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播磨島津氏
●丸に十字
●惟宗流/源頼朝落胤説も
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島津氏は薩摩を本拠とした戦国大名としてあまりに有名で、『島津氏正統系図』や『島津国史』などでは初代の忠久を源頼朝の落胤としている。しかし、島津忠久の源頼朝落胤説は、すでに江戸時代においても疑問視され、現在では単なる伝説とされている。それでは、島津氏の出自は?ということになると、惟宗姓・源姓・藤原姓の三説がある。
今日、島津氏の出自として、通説的に考えられているのは、惟宗基言の子広言が、近衛天皇の時代、播磨少掾を辞して近衛家に仕え、近衛家領島津庄の下司となって下向した。そして、広言の子忠久が島津氏の初代になったとするものだ。しかし、忠久を広言の子と確定する材料はなく、忠久は惟宗姓であったとしかいえないようだ。
島津氏の播磨土着
忠久は鎌倉に下って頼朝に仕え、文治元年(1185)、信濃国塩田荘地頭職ついで南九州の島津荘総地頭職に補任され、その後薩摩・大隅・日向守護職に補任された。さらに、承久三年(1221)信濃国太田荘地頭職を与えられ、同年に起った承久の乱に活躍したことで、一時的ながら越前国守護職にも補任された。
安貞元年(1227)、忠久は鎌倉で死去すると、嫡男の忠時が後を継ぎ、次男の忠綱は越前守護代となり足羽郡足羽山に城を構え越前島津氏の祖となった。忠綱の子忠行は母から播磨国下揖保荘を譲られ、弘安二年(1279)、下揖保と布施郷の地頭に任命された。播磨に下向した忠行は、立岡山に石蜘蛛城を築き、次第にに勢力を扶植していった。
鎌倉時代末期になると、経済の先進地帯である畿内やその周辺部では在地領主が台頭し、幕府の支配体制に反抗するようになった。かれらは悪党と呼ばれ、播磨では矢野荘を拠点とする寺田法念が同荘の別名に討ち入り、播磨の悪党の中心となった。その集団には寺田氏の一族をはじめ、近隣の在地領主や御家人などが加わっていた。矢野荘に近い下揖保郷に拠る島津忠藤もその与党として活躍した。
やがて、後醍醐天皇による討幕運動が発覚、時代は大きく激動した。そのようななかで、天皇に与して活躍したのが河内の楠木正成、播磨の赤松円心ら悪党と呼ばれる武士たちであった。
元弘三年(1333)、後醍醐天皇討伐のために西上してきた足利高氏が、丹波国篠村八幡において鎌倉幕府に反旗を翻した。高氏は近隣の諸武士に檄を飛ばしたが、これに忠藤の子忠兼も応じて、高氏軍に属して幕府軍と戦った。それらの功により、父忠藤に下揖保荘地頭職が安堵された。
かくして建武の新政が発足したが、新政の施策に失望した多くの武士たちは、武家政権の再興を望むようになり足利尊氏に期待を寄せるようになった。そして、中先代の乱をきっかけとして尊氏は新政に反旗を翻し、時代は南北朝の対立へと進んでいった。忠兼は尊氏方に味方して、赤松円心とともに白旗城に籠城して、新田義貞軍と戦った。以後、島津忠兼は赤松氏との関係を深め、やがてその麾下に属して各地を転戦、尊氏から新たに布施郷の地頭・公文・下司職を与えられた。
乱世を生きる
南北朝の争乱期を武家方として活動した島津氏は、播磨の国人として一定の勢力を保ち足利幕府にも仕えた。室町時代になると、播磨守護職は赤松氏が世襲した。ところが、幕府は強大化した守護大名を牽制するようになり、大内氏、一色氏らが粛正された。そのようななかで、赤松氏も安泰ではなかったが、よくその地位を守った。しかし、嘉吉元年(1441)、追い詰められた赤松満祐は足利義教を殺害、嘉吉の乱を起した。
播磨に帰国した満祐は、城山において幕府の討伐軍を迎え撃ったが敗戦、赤松氏宗家は滅亡した、この嘉吉の乱において、島津氏は赤松氏に味方して勢力を失墜させることになった。その後、赤松氏が再興されると、島津氏も復活して赤松氏のもとに馳せ参じた。
応仁の乱の最中の応仁二年(1468)ごろ、山科家領播磨下揖保荘の代官職は佐用村家が務めていた。その後、下揖保庄の代官職は村家から幕府奉公衆の島津忠光に替った。村家は同庄の年貢のうち五百疋を島津氏から受け取る条件で、代官職交替に応じたらしい。こうして、島津氏はふたたび下揖保荘を支配するようになったのである。また、『東山殿時代大名外様附』によれば、三郎左衛門尉忠光は幕府奉公衆(三番衆)に列せられている。
赤松氏を再興した政則は、播磨をはじめ美作・備前などの守護に返り咲いたが、播磨・備前の奪回を目論む山名氏との間で抗争を繰り返した。そして、文明十七年(1485)、播磨片島の戦いが起り、島津左京亮は浦上掃部助らとともに戦死している。
やがて浦上氏が赤松氏を凌ぐ勢いを見せるようになると、島津氏は赤松氏に味方して浦上氏と対立した。天文三年(1534)八月、忠長は赤松二郎(政村)に味方して浦上氏と戦い、播磨揖東郡朝日山の合戦で討死を遂げた。享年三十四歳という。朝日山の合戦は激戦で、櫛橋左京亮・上月右京亮など多くの赤松重臣が戦死している。忠長の戦死によって越前島津氏は断絶したようで、布施郷・下揖保庄も闕所地として赤松氏に没収されたようだ。
島津氏余話
その後、天文二十三年(1554)、島津新九郎が赤松晴政から布施郷・下揖保庄の地頭職を還付されている。新九郎は忠長の子ともいうが、系譜上のつながりは不明である。とはいえ、新九郎が赤松氏から島津氏家督として認められたことで、越前島津家は復活をとげたのである。しかし、以前のような幕府直臣というものではなく、越前島津氏は完全に赤松氏の被官という立場であった。
その後、新九郎は永禄十二年(1569)に赤松政秀と小寺政職とが戦った青山合戦に参戦して討死したと伝えられる。一説によれば、朝日山の合戦で戦死した忠長には遺児忠行(忠之)があって、忠行は天正三年(1575)に小寺政職と戦って戦死したという。新九郎と忠之は同一人物と思われるが、そのことを裏付ける史料はない。
播磨島津氏の伝によれば、忠行の子義弘は帰農して郷士となり、その子孫は薩摩の島津氏から一族として認められ、参勤交代が通行する際に礼装して挨拶に出るのを例としたと伝えられている。一方、越前島津氏は江戸時代に至って、薩摩島津氏によって再興された。しかし、それは播磨下揖保庄を基盤とした島津氏とは別のものであった。・2006年09月12日
関連リンク…
●薩摩島津氏/
●信濃島津氏
【参考資料:兵庫県大事典/龍野市史/兵庫県史 ほか】
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