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肥前千葉氏
●月星(九曜に半月)
●桓武平氏良文流
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千葉氏は平良文の後裔で、いわゆる桓武平氏である。良文の曾孫常将がはじめて千葉介を称し、以後、代々の惣領は千葉介を称することがならいとなった。常将から五代の千葉介常胤は、源頼朝の挙兵に真っ先に駆けつけ、鎌倉幕府の創業に尽力した。常胤は源頼朝に従って奥州合戦などに戦功を挙げ、陸奥国、九州などに膨大な所領を与えられた。そのなかに、肥前国晴気(はるけ)庄が含まれていて、のちに九州千葉氏が起こるもとになった。
千葉氏は全国の所領を支配するのに際して、庶子や家臣を代官として現地に送り、惣領は鎌倉にあって幕府に出仕していた。鎌倉中期の千葉介頼胤のとき蒙古(元)と日本との間で緊張関係が生じ、幕府は蒙古の来襲に備えるため、九州に領地を持つ御家人の九州下向を命じた。千葉頼胤も肥前国小城郡周辺に所領を持っていたため九州に下向した。そして、「文永の役」に出陣し、蒙古軍の毒矢をうけ九州で戦死してしまった。
父の死後、子の宗胤は氏神である千葉妙見社において家督を継承するまもなく、千葉新介のまま九州へ下向し、肥前国小城郡晴気城に駐屯した。弘安四年(1281)六月、ふたたび元は大軍をもって博多湾岸に来襲してきた。しかし、文永の役のときと同じく、時ならぬ台風によって蒙古軍は壊滅した。その後、幕府は博多湾の警備のために関東御家人たちの帰郷を認めず、宗胤は大隅守護職に任じられ、下総国に帰ることができなくなってしまった。
千葉氏の分裂
一方、下総では宗胤の弟胤宗が、一族・家臣たちから擁立される形で千葉介に就任した。かくして、千葉氏は下総と九州とに二分され、胤宗の後が下総千葉氏となり、宗胤の子孫は肥前国小城郡晴気庄に定住して九州千葉氏の祖となったのである。以後、九州千葉氏は肥前の豪族たちを被官化して勢力を伸ばし、室町期には少弐氏と並ぶ肥前最大の豪族に成長した。
元弘元年(1331)、胤貞は北条高時に命じられて肥前国の反乱軍を討伐し功をあげた。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇に通じて幕府に反旗を翻すと、胤貞は足利方に寝返って倒幕に貢献した。後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると新政府に仕え、建武元年(1334)九月、後醍醐天皇の加茂神社行幸に随行している。その後、胤貞は下総国の千田庄周辺の所領に下向したと伝えられている。
建武二年(1335)、鎌倉にあった足利尊氏が新政に反旗を翻し、京都に攻め上った。しかし、翌年一月、北畠顕家・楠木正成らとの戦いに敗れた尊氏は京都を放棄、翌二月には追撃してきた楠木正成・新田義貞の軍と摂津打出、豊島河原で戦って再び敗れ、九州へと落ちていった。この軍中に、千葉胤貞、相馬親胤らが従軍していた。
九州に下った尊氏のもとには大友・少弐氏らが参陣し、九州宮方の菊池武敏・阿蘇惟直らと多々良浜において戦った。このとき、菊池氏ら九州宮方は圧倒的な人数を揃え、尊氏はとても勝ち目がないとして自刃しようとしたという。しかし、結果は尊氏方の勝利に帰し、軍を立て直した足利尊氏はふたたび京都をめざして西上した。そして、楠木正成を湊川に破り、新田義貞を打ち破って、京都を制圧すると足利幕府を樹立したのである。
尊氏軍に敗れた後醍醐天皇は吉野に走られ、以後、半世紀にわたる南北朝の動乱が続くことになる。
中世の動乱
九州千葉氏は胤貞のあと、胤泰、胤基と続き、胤鎮の代になると小城・佐賀・杵島の三郡を領する肥前の有力者となった。ところが永享九年(1437)、重臣の中村胤宣(公廉)が大内氏に通じ、胤鎮の弟胤紹を奉じて謀叛を起こし、窮した胤鎮は出奔して没落となった。この事件は『鎮西要略』に、「千葉家の家宰中村左衛門五郎逆心を発し、中国の大内氏と通じて千葉胤鎮を廃し云々」と記されている。
