ヘッダイメージ



中村氏
丸に九枚笹*
武蔵七党丹党流/
村上源氏赤松氏流
*赤松氏流中村氏の家紋を掲載。


 播磨国の中世土豪に、因幡との国境に近い波賀庄を領し波賀城に拠る中村氏がいた。中村氏は武蔵七党の分かれといい、『武蔵七党系図』諸本によれば秩父丹党の再有力一族であり、中村郷を名字の地とし三山谷に勢力をもった地頭領主であったとされる。鎌倉幕府草創期には、他の武蔵武士と同様に中村氏も活発な動きを示している。『吾妻鏡』には、平家追討軍中の中村右馬允時経以下の行動が描かれている。その後、本宗家は播磨国宍粟郡三方西郷に地頭職を得て西遷していく。
 弘誓院領三方荘では、嘉禄二年(1226)に源仲清が地頭職を停止されているから、この後に、おそらく「承久の乱」における勲功として新補地頭に補任されたものと推測される。
 『中村時之助文書』のなかにある正応三年(1290)八月付けの「関東下知状」にも、中村氏が武蔵国から宍粟郡三方西郷に移ったことが記されている。そして、少なくとも1290年以前に中村氏が波賀へ移っていたことが知られる。
 中村氏が武蔵国秩父郡から遠く播磨国三方西庄まできたのかは、

 ・遠隔の地に所領を得て移住するのは鎌倉時代中期以降の風潮であった。
 ・宍粟郡奥地の鉄資源と森林資源を幕府の手中に納める狙いがあった。
 ・播磨の守護を六波羅探題が兼務していたので、膝下を北条氏の被官で固めようとした。

 などが、考えられる。鉄資源を狙ったということは、同じ丹党一族の大河原氏が、 備前長船住の刀匠に太刀を鍛えさせている事実からもうなづける。

室町期の中村氏

 十四世紀、鎌倉幕府が滅び建武の新政が発足したが、戦後の武士に対する行賞の不公平さは、武士たちを新政政権から遠ざける結果となった。また、建武の新政によって播磨は新田義貞の所領となったが、義貞は三方西庄を大徳寺領として寄進してしまった。このような状況下の建武二年(1335)、武士の与望を集める足利尊氏が後醍醐天皇に背いた。翌年、戦いに敗れた尊氏は九州に走ったが、同年九州の武家方を糾合して東上し、楠木正成、名和長年らを破り、持明院統の光明天皇を擁立、建武の新政は瓦崩した。これより、南北朝時代となる。
 このとき、中村氏は尊氏に従ったというが、尊氏の有力与党である赤松氏に従ったものと思われる。このことは、室町時代、中村氏に対して赤松氏の臣浦上氏との間の感状、書状が残されていることからも推察される。南北朝期以後の播磨守護職は赤松氏が代々相続したが、嘉吉元年(1441)将軍足利義教を赤松満祐が弑殺し、幕府軍に討伐され赤松氏宗家は滅亡した。世にいわれる「嘉吉の乱」で、このとき中村弾正忠貞友は幼く、母や被官に連れられ宍粟郡有賀まで逃げていったとされる。
 赤松氏没落後、播磨は山名持豊(宗全)が守護職に補任された。これに対して、赤松氏の一族は播磨回復を狙って何度か兵を起こしたが、ことごとく失敗した。長禄元年(1457)赤松氏の遺臣十余人が、吉野に入って神鏡を奪い返し、南帝も殺害した。この功により赤松氏の再興が許され、当時五歳の赤松政則が赤松家の当主となった。しかし、播磨の回復はならなかった。
 応仁元年(1467)「応仁の乱」が起こると、赤松政則は細川勝元方について山名氏を攻略すべく播磨へ向かった。政則の下には赤松氏ゆかりの武士たちが馳せ集まり、政則軍は播磨国を討ち平らげると長水・篠の丸をはじめとした諸城を回復し、播磨・美作・備前の三国の守護に返り咲いた。しかし、応仁の乱をきっかけとして、以後、天正年間(1573〜)にいたるまでの一世紀余はいわゆる戦国時代となった。
 京都相国寺鹿苑院内蔭涼軒主の日記で、永享受七年(1435)から明応二年(1495)までの記録である『蔭涼軒目録』には、中村氏一族の名が散見し、鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱の時代に、赤松氏とともに足利尊氏に与して激動の時代を生き抜いたことがうかがわれる。
 延徳三年(1491)将軍義稙が六角高頼征伐を令したとき、中村与三兵衛尉が敵の頚を取ったことが、『蔭涼軒目録』から知られる。また、円尾氏(龍野市)所蔵の文書には、文明十三年(1481)二月、中村又三郎の子の元服式に赤松氏の重臣浦上則宗が参列し、則宗の宗の字を贈っている。そして、又三郎の子は宗国を名乗っている。

