二木氏
三階菱
(清和源氏小笠原氏流)
二木氏は小笠原氏一族として、小笠原宗家に忠節を尽くした。家紋は『溝口家記』によれば、 「松笠菱にちぎり」と記されている。同書には小笠原氏御家中添文として、赤沢・下条・溝口氏らの紋も記されている。 小笠原一門の諸氏は、いずれも松笠菱にそれぞれ独自の紋を組み合わせているのが特長的で、 家紋から嫡庶の区別が知られて面白い。
■御家中添文
左上から
●松皮に十文字 赤沢●松皮に梶の葉 下条●松皮に九曜 標葉●松皮に左巴 下枝●地黒の松皮 於曽 ●松皮に舞遠雁 櫛置●松皮に木瓜 折野●丸の内松皮 坂西●松皮にちきり 二木●松皮に檜扇 山中 ●松皮に井桁 溝口●松皮に釘貫 三好●松皮に鏑矢 高畠●松皮に日雲 一宮●松皮に地黒菱 板垣 ●松皮に筋違棒引 島立
■御宿老衆幕之文
左上から
●石畳 犬甘・平瀬・島●舞違の鶴 後庁●梶の葉 山辺・西牧●瓜 松岳(松岡)●揚羽蝶 仁科●上文字 村上
・家紋の図版は想定して掲載したものもあります。正しい家紋をご存知の方ご教示ください。
ところで、中世武家の家紋を知る史料として有名な『羽継原合戦記』には、 「二木はちきりを打つ」と出ている。打つとは付けるの意であり、室町時代の中期に二木氏の家紋が「ちきり」であったことが知られる。 二木貞明は持氏没落後の永享十二年(1440)に起こった結城合戦に守護小笠原政康に従い、その先陣を務めたという。このことから推して、『羽継原合戦記』にみえる二木氏は小笠原氏に従って出陣した貞明と想像され、 それが記録されたものと考えられる。 しかし、『溝口家記』が記すように、戦国時代に小笠原長時が重高らの忠節に対して「二木之名字被下」れた、という記述が正しいものとすれば永享当時、 小笠原氏流の二木氏は存在しないことになる。いずれが正しいのかは、いまとなっては探るすべもないが、『溝口家記』・『羽継原合戦記』ともに「ちぎり」と記していることから 二木氏は「ちぎり」を家紋にしていたとみてまず間違いないだろう。
・右家紋:千切り
ところで、『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、永享七年(1435)、鎌倉公方持氏が幕府に加担した長倉遠江守を追罰したときの戦記物だが、 全国諸豪が勢ぞろいしそれぞれの陣幕の紋が列挙されている。 ちなみに同書にみえる信濃出身と思われる武士の名字と紋はといえば、「地黒菱は板垣。松皮に釘貫は阿波の三好かもん也。一宮は日雲也。左巴は下枝の紋。まひ違い雁は櫛置のもん。 下条は梶の葉。折野は木瓜。板西は丸のうちにまつかはのもん也。山中は日扇。溝口は井桁。但三葉かしを打事も有。高畠は違かふら矢。 二木はちきりを打。松岡は瓜のもん也。赤沢は松皮に十文字。九曜星は標葉也。山辺。西牧は梶の葉を打。犬甘平瀬島は一党石畳 後聴其外。」など が記されている。それぞれ、『溝口家記』と共通するものが多く、 記録の真偽はともかくとして中世武家の家紋を知る貴重な史料となっている。
[小笠原一族・家中武家伝]
二木氏
溝口氏
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