かくして、胤紹が大内氏の庇護のもと千葉氏の当主となり、胤紹は胤宣を小城・佐賀・杵島三郡の郡代に任じた。一躍、千葉家中の実力者となった胤宣は、藤津の大村氏を籠絡して、大村氏領の大草野村北方の地を搾取するなど、権勢をほしいままにした。『九州治乱記』によれば、幕府は胤紹を千葉氏の嫡流として小城郡を賜い、胤宣も御家人に列したとある。そして、胤宣に大内持世と談合して忠節を致すべきを命じ、出奔した胤鎮を捜索して沙汰すべきを命じている。
このような胤宣の専横を快く思わない胤鎮の旧臣らは、文安二年(1445)、胤鎮を擁して胤紹・胤宣追放の兵を挙げた。両軍は各地で戦いを繰り返したが、胤鎮方の勝利となり、敗れた胤紹・胤宣は国府に退却し、ともに戦死をとげた。かくして千葉氏の家督に復活した胤鎮は、小城牛頭山に城を築いて本拠とし、享徳のころ(1452〜54)には、肥前国主と呼ばれる存在となった。そして、小城を国府といい、これまでの国府は府中と称して区別させるほどであった。
胤鎮は康正元年(1455)に死去し、嫡子の元胤が家督を継承した。元胤の家宰は中村播磨守であったと『鎮西要略』にみえ、播磨守はさきに戦死した胤宣の子播磨守公頼に比定されている。中村氏の復活としては早すぎるようだが、何か千葉氏と中村氏との間には伺い知れない紐帯があったのかも知れない。
千葉氏は元胤の時代が全盛期で、杵島郡、小城郡、佐賀郡を支配して小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。また、『鎮西要略』『九州治乱記』などにも、「千葉氏の富麗隆なり」「千葉家の全盛」と書かれ、その繁栄のほどがうかがわれる。
抗争につぐ抗争
寛正五年(1464)元胤が早世すると、千葉氏にも暗い蔭が生じるようになってくる。元胤のあとは教胤(弟ともいう)が継いだが、十四歳の少年であり、中村越前守が教胤を補弼した。他方、胤鎮に討たれた胤紹の子胤朝は、若い教胤が千葉氏を継いだのをみると、これにとって代わらんとして大内政弘を恃んで九州探題渋川教直に通じた。これに、与賀・川副を領する今川胤秋が加担した。
翌六年、教胤の家宰中村胤頼が佐嘉郡新庄にあった今川館を攻撃、胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引いた。翌文正元年(1466)、千葉教胤はふたたび胤秋を攻撃、対する今川勢は探題渋川氏と結んで、応仁元年(1467)小城に進攻した。これを迎え撃った教胤は探題・今川連合軍を撃破、今川胤秋、胤弘の兄弟は戦死し、与賀・川副は千葉氏が収めた。その後の文明二年(1470)、胤秋の子義秋が勢力回復を狙って挙兵したが、千葉勢の前に敗れ九州今川氏の嫡流は断絶した。
千葉氏と今川氏が戦った応仁元年、京都では「応仁の乱」が勃発し、世の中は戦国乱世へと推移していった。乱の余波は九州にもおよび、大内氏と少弐氏とが筑前で戦いを展開し、少弐氏の当主教頼が討死した。
文明元年、千葉教胤は大村家親を討たんとして藤津郡に出陣したが、おりからの悪天候によって乗船が転覆して水死を遂げてしまった。その結果、胤朝が迎えられて千葉氏の家督となった。ところが、重臣の中村胤明と岩部常楽とが反目するようになり、ついに胤明は常楽のことを胤朝に讒言、これを信じた胤朝は常楽を討とうとした。この事態に対して常楽は僧籍にあった胤朝の弟胤将を擁立し、少弐教尚を恃み一揆を起こした。
一揆は中村胤明を討つと、小城城下に入り放火したため在家寺院ことごとく焼亡した。しかし、胤朝を屈服させることはできず、ついに将軍の旨がくだって、胤朝と胤将兄弟の間に和議が成った。ところが、それから十六年後の文明十八年(1486)、胤将が胤朝を襲って殺害した。これをきいた少弐政資は、胤将を討ち取ろうとしたが、将胤は出奔し千葉氏は断絶に直面した。そこで、政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気城主とした。
