高梨氏
石 畳
(清和源氏井上氏流)


 高梨氏は北信濃に勢力を張った清和源氏井上氏の分れといい、戦国時代には小布施町・中野市・山ノ内町・木島平をほぼ支配圏とした有力国人領主であった。中世の系図集である『尊卑分脈』を見ると、井上党の嫡流となった時田太郎光平は「幡文遠雁」、須田九郎為実は「幡文鸚鵡」、そして、高梨七郎盛光は「幡文石畳」と記されている。系図で見る限り三人は兄弟で、子孫はともに北信濃の豪族として戦国時代まで勢力を保った。しかし、高梨氏の出自に関しては、奥州阿部氏の流れをくみ、東北から信州へ来住したとする仮説も出されるなど、清和源氏井上氏流とする真偽のほどは明らかではない。いずれにしろ、高梨氏の家紋の記録は『尊卑分脈』にある「幡文石畳」が初見であろう。
 石畳紋の元となった石畳は、神社の参道などに四角い板石を敷き詰めたもので「甃」とも書かれる。古来、わが国では、石を単なる物体とは考えていなかった。国歌「君が代」の一節にある「さざれ石の巌となりて…」のように、小さな石がやがて大きく成長すると考え、石にも魂があるものとされていた。いまでも、神社の境内には「さざれ石」が祀られていることが多い。むかしの日本人にとって石も生き物であり、大いに尊重されていたのである。平安中期、石畳の文様は衣服に用いられており、『年中行事』『伴大納言絵巻』などにも文様として描かれている。その文様を神社関係の家が敷石になぞらえて家紋として用い始め、やがて間接的に神社を表現するものとして神の加護を期待する武士の間に広まっていったようだ。
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・京都吉田神社境内のさざれ石

 鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』に「薬師寺公義、差物五石畳文之旗」とあるのが、石畳紋の初見で、 ついで室町時代はじめの『羽継原合戦記』に「犬甘平瀬島の一党は甃」を用いたとあり、武家家紋集として有名な 『見聞諸家紋』には土屋氏の「三つ石畳」、安富氏・矢野氏・梶原氏・入江ら氏の「四つ石畳」紋が収録されている。中世において、すでに多くの武家の間で石畳紋が用いられており、とくに土屋氏の三つ石畳紋はその代表紋として有名なものである。高梨氏の石畳紋も相当古い時代から用いられていたことは、南北朝時代後期に成立した「尊卑分脈」に記されていることからも知られる。
 石畳紋の図柄は真四角の石が一個というのが基本形である。しかし、真四角の石が一個だけでは四角い餅などと間違えられるため、数個の石を連続して配置する形で用いられることが多い。三つ石、五つ石などであり、これが石畳紋である。たくさん連続したものはチェック模様であり、江戸時代に流行した市松模様も石畳紋の発展形とみなすこともできようか。
 高梨氏の家紋の図柄に関しては、一説に「丸の内に隅立四つ石」とするものがある。高梨氏の家紋の図柄を知る史料としては、米沢藩士の家紋と出自を抄述した『米府鹿子』で、そこに見える高梨氏の石畳紋は多数の石を組み合わせた図柄となっている。おそらく、中世においては単純明快な「四つ石」であったものを、戦乱のおさまった江戸時代になると宗庶の区別や家紋の格式付けなどから石の数を増やしたのではなかろうか。ただ、同じく石畳を家紋とした奥州の中世武家鬼柳氏の旗紋を見ると「多石紋」であり、高梨氏も『米府鹿子』に記されたような「多石紋」が先祖代々のものであったのかもしれない。
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・鬼柳氏の旗と据えられた多石畳紋


■ 見聞諸家紋に見える石畳紋
三つ石畳
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平氏 土屋
丸の内に四つ石畳
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細川被官 紀氏 安富又三郎元家
橘氏 矢野 ・ 平氏 梶原


■高梨氏の家伝


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