中世の播磨国で、有力な地位を占めていた武将として明石氏の存在が知られている。 美作の国人聴取明石氏は、系図によれば播磨明石氏と同族になっている。和気郡坂根城主・明石源三郎景憲の子とされる飛騨守景親の代からその名があらわれてくる。景親は、和気郡天神山城主浦上宗景の老臣の一人で、永禄十年(1567)の三村元親との明禅寺合戦と備中斎田城攻めで宇喜多直家に加勢している。天正五年(1577)、直家が天神山城を攻めたとき、弟景季とともにこれに内応し、浦上氏滅亡に一役買った。 浦上氏滅亡後は、宇喜多氏の客将となり磐梨郡熊野保木城に拠った。以後、備中高松城攻めや小田原攻めなどにも宇喜多氏に属して出陣し、功を立てている。天正十二年(1584)、従五位下飛騨守に叙任された。 弟の景季は宇喜多氏のもと、和気郡北方・岩戸城に入り、天正六年(1578)戸川秀安と、尼子勝久・山中鹿介ら尼子再興軍が籠城する播磨上月城攻めに出陣した。のち全登の次子景行を養子にして家督を譲り、隠居した。 景親の子が有名な明石全登である。全登は、洗礼を受けジョバンニ・ジュストと称したキリシタン武将でもあった。景親の死後、家督を継ぎ、宇喜多氏の客将として磐梨郡熊野保木城に拠った。知行三万三千石余。信仰心が厚く、宣教師を領地に呼んで布教させたという。 慶長四年(1599)、宇喜多家御家騒動により、戸川・宇喜多・花房ら宇喜多家の譜代家臣が大量退去するという事件があった。以後、全登は宇喜多家中の仕置をまかされる。関ヶ原の合戦では宇喜多軍の先鋒として奮戦するが敗北。岡山籠城を図ったがそれも成らず、備中足守に隠れた。大坂の陣では孫の宣行らを率いて豊臣方に加わって奮戦した。しかし、大坂落城後の消息は不明である。 全登の次子で景季の養子となった景行は、和気郡北方・岩戸城に入った。秀家時代の知行は二千石。関ヶ原の敗戦後は和気郡北方に隠れた。 ・写真:明石景行が拠った北曽根城址 →播磨明石氏へ ■参考略系図 |