信濃国安曇郡住吉庄は、その昔、院御領であった。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)八月、北条高時の遺子二郎時行が諏訪氏らの後援を得て挙兵し、東国はおおいに乱れた。これに対し、足利尊氏は鎌倉を征討して、北条勢を一掃した。世にいわれる「中先代の乱」である。この合戦に、小笠原貞宗は尊氏に従い、信州各郡の北条方の武士を征討した。その軍功によって、尊氏から住吉庄の地頭職を与えられた。 その住吉庄の一郷に二ツ木郷があった。貞宗の四男小笠原七郎政経は、興国六年(1345)八月の天龍寺供養に際して、尊氏の随兵として名をあらわした。この政経が住吉庄内の地頭職を分与され、二ツ木郷に居を構えた。その後、世代を重ね小七郎貞明に至って、二木を家号にしたという。 とはいえ、『溝口家記』によれば、二木氏は安曇郡西牧の地に割拠し、その苗字は天文十九年(1550)十月の野々宮合戦後に、小笠原長時が二木氏の居城中塔城に篭城したとき、重高らの忠節に対して「二木之名字被下」れたことに由来するとみえている。 いずれにしろ、貞明は、永享十二年(1440)の結城合戦に際し、小笠原政康に従い、その先陣を勤めたという。以後、二木氏一門は、小笠原氏に従って戦乱の時代を生き抜くことになる。 戦乱のなかの二木氏 天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いている。天文十七年(1548)二月。上田原において、村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により四月、村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。ついで六月、小笠原勢が再び討ち入り、さらに七月、三たび討ち入ろうとした。 この諏訪討ち入りに際して、二木豊後守重高、弟の土佐守政久、同六郎右衛門宗末らの二木兄弟三人をはじめとした二木氏一門が従軍した。四月、諏訪郡代板垣信形の館を囲み、開城の交渉に入ろうとしたとき、仁科道外が戦線を離脱した。これは、仁科氏が諏訪支配を目指したのに対して、長時がその要求を拒んだことに対する腹いせであったという。 間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。この塩尻峠の合戦には弟政久、宗末ら二木一門の者と長時に就いて武田軍を迎え撃ったが、合戦の大詰めになって武田晴信方に寝返り、長時敗戦の主因を作ったといわれる。 翌十八年四月、晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、二木一族、犬甘、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を守ることもかなわず、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。 ・二木一族らが籠って武田氏に抵抗した小笠原氏の居城-林城祉 天文十九年になって、府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し、安曇群に入り氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らに人数が参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県郡の守りが破られることを恐れ、軍を川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。かくして両軍は野々宮において会戦し、小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。 小笠原氏に節を尽くす しかし、すでに大勢は定まっっていて、長時は開運の見込みがないとして、自害をしようとはかった。これをみて、二木豊後守重高は諌止して、二木氏の築いた中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後、晴信は中洞小屋に攻め寄せたが、落とすことはできず天文二十二年まで、二木一族は長時を守ってよく武田方の攻撃を防いだ。 とはいえ、その間武田氏の信濃攻略は着々と進み、ついには伊那郡の諸武士のほとんどが武田氏に降り、属さないものは国外に退去し、松尾、下条両家も長時を援けることはできず、村上義清も川中島に去っていった。 かくして長時は万策尽き、二木一族の守る中洞小屋を去って越後の上杉家を頼ることに決した。二木氏一門は、長時の深志回復戦となった前述の野々宮合戦から、越後の上杉氏の許に流寓する(1554)まで、重高は一門を挙げて物心両面にわたる援助を長時に加えたのである。 重高の嫡子は重吉で父と同じく豊後守を称した。天文十四年(1545)四月、伊那郡に侵攻した武田晴信に対抗した藤沢頼親を赴援した小笠原長時に従って初陣を飾った。以後、父の重高とともに長時のために尽力したが、武田氏の府中制圧後は、晴信に許されて一族とともに二木郷に居住した。 天正十年(1582)三月、織田信長によって武田氏が滅ぼされると、深志城再入部の本懐を抱いて西牧の金松寺に至った小笠原貞慶の許に、子の重次、弟の盛正ら二木氏一門の者を引き連れて参向した。しかし、貞慶が深志城入城を果たさないままに上方へ退去したため、重吉はこの時深志城主となっていた木曽義昌に娘を人質に差し出して、その被官となった。 その後、織田信長が本能寺で横死すると、越後勢の後援を得て深志に入部していた小笠原貞種を弟の盛正らと画策して攻略し、貞慶の深志復帰を実現に導いた。天正十一年(1583)八月、西牧氏を討滅した貞慶から、西牧領の上司代官職に任命され、さらに、翌年四月の貞慶による麻績城攻撃に際しては、松本城の留守を命じられた。ところが、麻績城攻略戦において、貞慶は麻績城主下枝氏を援けた上杉軍の前に大敗を喫して窮地に陥った。 このとき、松本城を守備していた重吉は貞慶を救うべく策をめぐらし、松本の市人および近郷の農民数千を集め、かねて用意していた紙旗をかれらに持たせて援軍に見せかける奇略を弄した。これによって、漸く貞慶を死地から脱出させることに成功したという。その後、重次は旗本足軽大将格とない、天正十二年頃に、千見城在番衆として任命されたことが『岩岡家記』に記されている。 その後の二木氏 その後も、二木氏は小笠原氏に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊は、犬甘半左衛門久知と並んで、小笠原家の城代となり、三職も務めた。天正十八年(1590)貞慶の跡を継いだ秀政は下総古河三万石を賜り信濃国を離れた。このとき、秀政は安曇郡西牧の材木を伐り出し、新封地に搬送した。そして、その奉行は二木氏が務めたことが記録に残されている。 【参考資料:戦国大名家臣団事典(新人物往来社刊)/信濃史源考(長野県立図書館蔵書)ほか】 *写真はお城の旅日記さま、帰去来兮さまのページから転載させていただきました。
■参考略系図 ・下記系図は、信濃史源考に収録された系図を底本として作成しました。 |