ここに、胤朝の弟胤盛の子胤棟(興常)がいた。胤棟は大内氏を頼って育ち本家に敵対心をいだき、延徳三年(1491)、大内政弘の支援をえて胤資と戦った。そして、牛頭山城に拠って東千葉(祗園千葉とも)を称した。こうして、以後、晴気の本家を西千葉とよび、千葉氏は東西の両千葉家に分かれたのである。
乱世に翻弄される
北九州では少弐氏と大内氏の抗争が繰り返され、西千葉氏は少弐方、東千葉氏は大内方に分かれて互いに変転しつつ対立抗争した。明応元年(1492)、少弐政資は筑前において大内氏の重臣陶興房と戦い、翌年には松浦郡に兵を進めた。つづく明応四年には、政資の子高経が上松浦において大内方の原田興種と戦い、これを打ち破った。これらの陣に西千葉氏は高木・龍造寺氏らとともに従っていた。
やがて、大内氏の本格的な少弐攻めが行われるようになると、少弐政資・高経父子は太宰府を退き、政資は筑前岩門城に、高経は肥前勝尾城に入った。しかし、岩門城は落城し、政資は千葉胤資の守る晴気城に入った。ほどなく、勝尾城も落ち、高経も勢福寺城を経て晴気城に落ちてきた。肥前に攻め込んだ大内軍は晴気城を攻撃、そのなかには牛頭城の東千葉興常も加わっていた。
大内軍の攻撃を防ぎ切れないと感じた胤資は、政資と高経を多久城に落すと、みずからは晴気城から打って出て戦死した。晴気城から脱出した政資と高経であったが、高経は山中で討ち取られ、多久城に入った政資も万事窮して切腹した。少弐氏父子を討ち取った大内義興は、戦後処理を行い、千葉興常は肥前の守護代に任じられた。こうして、千葉興常は肥前の有力者となり、龍造寺氏や多久氏、後藤氏らは東千葉氏の下風にたっていたようだ。このころの龍造寺氏の名乗りに胤の字が多いのは、千葉氏から一字を賜った結果であろう
一方、滅亡したと思われていた少弐氏が、永正元年(1504)、豊後の大友氏や少弐一族の横岳資貞らの支援によって資元が勢福寺城に入った。これに、小城高田城の千葉胤繁らが協力、さらに将軍家の意向もあって大内氏と少弐氏との間で和議が成立し、少弐資元は肥前守護となった。しかし、享禄元年(1528)、資元が太宰府に進出したことで、少弐は大内氏と対立するようになった。
享禄三年、大内義隆は少弐資元・冬尚父子の討伐を筑前守護代の杉興運に命じた。杉興運の進軍を見た筑紫尚門、横岳資貞、千葉胤勝らは杉軍に馳せ加わり、たちまち、東肥前の三郡は大内軍に制圧された。一方、少弐氏は龍造寺氏をはじめ、小田・犬塚・馬場・江上・本告氏らを動員し、両軍は神埼郡の田手畷で激突したが、この戦いにおいて、龍造寺氏配下の鍋島清久は赤熊(しゃぐま)という異様な出で立ちで大内軍の側面を攻撃した。これに浮き足立った大内方は、ついに惣崩れとなって敗退した。
少弐氏の衰退
天文二年(1533)、大内義隆は陶尾張守を大将として北九州に兵を進めた。これに筑紫氏、龍造寺氏一族の胤久、そして、千葉喜胤らが加わった。少弐氏は勢福寺城にあって、龍造寺・馬場・横岳・小田・犬塚氏らを配下として陣を張った。戦いは年を越し、一進一退を続けた。そして七月に至って、龍造寺家兼が折りからの大風雨のなかをついて陶の本陣を奇襲、陶氏らは退却していった。田手畷の戦い、陶の本陣奇襲などで少弐方の勝利に貢献した龍造寺家兼は、次第に少弐氏家中で重きをなすようになった。
重なる敗戦に業を煮やした義隆は、十月、少弐氏を攻撃した。千葉興常・喜胤父子、波多下野守、さらに龍造寺家兼までが戦況の不利を悟って、少弐資元に和議をすすめた。これには、資元らも同意するしかなく、ついに勢福寺城を明け渡した。ところが、義隆は少弐氏の領地である三根・神埼・佐賀を没収し、梶峰城に入った資元を攻撃した。大内軍は千葉興常のいる小城に着陣し、興常をはじめ後藤氏、草野氏、波多氏らは反少弐の旗をかかげて大内軍とともに梶峰城を攻撃、ついに資元は自刃して果てた。
冬尚は小田氏の蓮池城に匿われ、小田氏は少弐氏再興を図った。これに龍造寺家兼も加わったが、冬尚は少弐氏が衰微したのは、家兼が勢福寺城を明け渡すように進めたことにあるとして、家兼の居城を攻撃した。このような冬尚の仕打ちに対して家兼は、子の家門を少弐氏の執権とし、それに江上氏、馬場氏を配して肥前の安定を図った。