●右家紋
……………
見聞諸家紋に、中村河内守の紋として見える。そして「根本亀甲内桐也、長禄年中取献神璽之時、父弾正依令討死賜菊」と注記があり、もともとは桐であったものが、神璽奪回の功で菊を賜ったことが記されている。諸家紋には、赤松老臣の浦上氏・小寺氏・依藤氏・明石氏らの家紋も収録されている。ただ、この中村氏は波賀中村氏とは別流の中村氏である。


戦国時代の播磨

 戦国時代の播磨は、山名氏の侵入、赤松氏の衰弱、浦上氏の内紛、尼子氏の侵入、毛利氏の勢力拡張と、絶えることのない政変のなかにあった。こうしたなかで、中村氏一族は赤松氏に属して働いていたことが知られる文書が伝わっている。
 享禄四年(1531)、幕府管領細川氏に内紛が起こり細川晴元と細川高国が争った。はじめは高国を支援する浦上村宗に従って戦功を立てた中村助三郎であったが、村宗の勢力を削ごうとする赤松政村に従い、浦上一族内で村宗に対抗していた浦上国秀らとともに細川晴元の支援にまわった。結果は晴元の勝利となり、中村助三郎は浦上国秀から所領を与えれられている。


波賀城に登る



播磨と因幡の国境に近い波賀は、平安時代、石清水八幡宮の荘園で伯可荘と呼ばれていた。その地を鎌倉時代から戦国時代末期まで支配したのが中村氏で、十三世紀中期に中村光時が武蔵国から入部してきたのが始めと伝えられる。波賀城は国道29号線を眼下に見る山上に築かれ、その石垣は中世と近世の中間的な特長をもち、城そのものが過渡期的な存在として貴重な遺構となっている。城址の整備と村おこしの一環として、現在、小さな天守も建立されている。城址からの眺望は抜群で、高所恐怖症気味の人にはちょっと腰が引ける風景が展開する。


 『宍粟郡守令交代記』には、天文十一年(1542)に尼子氏が大挙して播磨に侵攻し、従う者には所領を安堵し、従わない者は攻め破った。結果、播磨はほとんど尼子氏に従った。宍粟郡に尼子時代があったといわれるところである。天文七年三月、中村三郎左衛門尉にあてた尼子晴久の家臣、津田家職・弥延之家からの「和介千松の領地を取り上げ新たに所領としてあたえる」という内容の書状が残されている。尼子氏が播磨侵攻に際して、有力武士の懐柔をはかっていたことがうかがわれるのである。
 このように『中村氏文書』には、中村氏が所領を拡げつつ懸命に生き残ろうと務めている様子が知られ、戦国の世に生き残ることがいかに難しいものであったかを物語っている。
 その後、赤松氏、尼子氏、浦上氏などは滅亡、あるいは没落し、江戸時代を迎えると、宍粟郡は池田氏が領するところとなった。延宝六年(1678)、池田次郎丸数馬恒行が死去し、宍粟藩が絶えたときの引継書類のなかの「宍粟江戸両所ニ罷在人数帳」に、

 五拾石 有賀村地侍 中村九郎左衛門

と見えることから、有賀村地侍として五拾石の知行を受ける池田氏の家臣となっていたことが知られる。その後、中村氏がどのような変遷をたどったかは詳らかではない。

播磨中村氏異聞

 播磨国赤松氏の家臣には何流かの中村氏がいた。先の赤松氏系をはじめ、藤原姓とするもの、佐々木氏流とするものなどさまざまある。波賀町の中村家の場合、奥州信太郡を本貫地としたが戦功によって武蔵国秩父郡三山郷に移り、弘長年中(1261〜63)に播磨・美作に所領を得て、播磨に移り、元弘・建武のころ中村土佐守宗国が赤松氏の被官となったとしている。

【参考資料:波賀町史・武蔵武士・秩父丹党考 ほか】

→赤松氏流中村氏系図を見る  →異本中村氏系図を見る  →上中村氏の情報


■参考略系図
・波賀中村氏の系図を掲載。その出自にはさまざまな説があるが、武蔵七党のうち丹党の嫡流とされる中村氏の後裔とするものが妥当なようだ。とはいえ、その初めのころに関しては異説があり、一様ではないようだ。



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