬山寺の西で山名教之勢と激戦になった。この合戦で、明石尚行は山名氏の家臣で大力者として聞こえた片山備前守と山名孫四郎を討ち取る大手柄をたてた。

戦国争乱と明石氏

 その後も奮闘を重ねた明石氏は、赤松氏の重臣である浦上氏の信頼を得て、尚行は明石郡の郡代ともいうべき地位についた。しかし、長享ニ年(1488)播磨守護赤松政則は、守護代別所則治に命じて、赤松範行を伊川荘の代官に任命。そして赤松範行の又代官として、明石周防守良観を補任した。そして、別所氏の影響力は明石郡 北部まで拡張し、戦国末期までこの枠組みは変わらなかった。
 天文年間(1545年頃)備前守正風が出、その子仙惠、孫左近が秀吉に仕えた。また、正風の嫡子・左近大夫貞行、その子安正は宇喜多秀家を補佐した。関ヶ原の合戦後、安正の子安行は黒田長政に仕えて、黒田藩明石氏の祖となった。
 天正五年(1577)三月、羽柴秀吉が播磨に入国した。播磨の国人たちは毛利方か織田方かの二者択一を迫られる。このとき、播磨の大半の武士が別所氏の拠る三木城に入り、反織田の旗色を鮮明にするなかで、明石則実は三木入城の道を選ばず、秀吉陣営の一員となり、豊臣政権成立過程において、姻戚関係にある黒田孝高とともに政権の一翼に連なった。天正十三年(1585)、高山重友の明石受封にともない、住み慣れた明石を離れ豊岡に転出、大名の地位を確保した。
 ところが、文禄四年(1595)七月、関白豊臣秀次事件に連座、切腹・除封という処分に遇い、ふたたび明石の地を踏むことはなかった。先にもふれたよう明石一族のうち黒田氏に仕えて九州に赴いた者もいたが、大半は伊川谷に土着、帰農していった。・2004年09月30日
・写真:中世、明石氏が拠った明石城祉(現在の城址は江戸時代のもの)

→備前明石氏へ


■参考略系図
 

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