その後、千葉氏に内紛が生じると、有馬晴純が小城郡内に進出しようとした。これを見た家兼は、千葉・少弐・龍造寺が協力してこれを防ごうと提案して、千葉喜胤の養子に冬尚の弟を入れ、喜胤と対立していた千葉胤連の養子に龍造寺氏と姻戚関係にある鍋島清房の次男彦法丸(のちの鍋島直茂)をいれ、三家の協力体制をつくりあげ、有馬氏の進出を阻止した。
これで一件落着かた思われたが、龍造寺一族の勢力拡大を危惧する馬場頼周は、冬尚を巻き込んで龍造寺排斥の謀略を進めた。そして、天文十三年、肥前西部から高杵郡を中心に、有馬氏、波多氏、多久氏らに謀叛を起こさせ、その征伐に龍造寺一門を出陣させた。龍造寺氏は馴れ合いの謀叛に翻弄され、諸所で手痛い敗北を喫して、ついに佐賀へと敗退した。有馬氏、波多氏らは佐賀城を包囲し、ついに家兼は筑後へ落ちた。筑前に逃れようとした家門らは途中で討たれ、勢福寺城に向かった周家らも待ち伏せによってことごとく討たれた。こうして、龍造寺氏は馬場氏の謀略によって壊滅的打撃を被ったのである。
龍造寺隆信の台頭
龍造寺氏の没落によって、龍造寺氏と結んでいた小城の千葉胤勝も小城を追われた。その後、鍋島清久父子を中心として、家兼の肥前復帰が図られた。これに、千葉胤勝、胤連らも加わり、鴨打・徳島・持永氏らの支援を得て、牛頭城に拠る馬場頼周・政員父子を攻め、綾部城に逃れようとする馬場父子を討ち取った。家兼は水ヶ江城に復帰し、出家していた孫を還俗させて龍造寺氏の家督とした。これが、のちの龍造寺隆信である。
隆信は大内義隆と結び、少弐氏の勢力と戦い着々と失地を回復していき、天文十六年には肥前の守護代に任ぜられた。そして、勢福寺城にいた少弐冬尚を筑後に追って、龍造寺氏の勢力をさらに拡張した。ところが、天文二十年、大内義隆が陶晴賢の謀叛で討たれたことで情勢は一変した。反龍造寺勢力によって少弐冬尚が迎えられ、反龍造寺方は佐賀城に攻め寄せてきた。これには隆信も打つ手がなく、筑後の蒲池氏を頼って落ちるしかなかった。
その後、毛利元就が陶晴賢を討ち取ると、隆信は毛利氏と結んで、勢力の回復を図った。そして、永禄二年(1559)、勢福寺城を攻め少弐冬尚を討ち取った。このとき、晴気城の東千葉胤頼は、西千葉胤連に攻められて自刃して果てた。胤頼の子胤誠は山内の神代勝利を頼って落ち、東千葉氏は滅亡した。
少弐氏を滅ぼした隆信は、つづいて馬場・横岳・犬塚氏らを降し、神代氏を追い、江上氏を配下に収めて東肥前を制圧した。以後、龍造寺隆信は北九州一円に猛威を振るう存在に成長するのである。
西千葉胤連は龍造寺隆信の部将となり、各地の戦いに出陣した。胤連はさきに彦法師丸を養子としていたが、嫡男胤信が生まれたことで彦法師丸が鍋島家へ帰っていった。胤連は彦法師丸を可愛がっていたようで、みずからの隠居料の小城郡美奈岐八十町をはなむけとして譲っている。
千葉氏、近世へ
天正十二年、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍と戦って戦死すると、鍋島信生(彦法師丸)が龍造寺氏の執政としてその舵取りを務めた。その結果、龍造寺氏に代わって鍋島氏が、肥前一国の大名となり近世佐賀藩主となった。
種連のあとを継いだ胤信は、作兵衛と名乗って龍造寺氏に仕え、のち義兄鍋島直茂に仕えた。直茂は胤信に鍋島姓を与え、一門に列して鍋島忠右衛門と称した。文禄元年(1592)の文禄の役では、鍋島直茂に従って出陣した。胤信は男子に恵まれなかったため、鹿江茂次の二男の常貞を聟養子に迎えた。常貞も「鍋島」姓を賜って鍋島玄蕃を称し佐賀藩初期の藩政を支えた家老の一人となった。
常貞は鍋島一門・家老としてはじめ千六百石、晩年には三千石を知行する大身となり、子孫は代々佐賀藩鍋島氏の重臣として続いた。・2005年3月7日
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■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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