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溝口氏
松皮に井桁
(清和源氏小笠原氏族)


 戦国時代、信濃国の有力大名である小笠原氏に仕えた溝口氏がいた。『信濃史源考』によれば、溝口氏は小笠原氏の分かれで、小笠原政長の子孫三郎氏長が伊那郡溝口郷を領し、地名をとって溝口氏を名乗ったのが始まりだとしている。氏長以後、宗家小笠原氏に仕えて数々の戦いに出陣し、秀重は持長に属して漆田原合戦において戦死、貞信は長朝に属して松尾矢賀沢の戦いにおいて戦死したが、そのとき、嫡男孫三郎、二男の房八郎も貞信とともに戦死した。このように、溝口氏の歴代は小笠原氏に命を捧げてきたのである。
 貞信の三男(系図上で)美作守長友は、小笠原長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えた。当時、信濃の隣国の大名であった武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。

武田信玄の信濃侵攻

 天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いている。天文十七年(1548)二月。上田原において、村上義清と晴信が戦い、晴信軍に大勝した。この勢いをかって、小笠原・村上・仁科・藤沢の連合軍は諏訪に討ち入った。これに対し、晴信は甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。
 翌十八年四月、晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、二木一族、犬甘、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を守ることもかなわず、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。
 天文十九年になって、府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し、安曇群に入り氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らに人数が参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県郡の守りが破られることを恐れ、軍を川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。かくして両軍は野々宮において会戦し、小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。
 しかし、すでに大勢は定まっっていて、長時は開運の見込みがないとして、自害をしようとはかった。これをみて、二木豊後守重高は諌止して、二木氏の築いた中洞の小屋に逃れることを勧め、二木重高もそれに随った。以後、文二十二年まで、小笠原長時は二木一門の守る中洞の小屋で武田軍の攻撃を凌いだ

小笠原氏に忠節を尽くす

 この間、野々宮合戦に敗れて村上義清の許に滞在した長時に対して、長勝は鈴岡から援助を施した。この長勝の行為に報いて、長時は右馬助の官途と「吉光の御脇指、小狐と申し御弓」を下賜したと伝える。そして、天文二十三年(1554)長時は中洞の小屋を離れて、越後上杉氏を頼った。その後、長勝は長時を迎えて信定の拠る鈴岡城に至ったが、伊那方面の反武田勢力の一掃を期していた晴信に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。
 長時の上洛に従い長勝は父長友と共に従い、京畿にあっては長時が頼みとした長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓した。ここにおいて、長友は七十二歳で討死、長勝も同城において死去したと『御家中由緒書』に記されている。
 その後の溝口氏は、長友の八男の貞泰が継いだ。貞泰は、天正十年(1582)三月、武田氏の滅亡を機に、長時の子貞慶がが府中回復を窺って西牧の金松寺に現れた折、既に貞慶に供奉しており、その後も一貫して貞慶の深志への復帰実現のために尽力した。同年七月、貞慶の松本入城後は、貞慶の股肱の臣として貞慶の意を体して、貞慶旗下の将士に戦功を励まし、所領を宛行い、あるいは検地役を勤めるなどの所務沙汰に関与した。一方、天正十年八月の日岐城攻撃には侍大将として出陣する働きをみせている。
 それら貞泰の功労は、天正十一年三月二十四日付の貞慶宛行状案中に「数代之忠節、殊更別シテ五ヶ年の奉公ニ依ル」という文面からも窺われる。このように小笠原貞慶と溝口貞泰との君臣関係は、天正十七年(1589)九月三日付で貞慶が貞泰に送った起請文中に「心をおカす可被申候」とあるような、隔心のない親密な間柄であったことが偲ばれる。

参考資料:戦国大名家臣団事典(新人物往来社刊)/信濃史源考 ほか】


溝口氏の家紋

 戦国武将の溝口氏として、近世新発田藩の大名となった家がある。こちらの溝口氏は、清和源氏武田氏流を称し、その家紋は「掻摺菱」とよばれる「松皮菱」を変型させたようにみえるものである。
・掲載家紋:掻摺菱
 一方、小笠原氏に仕えた溝口氏の家紋に関しての一資料としては、『羽継原合戦記』があげられる。『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、永享七年(1435)鎌倉公方持氏が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、そこに全国諸豪が勢ぞろいしたときの陣幕の紋が列挙されている。これが当時の紋を知るうえで重要な手がかりとなっている。
 同記には小笠原氏のことも記され、二木、望月、西牧、下条、坂西、赤沢、そして溝口氏らの信濃に関係する武士の 家紋が多く取り上げられている。そして、そこに記された溝口氏の場合、「溝口は井桁、但し三つ葉柏を打つこともあり」 と記されている。井桁、三葉柏ともに清和源氏とは比較的縁が少ない家紋と呼べるものだ。  一方、近世初頭に書かれた「溝口家記」という記録には、小笠原氏に属した武将たちの家紋を記した部分があり、  家記によれば、溝口氏の家紋は「松笠菱に井桁」であったことが知られ、さらに、家記に記された諸将の家紋 の記述を長倉追罰記のものと比較してみると驚くほど共通している。

・掲載家紋:三葉柏

●二木氏の家紋─考察




■参考略系図
・下記系図は『信濃史源考』に収録された系図を底本として作成しました。



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