土屋氏
三つ石/九曜
(桓武平氏中村氏族/足利氏族一色氏流) |
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桓武平氏中村氏族。相模国大住郡土屋村より起こる。中村荘司宗平の子宗遠が土屋弥三郎と称したのに始まるとされている。豊前守氏遠の時、武田氏に仕え家臣となった。それとは、別の土屋氏がある。足利氏の一族一色氏満範の弟範貞を祖とする家で、範貞の曾孫一色藤次が甲斐に下り、武田氏の支流金丸氏の家名を継いだ。戦国時代、金丸虎義の子が土屋氏の家名を継いで、土屋氏となったものである。
武田氏麾下として勇名を馳せる
虎義は子沢山で男子が七人あった。長男の金丸平三郎は、二十一歳の時、信玄の弟信廉の被官落合某に殺害されたため、次男の昌次が嗣子となった。
永禄四年、昌次は十七歳で信玄に従って川中島合戦に出陣、こまめにたち働いたことが認められ、土屋と改姓するように命じられた。右衛門尉昌次と名乗るのは、ずっと後の永禄十三年からのことだが、侍大将に抜擢されたのは二十二歳という若さであった。昌次の旗印は黒地に白の鳥居で、百騎を預けられた。
元亀三年十二月の三方ケ原の合戦では、家康の家臣鳥井四郎右衛門と一騎討ちの勝負になったが、鳥井は豪の者として知られているだけに、一刀の下に昌次の甲を打ち割った。幸い明珍の星甲であったので、甲は割れたが頭じはかすり傷ひとつなく、組み打ちとなり、結局昌次が鳥井の首を討ち取った。この合戦は敵味方入り乱れての激戦となり、双方手助けの叶わぬなか、豪の者鳥井を昌次一人の手で仕止めたとあって、武名は一段と上がった。
その四か月後に信玄の陣没という事態を迎え、昌次は殉死しようとしたが、高坂弾正と馬場美濃守に諌められて思いとどまった。やがて、天正三年五月長篠の合戦を迎える。昌次は初めから死ぬ覚悟であったので、織田方が三重の柵を張り、鉄砲を撃ちかけてくるのをものともせず、一条・穴山隊と力を併せて織田軍の佐久間信盛の守備する柵を二重まで打ち破り、三の柵に肉迫した。三の柵は滝川一益隊が守っていたが、昌次の名乗りにも応答がない。突進すると、いきなり鉄砲を浴びせかけられ、壮烈な戦死を遂げた。時に三十一歳。
弟の源蔵は、秋山伯耆守信友の養子となり、二弟は金丸昌義。
三弟が金丸惣蔵で、十三の年に初陣をかざり、首級をあげるという目覚ましい働きを見て、武田水軍の将岡部忠兵衛定綱が一目惚れして、養子にもらいたいと信玄に申し入れた。この養子縁組みを機に信玄の命で土屋に改姓した。永禄十三年、十五歳のとき、正式に話がまとまって土屋惣蔵昌恒を名乗った。
武田氏に殉ず
長篠の合戦では、兄昌次をはじめ養父忠兵衛も討死。惣蔵は落ちのびる勝頼の供をして甲府に戻り、のち兄昌次と養父忠兵衛の二人の家禄を併せてもらうことになった。天正十年の天目山の武田滅亡合戦では、山中の岩陰に拠り、単身押し寄る織田兵を次々と斬って捨て、西の谷川に蹴落としたので、谷川は三日間鮮血に染まり、三日血川といわれた。今もその場所が「土屋惣蔵片手斬り跡」として残っている。惣蔵はこの地で勝頼に殉死、二十七歳。その弟源蔵も田野で殉死した。
勝頼に殉じて死んだ惣蔵には、男子が一人あった。惣蔵の家来某がその子を連れて逃げ、惣蔵と名付けて駿州興津の清見寺に預けた。惣蔵が九歳になった天正七年、家康が鷹狩の帰り清見寺で惣蔵を見かけ、言葉をかけたことから、土屋の遺児と分かり、駿府に連れ帰って秀忠に会わせたうえで茶阿の局に養わせ、成人すると平八郎忠直と名乗らせて三百石を与えた。のちに出世して上総久留里で二万一千石の大名になった。
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