島津氏
丸に十字
(惟宗流/源頼朝落胤説も) |
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島津氏の家紋は「丸に十の字」である。しかし、昔は外郭の丸はなく、単に筆書体の「十」だけであった。
すでに、先祖の島津忠久の甲冑に十文字紋があったといい、
『蒙古襲来絵巻』にも久親・久長の兵船の幡に「十文字と鶴紋」が記されている。
島津氏では二匹の龍の変体で、六孫王経基王が源姓を賜ったとき家紋として賜った昇降龍が原型であるという。
しかし、平安時代には家紋は用いられておらず、
龍に通じる引き両紋が変化したとする説も島津氏の出自にかけた作為というしかない。
室町時代になった『見聞諸家紋』に見える「十文字紋」は筆勢を残したものであるが、戦国時代後期の
旗印は丸に十字紋が描かれている。
江戸時代になって衣服などに紋を用いるようになると、
丸で囲んだ幾何学的な「丸に十字紋」に落ち着いたようだ。その結果、轡紋であるとか、
キリシタンに関わる十字架紋などと誤解されるようになったが、
十字紋の成り立ちは轡紋・十字架紋とはまったく別のものである。
では、「十字紋」とは、いったい如何なる意味を持ったものであろうか?
一つは先に記したように二匹の龍だという。からみあって昇天する様というが、これは引両から連想されたものだろう。
二つは二本の箸を交叉して出陣戦勝の呪いにしたのがはじまりだという。
三つはキリスト教の印とするもの。
四つは「十字を切る」という形の呪符からきたとするもの。五つは轡紋から転じたとするものなどといわれている。
十字は世界的な呪符で、中国では蒸餅を食べる前にその上で十字を切るという風習があった。
それが日本に伝わって、鎌倉時代には狩りの収穫に山の神・狩猟神を祭る矢口餅などの折に盛んに行われていた。
『吾妻鏡』にも「十字」と書いて「むしもち」と読む例があり、各地で食物・音物に十字を切ることが
習慣となっていた。ちなみに、忍者が九字を切ったり、民間で
安倍清明判や籠目などが魔除けに用いられるのも十字と同様の呪符である。
諸説あるなかで、四の呪符説が正しいものであろうとするのが定説となっている。十字を切る行為が災厄を打ち払い
福を招くものと信じられたこと、山の神・狩猟神を祭る矢口餅の祭りに用いられたことなどから
縁起のよい印として家紋に用いられるようになったと考えられる。島津氏が
キリスト教などの入るずっと以前より十字紋を用いられていた
ことは史料にもある通りで、キリシタンであったからとか、
十字架からとったなどという説は問題にならない。
十字紋はもっとも古い紋のひとつで歴史も古く、鎌倉時代には清和源氏の小笠原・逸見・田沢・志村の諸氏、藤原秀郷
流の内藤氏なども用いている。十字紋は島津氏の一族も用いているが、
宗家以外は十字の原形を少しずつ変えて用いたことから多彩な十字紋が生じている。
・右図:『見聞諸家紋』に見える十字紋、右:丸に筆十字紋
■島津一族の家紋
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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